廃病院の口裂け女1
ミカに見送られて地下から土蔵へ、土蔵から庭へ。
まだ真夏の太陽が燦燦と日の光を浴びせてくる。セミの鳴き声と肌に張り付くような熱気がこの現実世界にやってきたのだと思い知らせる。
時間は正午を過ぎた頃だろう。スマホを見ようとして、それをミカに預けたことを思い出した。
「えっと、ミカ、今何時?」
『十二時四十七分、って出てるね』
艶香の髪の毛に混ざっているかのように、肩口から黒い人形が顔を覗かせた。藁人形のようなそれは確かな意思疎通と自律した移動が可能である。やや不気味であることと肌にもぞもぞとくすぐったいのが難点だが、確かな霊力はあるらしい。
ひとまず、艶香はモバイルバッテリーを充電しながら昼食を摂った。地下でどれくらい過ごしたかはわからない。暇そうに食卓でごろごろ寝転がっている髪人形を見れば愛嬌はあるが、あの地下での出来事は異様という他ない。
『霊力の強い場所に案内はできるが、いつ行く? 飯食ったら行く?』
「ん、そうだね。やることもないし」
ごはんを食べながら艶香は気のない返事をした。
決して嘘ではない。
首のない死体二つに囲まれ、血塗れの中で天神神貴に拾われた時からの記憶がない。その死体は両親であった。
それが両親であることも、自分の家のことさえも分からない中で状況を説明してくれたのは神貴であった。
神貴は白い着物を着た無精ひげの人物で、まだ三十前半ながら頬は少しこけて、目元は掘りが深く、ぎょろりとした目をしていた。
不気味な人間だが、声音は優しく真摯な態度で、その眼でよく艶香を見ていた。
あの人の力になる、というのは、その憔悴の理由の一旦を知れるような気がした。それくらいしか、艶香にしたいことはなかった。
「怪異退治ってやっぱり大変かな」
『……甘く見ているようなら即刻中止すべきだ。いたずらに死体を増やすくらいなら天神の当主が戻ってくるのを待った方が……』
「そんなすぐやめさせようとしないで。やるって言った以上……」
『別に私は怪異を目の前にして逃げたいと言い出しても逃がすつもりだ。逃げるのに遅いなんてことはない。そもそもお前は記憶がないからと自棄になっているわけではないだろうな。馬鹿な娘の自殺に付き合うほど私は暇では……』
「ミカ、うるさい」
年を取る、というか年を経る? というのだろうか。説教臭くなるのは自然の理なのだろうか、がみがみ言うミカに口答えをしたら、髪人形が動きを止めた。
「自暴自棄にはなってないと思う。確かに記憶がないから、失うものがないから少し強気かもしれないけど。でもそれ以上に、私は両親を殺した怪異のことを知りたい。私を助けてくれた天神のおじさんがどんなことをしているか知りたい。そして、ミカと同じ怪異っていうのがどういうものなのか、知りたいから」
『……記憶がない故の好奇心か。そもそも記憶のない者を協力させるのはやはり気が引ける……』
「どうしたらいいの?」
『覚悟を決めるべきは私の方、ということだ。』
髪人形がぴょいと艶香の肩に乗った。その位置は、弱点である首と心臓を守るためであろうか。
「……じゃあ行こうか」
その後、艶香は足早に地下まで移動し充電したモバイルバッテリーをミカに預けた。
使い方を説明してあげると、(記憶にはないが)おばあちゃんがするみたいに喜んでくれた。
ただ地下から再び去る瞬間、その物憂げな心配の表情を浮かべるミカの寂しそうなのが嫌に目に焼き付くのであった。
――――――――――――
髪人形の案内を耳元で聞きながら、艶香が歩くこと天神屋敷一時間ほど。
既に太陽に焼かれて汗をかき、自販機で飲み物を買って飲み干した後である。
ついたのは白塗りの大きな建物で、まだそう古くはない。ただ人の気配はなく門も閉められている。
市立Y病院、という廃病院であった。
「ここが?」
『間違いない。ここに怪異がいる。我が髪人形もある。しかし病院っていうのはちょっと困ったことになったわね……』
「何が? なんていうか、いかにもな雰囲気だけど」
尋ねても髪人形は肩口から特に動かないし、返事もしばらくなかった。じりじりと焼き付く日光に焦れて廃病院に入ろうかと思い足を動かすと、ようやくミカは声を出す。
『ええい待っておれんのか。今スマホで調べておる。……病院や墓場のような死者が多くいる場所では怪異に関わる事件が見つからんかと思うたのだ。単純に死者が多いからの。スマホで調べてもなんもわからんかと』
「……ほんとだ。敵を知れないね」
『が、杞憂じゃの。出るわ出るわ。『廃病院の口裂け女』じゃと』
「口裂け女」
それくらいなら、今の艶香にも記憶があった。
※ ※ ※
口裂け女
カラスの鳴く夕方、学校帰りの少年が一人で下校している時、電信柱の陰から女性が現れた。
背の高く、優しげな笑顔を浮かべた女性は、その顔の半分ほどをマスクで覆っていた。
そして何かというと、こう尋ねるのだ。
「私、キレイ?」
少年は心のままにこたえる。綺麗ですよ、と。
すると女は浮かべた笑顔のまま、耳に手をかけてマスクを外す。その顔を見て少年は声をあげた。
耳元から耳元まで、口がばっくりと切り裂かれたように開かれているのだ。唇の端からは赤い肉が見え、顔が別たれた大きい口を開けて笑う。
「だったらお前も同じようにしてやるよ」
少年は恐ろしくなって走って逃げたが、口裂け女はすぐに少年を捉えてハサミで少年の口を切り裂いて殺してしまったそうだ。
この話にも諸説あるが、べっこう飴が好きだからあげると逃げるとか、ポマードの匂いが苦手で投げると逃げ出すとか、対抗策が噂されている。まあ存在自体が噂のようなものなのだが。
※ ※ ※
「ポマードってなに?」
『ワックスみたいなものだろう。整髪料っていうし。なんかくっさいらしい』
「べっこう飴も知らないかも。うっすら記憶にあるけど」
『砂糖焼くだけでできる飴ちゃんじゃろ。お主は常識ないのー』
まさか怪異に常識のなさを言われるとは。しかし現代人、ポマードもべっこう飴も関りがないといえばそれまでの話。
「と、とにかくポマードとべっこう飴もっていけばいいってことかな?」
『……ううん、そんなに簡単な話じゃないみたい。ただの都市伝説の口裂け女じゃないみたい……』
そしてミカは語り出す。
※ ※ ※
廃病院の口裂け女
ある看護師の女がいた。その職場では人気のモテる医者と付き合うために、他の女たちと争いながらアプローチするのが習慣のようになっていたという。
その中で女はついに医者と付き合うことに成功するが、ここで留まってはいけないとコンプレックスだった口元を整形することにした。
だが、手術は大失敗。大きな傷ができ、それが原因でその病院に入院することになる。
後にできたのは口が裂けたかのような醜い傷跡。そのために結局医者に振られ、気の狂った女はその医者を殺して自殺したという。
※ ※ ※
『とまあ、なんじゃろうな。実際にあった事件を悲恋っぽくまとめた新しい都市伝説になっているようじゃ』
「嘘ってこと?」
『都市伝説なぞ全部嘘じゃぞ。俺だってさんざ変な尾ひれのつく噂があったもんさ』
「ふーん、どんな?」
『呪いの人形アンナ・アローや神松沙織を作ったのが俺だって』
「なんにもわからないんだけど」
『どうでもいい話だよ。それより問題は、この口裂け女に弱点みたいな話がないってことだ』
「ん、そうだね。ポマードもべっこう飴もないじゃん」
『そもそも都市伝説ちゅうのは人が適当に作った話やしな……、それに比べたらこの廃病院の話はリアルな要素が強い。わかりやすい弱点はないけど元が人間やねんから絶対弱点はあるはずやで!』
「関西弁可愛いね」
『おおきに!』
ミカの髪人形は関西圏にまで進出しているのか、なんてどうでもいいことを考える。
わかりやすい弱点はない――が、ゴシップとしてはかなり情報のありそうな怪異だ。
色恋沙汰はネットで噂の尾ひれがついて真実味は薄いが、本物の口裂け女の弱点のように有効なものが何かあるのかもしれない。
「……私、周りをちょっと見て回る。ミカは怪異のことを調べておいて」
『承った。廃病院と言えど名前も分かっている。間取りも髪人形を通してきちんと道案内するから安心しろ』
そうして、艶香は外周をぐるりと回ったが――
「……警備員さんがいるね」
『おそらく夜はいないだろう』
「……え? 普通夜に警備するものじゃないの?」
『あそこはもう怪異のテリトリーだ。夜にあんなところで棒立ちしていたらまず三日と持たん。どうせ奴らも夜の警邏がないなど奇妙な仕事だと思いながら定時で帰っておるだろう』
ミカがあまりにも自信満々に言うから、艶香もそういうものかと理解した。
入口から大きな駐車場があって、病院は二棟に分かれているらしい。ミカ曰く、片方は怪異の影響もそれほどない健康診断の棟らしい。
もう片方、一般病棟こそが怪異の住処にして髪人形の眠る場所。
『艶香、ひとまず、そうだな。懐中電灯くらいは必要だ。夜に侵入し髪人形を強奪するのが効率的だろう』
「……わかった。日が沈むまで家で休んでおこうかな」
『それがいい。それまで可能な限り私も事件を調べておく』
ひとまず、その場では解散することになった。
敷地内の木陰で警備員がこちらを訝しげに見ているのを、艶香はあいまいに笑ってごまかした。
怖く書くの難しそうなので全然怖くないかもしれんな…