廃病院の口裂け女4
月夜闇に照らされた白い看護婦は、大量の返り血を浴びながら一切汚れていない。
派手な音を立てて警備員が倒れる。切り刻まれた背中は服だけでなく肉まで裂けて血がとめどなく溢れている。内臓のいくつかまで切り刻まれているのか抉れた面の複数箇所から血がピュッと吹き出ている。
すぐに死ぬであろうそれに、口裂け女がトドメと言わんばかりにメスを深々突き立てた瞬間が皮切りになった。
「いやあああぁぁぁっ!」
女が叫んで走り出す。向かったのは二階だ。それを金髪の男が無言で追いかける。
「っ! どうしよう、ミカ!」
『ふ、む、方針は変えない。待合室の調査だ。どのみち髪人形を前にすれば彼奴と戦うことにもなろう』
焦っている艶香に対してミカは冷静そのものだった。その態度に少し安心し艶香は廊下を駆け出した。
廊下は右手側に階段があって、入口ホール、トイレ、待合室、そして突き当たりに緊急看護を行う部屋がある。左手側にもエレベーターなど諸々あるが今は割愛。
入口ホールに差し掛かったところで腕を掴まれたから。
血の気が引いた顔で艶香が振り返ると、腕を掴んだのは黒髪の男だった。
「落ち着いて。一人でいるのは危ない」
全くもって余計なお世話だが、顔面蒼白ながら心配してくれる男を無碍にすることもできず艶香は曖昧に頷いた。だが気になるのは彼の背後だ。
艶香の視線に気付いてか、男も軽く背中側を見たが、どうやらそれが彼にはわかっていたらしい。
「大丈夫、あれは消えたみたいだ」
「……ミカ、本当?」
『少なくとも今は、ね』
小さな声でミカに問いかけると、答えはそのように。
『この病院が彼女の領域である以上、どこにでも現れると思う。けど瞬間移動していきなり攻撃するわけじゃない。常時発現できずまばらに攻撃してくるタイプってところかしら』
絶対そうとは限らないが、という言葉をミカは言わなかった。上の階に逃げた二人を追いかけただけという可能性もある。とすれば耳をつんざく絶叫の一つもないから可能性としては低いが。
『髪人形の傍と、彼女の病室は例外ね。思い入れの強い場所とか、力の根源である髪人形の傍は死ぬ気で襲ってくる。なんて、もう死んでいるのだけれど。クカッ』
「笑えない……」
ぐいぐい、と男が艶香の腕を入口ホールに引っ張って行こうとする。入口は内側から鍵を開けられるのだろうか、と見ても鍵の必要な自動ドアにしか見えない。ははあこの男、錯乱しているな?
艶香は死体を、そして怪異を見た直後ながら落ち着きを取り戻した。自分より冷静なミカと自分より錯乱した男がいるおかげで冷静に自分を見ることができた。
「お兄さん、玄関からは出られませんよ、あれじゃ」
「な、あっ、で、でも」
「逃げるならあの窓じゃないですか?」
「それは! 流石に!」
怪異が出た窓から逃げる、というのは誰だってしたくないのが人間の心というものだ。
がそれこそ怪異の罠なのかもしれない。全員が窓を開けて逃げれば逃げ切れる可能性は充分ある。現に口裂け女を見たという風説はそうして逃げた
人によるものかもしれない。
「というか君は逃げないのか⁉︎」
「…………えーっと」
艶香は髪人形をちらりと見てから、男の方へ向き直る。
「……あれを倒しに来たんです」
『言うの? それ』
「まあいいかなって」
頭がおかしいと思われれば自分のことなど放って逃げてくれるだろうし、信じたら自由にしてくれるだろう。
すると突然、髪人形がぴょこぴょこと艶香の肩から肩へと動いて踊り出す。ミカがその間何も言わなかったのは、どうも集中しているというわけではない。
この髪人形の独断、らしい。勝手に動いたことに驚いたのは男だけでなく、艶香自身もだ。
だが男は大声をあげなかった。先程の口裂け女に比べれば手品のようなもの。
それでも信じるには値する。
「……手伝ってもいいかい?」
「え? えなんで!?」
「君の側が一番安全そうだ」
『そんなことないがのう。まあ肉壁にでもしてやるか』
「ミーカー?」
こうして男・市山雅臣が調査に加わることになった。
―――――――――――――
待合室は要は看護婦の詰所のような場所で、ソファやテーブル、棚などがある他に奥に仮眠室まであった。
ここを調査している間に艶香と雅臣は互いのことを話した。艶香はほとんど記憶がないけれどミカと出会って初めて怪異を祓うことになったこと。けれど様々な案はミカが考えてくれることなど。
雅臣からは肝試しする気満々だった栄太たちが心配で渋々着いてきたこと、女性の方は河野都ということなどを聞いた。特に重要ではない情報だ。
「……にしても、君も専門家というわけじゃないんだな」
『ビビったか? 無理せず尻尾巻いて逃げてもいいんだぞ?』
ミカが高圧的に言うと、雅臣はぐ、と動きを止めた。まだ髪人形が喋るのに慣れたわけではない。
空気が悪い――と感じるのは、二人の相性が悪いからではない。この空間も二階の病室と同じほど空気が淀んでいる。何かがあるのだ。
「……あ、そういえばこれ、何かわかります? ナイフみたいなんですけど」
調査中、思い出したように艶香が雅臣に尋ねた。それを手に取った雅臣は興味深そうに眺め回した後、あっさりと言い当てた。
「メス、ってやつじゃないか? あの口裂け女が使っていたのと同じみたいだが……どこでこれを?」
『メス……お、ほんとじゃ。画像検索で似たようなのが出よったわ』
その名前を聞けば、艶香も得心行った。といっても、医者が使う刃物、という程度の理解だが。
『ま、それはお主が持っておけ。それなりに霊力が宿っておるしあの女に通用するかもしれん。丸腰よりマシじゃろ』
「いいの? そんないわくつきなの危なくない?」
『怪異にぶつけるならいわくつきのがいいじゃろ。いかに霊力があれど急にぶつければ毒そのものよ』
へー、と艶香と雅臣はそのメスを見つめた。懐中電灯の光に当てられてきらりと光る刃物は、その時に邪悪を祓う輝きがある風に見えた。
と、すぐにミカが反応を変えた。
艶香が棚の下部にある引き戸を開けた瞬間である。
『ツヤカ、そこになにがある?』
「なに……って、小物入れかな。なんか色々入ってる」
『霊力だけでは見えないほどドス黒いものがある。髪人形かもしれん』
「本当!?」
艶香は興奮したようにその小物の入った段ボール箱を引っ張り出して中を漁る。髪人形など見ればすぐにわかる。それを艶香の肩にいる髪人形に渡せば怪異を祓うことができる。興奮で、雅臣も距離を近づけて一緒に段ボールを覗き込む。
『馬鹿者! 奴の最優先事項は髪人形じゃ! 探ればすぐにこちらに来るぞ!!』
同時だった。ミカが叫ぶのと、その場の空気が一段と重くなるのは。
振り返ってメスを構えた雅臣の顔があっさりと斬られた。血が噴き出る顔を抑えてのたうち回る。
『アアアアアアアアアアアアア!!』
「ひっ!」
体の芯から震わせるような絶叫、口が裂け目を剥いた口裂け女がそこに、血の流れるメスを持って立っていた。
骨も間接もないような不自然にねじれた腕を振り上げて、白い切っ先が振り下ろされる。
艶香は咄嗟に手に持っていたものを盾にした。
『ツヤカ、それは……』
パキィン……と、甲高くも切ない音が響いた。金属と金属がぶつかったとは思えない柔らかささえある音に、ミカと、口裂け女が動きを止めた。
艶香が盾にしたのは、手鏡であった。
そして奇妙な音の正体は、その手鏡と、口裂け女の右腕が砕け散る音だった。
『ア、ア、アアアアアアアア!!』
『ツヤカ! 今のはなんだ!? 髪人形ではないのだな!?』
「う、うん、鏡だよ鏡! 卓球のラケットみたいな手鏡!」
ぼろぼろと言葉が出てくる、髪人形はざわざわと解けているし、口裂け女は腕がなくなっているというのに天を見上げ、茫然と動きを止めているようだった。その場で声を上げているのは痛みに喘いでいる雅臣だけであった。
『鏡……。そういえば階段の踊り場でも病室でも砕かれていたわね。大方自分の醜い顔面に耐えられず自分で叩き割ったのね。弱点発見♡』
「……そ、そうかな。なんか……」
艶香が言葉を濁すと同時に、ミカもその異変に気付く。
異変に気付いているのは二人だけでなく、既に痛みに喘ぐこともせずがちがちと歯を鳴らして震えている雅臣も気付いていた。
空気が遥かに重くなった。髪人形師を前にして平然としていた艶香でさえ、圧倒的な黒い霊力と殺意を前に微動だにすることさえできないほどに。
『……そうか。最大の弱点を、腕一本で破壊させてしまったか……!』
髪人形が急に膨張し、その髪の毛で口裂け女の全身に纏わりつく。これほどの力と、黒い力が溢れることに艶香は再び驚いた。この邪気は目の前の口裂け女とそう変わらない。それが、ずっと傍にいたことに背筋が凍るほどに。
だがそれでも口裂け女は、片腕であっさりと振り解いた。
『雅臣、メスを使え! 艶香は霊力で! 私が動きを一瞬止める!!』
髪人形が再び髪を伸ばす。先ほどと違い収束し一本の槍のような形になり、一突き、鋭く伸びた。
それを口裂け女残った方の手のひらで止めた。
この一瞬の間、二人は怯えて動けないままであった。
『……! 役立たず共が!!』
髪の槍は、強く握られると砕けた。それに対応してか髪人形の右腕がはらりと舞った。力の何割が失われただろうか。
雅臣と艶香の絶望は変わりない。ミカがどう抵抗しようと、既に、怯え切っているのだから。
――だが、怪異は動かない。
『……ア、カミ、カミ……』
それだけ言い残すと口裂け女は霧のように消え去った。
命が助かった、そう誤認して艶香がほっと一息吐いた瞬間。
上階から絶叫が響いた。
手鏡
怪異口裂け女に生前使われたどこにでもあるごく普通の手鏡。
これを覗いて一人の悲劇の女性はショックのあまりに人間の精神が失われ狂気に陥り、そのまま看護師を殺し、医者を殺し、自殺したという。
怪異化の発端であると同時に怪異を殺すための特別な力を得た手鏡であった。