プロローグ・髪人形師と艶香の出会い
コンクリートで固められた大広間のような場所で、どこからかそれは照らされていた。
一人の少女の髪を、長い長い髪を壁一面に引き伸ばして張り付けにしている。高さ五メートル以上はあるだろうに壁中にそれは広がっていた。結んだところを五寸釘で打ちつけ、大量の御札を貼り付け、さながら埃の塗された黒い蜘蛛の巣のような、あるいは壁一面が罅割れているかのように。
罅割れの発生源である少女は何をしているのか――死人のように真白い肌で、やや体を退け反らせており細い首根っこと眠るような表情が見える。衣服は着ていないが、壁同様に地面にまで貼り付けされた髪の毛がその代わりをしている。
突然、開かれた目から黒い瞳が見えた。
「何者だ?」
「……え、ええっと、上山艶香って言います」
張り付けの少女をじっと見つめていた女――艶香はおそるおそる発言をした。
髪の少女はどこか厳かな雰囲気があり、声音も紛うことなく少女のものだが妙な威圧感がある。艶香は十七の高校生で、少女は甘く見積もっても十三程度だろうに、悠久の時を生きたかのような迫力があった。
――否、その程度の年月でこれほどの長さの髪がありえるだろうか、はたと気づく。
「知らん名だ。何故私の前にいる」
「その、昨日から天神のおじさんの家に厄介になったんですけど、ちょっと探検しようと思って」
艶香は居候の身であった。不幸で家族を亡くしたために遠縁の天神家に住むことになった、というのが事の次第。
しかし家主の神貴は家には他に誰もいないと言っていたはず。市内でも有数の大屋敷である天神家を我が家のように思ってくれとも言っていた。
確かに、庭の端にある土蔵の中、隠すようにあった地下への階段を降りるのはやりすぎかとも思ったが――
にしてもこの少女との会話は妙な緊張感があった。艶香は居候の身なのでそれが少女であろうと家の人間には下手に出た方がいいし、その少女が只者ではないのも雰囲気で伝わった。
だがそれ以上に感じる強迫観念のような、綱渡りするような会話の緊張感は。
「ただの居候か。……ふん、私を前にしてその反応であれば疑いようもないな」
「あの……貴女はどなたですか? おじさんは家には誰もいないって」
聞いてしまっていいものか、悪いものか。
危険な好奇心を抑えきれずに艶香はおっかなびっくり問うた。
が、想像していた諸々の心配は杞憂であったらしく、少女はむしろ嬉しそうに答える。
「……ああ、嘆かわしや嘆かわしや、日の本の国最悪最強最大の怨霊にして呪術師にして、最高の人形師であるこの『髪人形師』を知らぬ者がいるとは……全くもって嘆かわしい……』
「……髪人形師?」
「うむ。私と会ったことはおじさんには内緒だぞ。無知なツヤカが無駄に怒られてしまうだろう」
「ふーん……。でも、おじさんは最低でも十日間は帰ってこないって」
「……真か?」
瞬間、気温が低くなった気がした。場の空気も髪人形師の気分次第で自由に書き換わるようであった。
そんな機微を人間であれば誰でも敏感に理解できるだろう、生存本能のある人間ならば、本来その存在を恐れ逃げ出すだろうに、艶香はそうせず、会話を続ける。
「……なんでも、私の両親が怪異に殺されたらしくて、おじさんはその怪異を祓いに行ったの。で、ついでにその周辺の怪異も祓うから結構時間がかかるって」
「ほぉ。何から言えばいいか……、怪異に家族を殺されたのか?」
髪人形師は少し悩んだ様子を見せてから、艶香のことを正面から見据えた。その態度は真摯なようであり、幼き少女というよりも善き大人であるかのようである。
印象がころころと変わる奇妙な髪人形師は時に邪悪なようで時に善人のような不思議な雰囲気を出しながら、艶香はそれを信頼するように会話を続ける。
「両親は、怪異に殺されたそうです。牙歯美姫とかいうやつらしくて……」
「お主は無事だったのか」
「なんか、霊力が強いとか」
「ああー、じゃろうなー。見たらわかるわ、お主は綺麗な霊力が分厚く体をまとって居る。怪異も早々と殺すことを諦めたのだろう。絶好の餌ではあるがな。分厚い殻をまとったウニか栗のようだ」
場の空気、どころか喋り方さえもころころと変わる髪人形師は、艶香への所感をそのように述べた。
事実、艶香には不思議な力があった。それが理由で生き残ったというのもあるし、それが理由で天神神貴に引き取られた形でもある。
「が、霊の扱いはトーシロじゃの? 天然の能力はなかなか危ういの。気づかずして妾と出会うくらいじゃからの」
「……はぁ」
「なんじゃその気の抜けた返事は? まあ構わんが。実のところ、この私を見て平然と話せる奴の方が希少だ。危険なものを引き寄せるが、それに恐れないだけの防御力がある」
「なんか、喋り方が……」
「今時の若者にウケる喋り方がわからんくてな。こんな感じがいい感じ? みたいな? ってか日本語のナウい喋り方ってすぐ変わるから時代に置いてけぼっちみたいな?」
「……まあ、好きにしてください」
「うむ」
今後の人生に関わる大事な話をしているようで、楽し気な人と世間話をしているような、自分がどんな会話をしているのかさえ艶香は定かではないが、その会話を続けたいという気持ちは確かに芽生えていた。
空間は、空気が悪い。邪気とも呼ぶべき黒い霊力に満ちた地下の湿気に、カビさえ生えない邪悪な霊力に満ちておりながら、自らの透明な霊力に包まれた艶香はそれに気付かず、かつ髪人形師の話術と自分の状態に興味を示している。
「……あの、あなたは、なんなんですか?」
「言ったでしょう? 髪人形師……、私を呼ぶ名はそれで以上です。強大な呪霊、それ以上でも以下でもないかと」
「どうしてここに?」
「あなたとは違う理由ですね……、というかわかるだろう? 怨霊であるがゆえに封印されているわけだ。私は邪悪だぞぉ? ククッ」
「そうなんだ……」
「ああ。これからも元気に過ごしたいならすぐに帰った方がいい」
「……じゃあ、お世話になりました」
「待て待て待て冗談ごめん待って。人と喋るのひっさびさすぎて楽しかったっていうか楽しいからもうちょっと付き合ってくれよ。寂しいだろ気に入られたくて必死なんだこっちは」
言葉と同時に髪の毛が震えお札が揺らめく。五寸釘はガタガタと震えるが、それ以上に艶香は髪人形師の表情が目を引いた。必死に止めるようでその瞳には確かな寂しさと必死さが見えた。それは外見相応の少女が友達と別れるような切実さを覚えていた。
「……お名前はなんていうの? 髪人形師さんの」
「名前……、秘密だ。好きに呼んでくれて構わないぞ。僕も怪異だからね、安易に正体を明かす真似はしたくないわけだ」
「髪だからミカ」
「決めるの早いな……でも悪くないね」
少女は少年のような態度で淡々と言った。仄かながら満足感を隠し切れない様子は、数百年を生きた呪霊であっても同様らしい。
その満足そうな表情で、髪人形師――ミカはもう一つ踏み込んだ話を、外見相応の少女のように言った。
「ツヤカ、もういくつか私の願いを聞き入れてくれないか?」
真摯に見えるミカの言葉を、艶香は話を聞く前から頷きかけていた。