廃病院の口裂け女3
市立Y病院、三階建てで南棟と北棟からできたこの建物の、怪異に蝕まれているのは北棟である。
入口ホールからエレベーターや階段で上階に移動できる。部屋は十八、最大収容人数は六十に満たない。個室と複数人部屋が各階にあり、三階に子育てのための保育施設キッズルームというものがあり、二階には亡くなった人の送別の待合室、一階には看護師の待合室などその他の部屋がある。
『どこから調べるかだが……口裂け看護師の死んだ病室が二階らしい。勤務先でもあったため一階の看護師待合室でもいいと思うが……』
「先に二階に行くよ。本命っぽいし」
ちょうど目の前に階段もある。暗闇に慣れない目と、蒸し暑いはずなのに体の芯から凍えるような恐怖心を、小さく咳払いをして呼吸を整える。
空気の重さは、むしろ髪人形師の傍の方が居苦しい。それでも死の危険がそこかしこにあるという状況が艶香の心の臓を縮こまらせる。
一段、一段を警戒しながら歩を進める。幅が広くリノリウムで歩きやすいはずの階段が、今までの階段で最も緊張してしまう。
階段を上って踊り場、非常階段である緑の光だけが見える。照らされた地面には砕けた鏡が足元で光る。
背中側を、二階側を確認して、何もいないことを確認する。懐中電灯でゆっくりと一段ずつ照らして、何者かに見つからないように警戒して、再び階段を上った。
『ツヤカ、緊張感があるのはいいが、体が動けるようにはしておけ。体が硬すぎる』
「わ、わかってる」
緊張して言葉が震えているからあまり説得力はない。階段を上るのだって一苦労な様子なのに全力で走って逃げられるとは到底思えないところだ。
だが、確かにこのままではいけない、と艶香は一歩、俊敏に踏み出した。
「うん、大丈夫、動けそう」
てくてくと二階に上って辺りを見回す。また夜闇の中でも、窓から刺す月明りがある程度の展望を許した。
口裂け女こと、事故で死亡した女は飯島明子と言った。彼女が死んだ病室、二〇三に辿り着いた。
「……どう?」
『なんといえばいいか。邪気は強い。おそらく怪異の拠点の一つだ。だが気配はない。髪人形も、怪異も』
「……そっか。じゃあ下の方探す?」
『いや、この部屋を調査する。いないうちに弱点の一つでも知れるかもしれない』
「えぇ、平気かな。戻ってきたりとか……」
『一番危険なのは髪人形の傍だ。髪人形の力を得て怪異と化しているのだからな、その分強くもなろう。……だが、彼奴は案外私たちが来たことで髪人形を守るためそっちにいるのかもしれん。であればここらが調査し放題だ』
ミカの言葉には説得力があって、それならば、と艶香は扉を引いて中を覗き見た。
部屋は入口から奥にカーテンレールが見えて、その奥にベッドがあるらしい。それまでの空間は広くあるが、ズタズタに壊れたソファ、鏡の砕けて半分割れた洗面台、倒れた植木鉢にガラスの割れた本棚などが置いてある。
待合の部分と寝台が分かれた個室の部屋であるらしい。
ゆっくりと興味深く確認しながら、閉められたカーテンまでの距離を詰める。
何もいない、とミカは確信して言ったが、そうはいってもこのカーテンを開いてベッドを見るというのはまた緊張を要することであった。
ソファはとても座れたものではない。床は植木鉢の土で汚れ、洗面台は顔を映すこともできず水を流せば床に零れるほどに壊れている。本棚に並んだ本のタイトルは長く見ていないが、セラピーや自己啓発本のような類であるらしかった。ありていに言えば、こういう病院にありそうな類の。
「……じゃ、あ、開けるよ」
『何もおらんから安心せい』
ミカから改めてそう言われると、安心して艶香はカーテンを引いた。
中には動いていない機械と、それパーツが無造作に散らばったパイプベッドがあった。布団の部分は既に持ち去られたのか、命のない骨組みだけが残っている。
他には艶香の目には壁に刃物でつけたような傷があるのが視線を引いた。
「……弱点、わかる?」
『……暴れた形跡があるな。壁のものだけではない。寝具にも傷がついておるし、ふむ、あの棚や植木鉢や鏡も彼奴めが暴れて壊したのかもしれん。傷からは奴の力を感じるからな』
髪人形が滔々、呟く。そんな力を艶香は何も感じないが、そんなものかと適当に納得した。
問題は弱点だ。それが見つからなければ調査の意味がない。
少し勇気を出して、艶香はベッドの下を覗いた。すると懐中電灯に何か光が反射した。
「ん……ミカ、何かあったら守ってね……」
『うむ。その必要はないと思うが』
手を伸ばして、それを拾おうとする。何か薄い金属のようで、地面に擦りながらゆっくりと引っ張る。
そして手元まで引っ張って改めて確認する。
「……ナイフ?」
「ドスにしては細っこいの。見たことのない形状じゃ」
カッターナイフのようにグリップがあるが、肝心の刃物部分はむき出しで全体の八分の一と言ったところだろうか。切れる部分が少ないが、繊細な作業ができるだろう。
『だが霊力は感じる。持って行って損はないじゃろ』
「危なくない?」
『なに、最悪ぶん投げればよい。霊力あるものなんぞ適当に使っても怪異は嫌がる』
「そういうものなんだ」
『だんだんわかってきたの? クカカ』
雑なことを覚えてしまった。ミカが雑なのだから仕方ない、と割り切ってその刃物を――メスを握って艶香は部屋を後にしようとする。
だがその時――
ドタドタドタ!!
「ギャッ!!」
『落ち着け。霊ではない』
どこからか音が響いた。部屋の中ではない。部屋の外、上の階か下の階か。
艶香は慌てて口を塞ぐが、その一度大きな音が鳴っただけで、特別何かが起きたわけではない。
では今の音はなんだったのか。
『下だな。これは……、人間だ。警備員が見回りでもしているのかもしれない』
「え、危なくない?」
『最悪死ぬだろう』
あっさりと言うミカに、艶香は次の言葉を出しあぐねた。
助けるべきなのだろう、とは思うが、未成年の自分一人が何を言ったところで信用されるとは思えない。
「ど、どうしよう。どうしようミカ」
『助けるのは無駄だ。いや言葉が悪かった。早く髪人形を探して奪った方が確実だ。誰かを庇いながら戦って勝てるとは思えん』
「どこにあるかわからないの? 髪人形」
『わからん。少し待て。考える』
「そんな時間……」
『待てと言っているだろう!』
突然の危機的状況であっさりと二人の会話は決裂し、関係は瓦解した。そうは言ってもミカは考えるし、艶香も考える。
「……とりあえず下に行く。看護師待合室で髪人形を探して、そのついでで下の人の様子を確認できたらする」
『……同じ結論だ。検索や掲示板でも口裂け女が三階の施設に関わることはなさそうだ』
そうと決まれば、すぐさま艶香は階段を目指した。この病院に来てから一番の速さだ。
だがすぐに大きな音の正体が見えた。階段の下、一階のところに三人組の男女が立っていた。
「……あ、に、人間?」
「うわっ! 口裂け女!? ……じゃねえわ、口裂けてねえ」
「でもおかしくない? なんでこんなとこに一人でいるわけ?」
金髪の女と金髪の男と黒い髪の男、全員高校生か大学生くらいに見える。軽装で荷物は多くない、肝試しに来た興味本位の男女、という風に見える。
向こうからはどう思われているのか、と一瞬考えたがその余裕もない。
「どうしようミカ、あの人たちを家に帰す方法みたいな……」
『知るか。デカい声でも出せ』
「うわあああああああ!!」
「きゃ、びっくりした」
女がそう言うだけで特に効果はなかった。
どうも三人は艶香が入ってきたあの窓から入ってきたらしく、驚いたからと窓から出て行くわけもないのだ。
戸締りしていなかったことに後悔しつつ、すっかり説教モードになった男たちが近づいてくるのを、艶香は諦めて耐えた。
『……いや、こんなことしている場合では……』
「でもどうしようもないよ」
「ちょ、とりあえず降りてこい」
「おい、あんまり怖がらせるようなこと言うなって。年下の女の子一人だぞ」
「つってもふざけてんでしょ、あいつ」
若者たちは言い争っているようだが、とりあえず艶香は三人の前に立った。
髪人形は一階にあると予想したのだ。この三人を放置して上階に逃げることもできないし、ひとまずおとなしく従うしかない。
男二人はこちらを一瞥するも何かを話し合っている。その間に女の方が艶香に近づいてきた。
「ね、なんでこんなとこにいたわけ?」
「それは、その」
なんて答えようかと少し考える。口裂け女を見に、というのだとその通りなのだけど、見に来たわけではない。
その答えが一つできた。
「これ、探しに来たんです。髪人形」
「……髪? うわキモ」
肩口から引っ張り出した髪人形を見せると、女は距離を開けた。髪の毛で作った人形など、不気味でしかない。
「エイちゃん、まーくん、この子も肝試しっぽいしヤバいしもう帰んない? 眠くなってきちゃった」
「えなんでだよ。せっかくここ来るって話してたじゃん」
「いや栄太、もうお前だけだ。多数決で帰る二票、もう帰ろう」
艶香の関係ないところで話が進んでいく。どうも肝試しに乗り気だったのは金髪の男・栄太だけで、女はどうでもよさそうで、黒髪の男はどちらかと言うと止める側だったらしい。
が、その黒髪男は艶香の方も見て言った。
「君ももう帰るんだ。補導される時間だぞ」
「うえ……」
「ほーおそうか。そういう年齢か」
突然、窓の外から枯れた男の声がした。
全員が一斉に振り返り窓の外を見つめ息を飲む。窓の外の人影に言葉をなくす。
「お前らみたいな遊び半分で肝試しするやつがいるからな、俺たちみたいな警備員がいるんだ! そこを動くなよ、全員とっ捕まえて警察に突き出してやる!」
「……あれって……」
黒髪の男がぽつりとつぶやいた。
指さす方は、窓の外の警備員――の少し右。
夜闇でも映えるような看護服に身を包んだ白い衣装、肌も白いがそれ以上に真っ白のマスクで顔を覆っているのが印象的だ。
疑問はいくらでもある。なぜ病院の外に看護師がいるのか。そもそも廃病院に看護師などいるわけないし、それが警備員の後ろに立っているわけもない。
どくん、どくん、どくん、心臓が徐々に早鐘を打つ。艶香はミカに尋ねることさえできず、けれど尋ねるまでもなくその正体は。
『外に……外にいたのか。だが、馬鹿な、ここまで近づかれるまで気づけないなど……』
ぞわぞわと肌が粟立つ。喉の奥がきゅうとしまって呼吸することさえも忘れている、瞬きすることさえも忘れている、ただ呼吸も瞬きもせずに、艶香はそれを見つめていた。
『ワタシ、キレイ?』
瞬間、全くありえないことだが――艶香は、いや誰もが魅了された。
「綺麗……」
艶香は呟いていた。肝試しに来た者たちも、女でさえも同様にその美貌をたたえていた。美しさを感じるはずもないのに、その瞬間だけは高尚な美術品を見るように息を飲んで称賛の声を上げたのだ。
「……あ? お前ら何を言って」
『いかん、許されぬ! こやつ契約を結ぶタイプの怪異! 全員取り殺される! 今夜中に祓わないと!!』
警備員の間の抜けた声と、ミカの必死な叫びが響いた。
それが鍵になったように、その看護師は――怪異・口裂け女はマスクに手をかけた。
『コ レ デ モ ?』
顔の半分を割るかのように避けた口。先ほどまであった美しいものを見た感動はなくなったというのに、あまりの恐怖に誰もが動くことができなかった。
だが、口裂け女が取り出した小さな刃物――艶香が二〇三で拾ったのと同じ刃物で警備員の体をずたずたに切り裂くと同時にようやく全員が逃げ去った。
警備員・小島正大
普通に一般企業に勤め、普通に仕事を定年退職したが、とりあえず働こうということで人手不足の警備員になった。
基本的に夜勤はしないのだが、肝試しでこの辺りに近づく人が多いらしく特別にこの日は働くことになり、運悪く死亡。
競馬と酒が趣味の、よくいるおじさん。酒癖は悪くはないがすぐに眠ってしまう。子供が二人と妻がいる。