髪人形師4,2 BADEND 愛の形・繭
「秋堂、さん、私……」
ツミと離れると、ますます心細くなる。
けれど艶香が選んだのは、逃げることだった。そう決めてしまうことには何度も躊躇したが、一度逃げることを考えてしまうともうそれしか頭になくなってしまう。
死にたくない、あの恐ろしいミカを見たくない。殺されたくない、逃げて、目を閉じている間に何もかも解決していたら――そんな夢みたいなことが起きてくれたら。
思い出も、何もかも知ったことではない。生きる、生きたい、生きていればきっとこの先もっと楽しいことがある。
「私は……」
ツミがぴょんと肩から降りる。そのまま、秋堂の傍に立った。
「タクシーがそこに止まったままだ。急げば乗れる。ほれ金。あとで返せよ」
秋堂に投げつけられたそれを受け取り、門の前のタクシーが走る前に急いで向かう。
もう、逃げることは決定した。
「お前、戦うの? ……そういやお前と一緒に戦うの二度目だな」
ツミは答えない。答えることはできない。
ただ彼女はありえなかった可能性としてのミカであり、その彼女は艶香の傍にいることよりも、艶香を生かすことを選んだ。
たとえ死ぬことになったとしても。
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艶香が訪れたのは二番目の怪異が現れたKEEP OUTの理髪店であった。
どうしてここに来ようと思ったのか、艶香にも判然としないが、相変わらず一通りもある中の不気味な建物は施錠もされていない。
中には時雨と出会った時のまま、荒れた店内に、砕けたマネキンの頭が落ちてあった。
髪人形があった棚も開かれたままで蓋のとれた桐箱が見えている。二階には上がらなかったが、店内というより理髪師の居住していた場所なのだろう。
そこまで行く必要はない。艶香の興味は理髪師としての道具にあった。
髪を固める整髪剤、髪を切るハサミ、理髪師と戦った時は、ツミを両断される事態にまで陥った。
ここにある道具は殺人理髪師の力を帯びているはず、だったらミカにも通用するのではないか。
そう、ハサミを手に取って、そっと置いた。
自分はもう逃げた身なのだ。今更ミカと戦うことを考えるなど、どうかしている。
きっと怪異のいた空間に身を置いて――いや、ミカと一緒だった時のことを考えて郷愁に打ちひしがれたのだろう。
外の空気を吸おうと、扉を開けると。
「……艶香、やはりここにいたか」
「っ!? なんっ……」
そこにいてはいけない少女がいた。普段の全裸と違い、髪で作っただろう真っ黒な着物に身を包んだ小柄な少女。
艶香は即座に扉を閉めて、店内を走った。目指しているのは、ハサミ。
手を伸ばそうとした瞬間、首に圧力がかかる。伸ばしていない左腕にも、強く髪の毛で縛られ、引っ張られる。
あと少しで届かない。伸ばした手は、指は空を握りしめる。あと少し、届けば。
「二階に逃げるわけでもなく、何を見ているの? まさかそんな桐箱に封印できるとでも思ってる?」
桐箱――これは封印だったのか、と艶香は気付いたが、確かにこの大きさではミカを入れることなどできない。
ミカは、しかも艶香を解放した。自分が何をするのか期待するように、どのように足掻くのか心待ちにするように薄ら笑いを浮かべている。
艶香はすぐに手を伸ばして、ハサミを取った。
「……ほほー。クッ! ハサミか、そうかそうかハサミかぁ。クカッ! き、切られてしまうかもしれない、のっ! クカカカカッ!!」
「ばっ、バカにして!」
笑いをこらえきれない様子のミカは、何かするでもなく艶香の方を見て笑っている。艶香はハサミを構え、じりじりとミカににじり寄る。
「……それなら、少しくらい切ってもらおうかしら。理髪店ってそういうところだし」
ミカは呟くと、いつの間にかサロンチェアに座っていた。艶香の方を見て微笑むと、足をパタパタと動かして全身で楽しみを表現している。
今のうちに逃げることは、できないだろう。ミカの髪の毛は伸び始め、理髪店の中に張り巡らされている。逃げるにも戦うにも、髪を切るというのが理のようであった。
ハサミを構えてミカの髪を手で梳く。絹のように滑らかな指触りで、思わずずっと撫でていても構わないくらいの……。
「切れそうか?」
「き、切るよ! 切るから……」
宝石のように輝く黒い髪に、魅了されかかっていた。人ならば誰でもわかるほどの美しさ、女性であれば誰でも憧れるような美。これを見て撫でることの喜び、それを切るという生物としての万能感。
髪をハサミの刃の間に通す。鉄の輝きさえ、ミカの髪の前ではくすんで見える。
ゆっくりと持ち手を握り、刃を嚙合わせるが――するり、と髪の毛はしなやかに曲がって切れない。
「……あれ」
「んん? どうかしたのか? そうさな、短めに頼む。仕事柄短くできなかったが、体躯に合わせた短さのが良いと思うてな」
「……わ、わかってるよ」
「髪の根に近い方は霊力が強く切りにくいかもしれん。まず端の方から切ってみるんじゃな」
露骨な助言に眉を顰める。ミカから殺意や敵意というものが抜けているのも違和感がある。そんな風に接されると、まるで自分がそうしたくてミカと一緒にいるような気さえしてくる。
「……私を殺さないの?」
「私のものにする」
その言葉がどういう意味かはまだ判然としない。具体性に欠けた言葉ながら、きっとミカは自分の思う通りにことが進んでいるからこそ上機嫌なのだろう。
そうは行かない。握った髪の毛を手の中でするすると滑らせる。
この柔らかさ、握っても手を傷つけず髪から手に潤いが伝わるようなキューティクル。地下に住み続けたミカとは思えない。香りも無臭に近いがどこか甘い芳香があり、何度もよく嗅いでみたくなる。
「き、切るよ」
「床屋はそんなこと聞かんじゃろ。バッサリ短く頼む」
まだまだ髪は長いけれど、腰元ほどの長さのところで刃を入れる。
しょきん、柔らかくほとんど反抗のない髪が容易く切れた。ぱぁっと艶香の表情に喜びが満ち、切った髪の毛を掴んだ。
いくらかがするりと手の中から抜けるが、握った髪を眼前で見た。
美しい。甘い、綺麗な髪。
「すごい……」
この世にこんなに美しいものがあったのかと驚きに目を見張る。まるで遺跡の奥の財宝を目にしたかのように、凝視している。
「ほれほれ早く切らんか。髪が伸びてきて仕方ない」
ミカの言葉に、ようやく艶香は気付いた。
既に周りは真っ暗になっている。階段も、出口も、桐箱も棚もない。サロンチェアとミカと、ハサミを持った自分だけの空間になっていた。
「な、なにこれ、なんで!!」
慌てて逃げだそうとするが、髪の毛の壁にハサミを突き立てても、カチカチに硬い壁のようで刃は通らない。
「そう慌てずともよい。髪の毛を切れば儂から霊力が供給されなくなり力が抜けるだろう。要は髪を切ればよい」
「そんなこと、言ったって……」
艶香がミカの傍に来た瞬間、また空間が狭まった気がした。髪の毛を切ったところで、もう二度と出られない気がする――そんな気持ちになりながら。
髪の毛を手に取り、滑らせ、切る。
芳香が鼻腔に入る。切った髪だけではなく、周りの髪の毛からもだ。
その中で、艶香は切った髪が端から伸びていくのが見えた。
「……こんなの、意味が……」
「……艶香」
ミカは突如立ち上がる。面食らった艶香が後ずさるのを、そのまま壁際に、いや髪際に追い詰める。
「時間切れ」
「あっ、待っ……」
ハサミごと、手が髪の毛に飲み込まれる。これでは髪が切れないが、本気の殺意を込めればきっと、まだ戦える。艶香の霊力を敵にぶつければ。
「艶香、愛とは――なんだと思う?」
「な、なに、いきなり」
「私は、一つになることだと思う。片時でも離れてしまうから、心が離れてしまうから、人は裏切る。最初から最後まで、永遠に一つとなれば、裏切りも何もない。愛の形とは、一つになることだと私は思う」
何故、今そんな話をするのか。埋まっていく腕を見ながら、艶香がふとミカの方を見ると、彼女は真剣な表情でまっすぐ艶香を見続けていた。
「……誰も私を封印することはできないといったが――ただ一人、封印できる者がいる」
その言葉に、艶香は飲み込まれる。ミカの次なる言葉を待って。
「私自身だ。最強の怪異である以前に祓い師でもあった私は髪を触媒に私を封印することができる」
その言葉を聞いて、艶香は全てを理解した。瞬間、眩暈にも似たような衝撃に襲われる。
ミカが何をしようとしているのか、それは、それは。
「……悪い話ではないだろう。封印された私は顕現している時より出る霊力は遥かに弱まる。天神の小僧も殺してはおらんから、きっと呪いが溢れんように手配するはずだ」
最悪が自ら封印されてくれる、そんな話は願ってもないことだ。
ただ一つ、条件があるだろう。艶香の体は既に半分以上髪の毛に呑まれている。
「ただ一つ」
「私、なんだ」
「……うん」
一緒に封印されてくれと。
「スマホもポテチもステーキも我慢する。けどもう艶香がどこかに行くのは耐えられない。ずっと閉じ込められたままっていうのなら……」
「わかった」
艶香はなんとか笑顔を作った。へにゃ、とした力のない笑顔だったけれど――その感情は、諦観の混じった優しさと友愛がミカの心を貫いた。
「こうするための五日間だったのかもね」
「……ありがとう、艶香」
髪の毛が全てを飲み込む。
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しばらく後、KEEP OUTの理髪店は取り壊されることとなった。
その前、建物から奇妙な黒い塊が取り出されたという。それが何なのかは知る人ぞ知るもので、後に天神家の地下に保管されているという。
髪人形師・豆知識2
各地で髪人形を封印している桐の箱は神社で育ち清浄な霊力を帯びたもので、基本的に樹齢百五十年以上で定期的に聖水で清められ瑕疵のないもののみを箱として加工し、そこからさまざまな霊験あらたかな坊主の念仏を浴びたものを使い、その上に天神家の札と聖油で清めた紙紐で封をして封印が完成する。
それでも、ミカは髪人形を通じて外界を見ることができた。怪異が発生した本作品の怪異らは樹齢が満たなかったもの、聖水や聖油の力が弱まったものなどで、勇気明王と化したものは最低品質だった。




