壱 最初のお客様
朝起きて、顔を洗って、着替えて、家を出る。朝食はアーカーシャでまかないを貰う。
大学四年生にもなれば時間割の空白部分は多くなり、講義の入っていない時間が増える。午前中に講義がない場合、リラは朝からアーカーシャへ行っていた。働き始めて二週間。これといって大きな事件が起きることもなく平和な日々が過ぎている。
「お客さんのいない時間って結構多いんですね」
シーリングファンの可動音が微かに聞こえていた。店内には俊哉の好きな雅楽が掛けられている。
「平日の昼間だしな! お休みの日もそんなにたくさんは来ないけど」
カウンター席に座るリラの隣で、猫又の少女が声を上げた。名前は真白というのだと、偉そうに小さな体を目いっぱい反らしながらリラに言ったのは数日前のことである。
真白はアーカーシャのスタッフではなく、オーナーが面倒を見ている子供なのだそうだ。時々手伝うこともあるが、まだまだ子供なので普段は奥の住居スペースでごろごろと過ごしている。
「猫又って長生きした猫がなるイメージなんだけど、真白ちゃんは子供なんだよね?」
「わたしは猫又と猫又が結婚して生まれたから、生まれた時から猫又なんだぞ!」
「へえ」
カウンター内でお湯を沸かしている飛歌流はリラと真白を見て笑顔を浮かべる。それはまるで、親が子を思って浮かべる顔のようであった。
「真白ちゃんはお話とか好き?」
「好きー! リラ、何か話してくれるのか? 桃太郎か? 金太郎か? 浦島太郎か?」
リラは首を横に振る。遠い昔を思い出そうとするように、視線が動く。
「有名なお話じゃないの。小さい頃から、私の心に残っているお話。昔々あるところにいたお兄さんに起こる不思議な出来事なんだけれど……」
リラの声はリロンリロンというベルの音に遮られた。ドアは開いていないが、客の姿があった。店に入って来たのは腰の曲がった老婆だ。
「いらっしゃいませー」
飛歌流の声と同時にリラは立ち上がり、真白を連れてカウンター内へ移動した。椅子に引っ掛けてあったエプロンを慌てて付ける。その隙にリラの手から離れた真白が奥のドアを開け、俊哉を呼びに行った。新しいメニューについてオーナーと話があるということで、席を外していたのだ。
リラは老婆にカウンター席を指し示す。
「こちらにどうぞ」
見ただけで分かった。いや、感じ取れた。
「おばあさん、幽霊ですよね」
リラの問いかけに老婆はゆっくりと頷いた。
世の中には非科学的な力が存在する。例えば、妖怪や彼らと仕事をする妖術使いが持っている妖力。例えば、幽霊やそれらに対応する霊能力者が持っている霊力。例えば、神々が持っているといわれる神力。異国には魔法を操る魔力があるという話もあるが、それはこの国では見付かっていないため真偽は不明である。
リラはただ霊感が強いだけだが、それらの力は十分に感じ取ることができる。
老婆はカウンター席に近付くと、老眼鏡越しにメニュー表を覗き込んだ。
ほどなくして真白に連れられた俊哉が店に戻ってきた。狩衣の袖口を絞りながらカウンターへ入る。
「いらっしゃいませー。アーカーシャへようこ……。あ。……ご用件は何でしょうか」
営業スマイルをこれでもかと見せつけていた俊哉の顔が真剣なものになる。つられてリラも緊張してしまった。この二週間、生きた人間も人ではない者達も、食事に来た客ばかりだったのだ。死んだ人間が相談にやって来るのは初めてだった。
彼岸へ向かう者が立ち寄り、最期の一杯を味わう店。それがアーカーシャの本来の姿。本業としての客が訪れたのだ。
肉体を持たない幽霊は食事をしない。否、できない。実体がないのだからコーヒーカップを持つこともできない。老婆が何度メニュー表を覗こうと、注文したところで何も味わえないのだ。
対して、俊哉は老婆の出方を窺いながらグラスを磨いていた。霊能力者と協力関係にある幽霊は実体を持ち、よく食べよく眠る。生きていた頃とほとんど同じ生活をし、能力者が死ぬまでこの世に留まり続ける。自由は利くが、壁をすり抜けるなどと言う芸当はできないため幽霊らしくないといえばらしくない存在である。
それでも、この店は最期の一杯を提供するのだ。
椅子に座ることもできない老婆は立ったまま、もう痛くなどないはずの腰を曲げて語り始めた。
「油断していたらぽっくり死んでしまったよ。じいさんや子供、孫達の悲しそうな顔を見たらあの世へなんて行きたくなくなっちまってね、ちょっとぷらぷらしてたのさ。風の噂にこの店のことを聞いたんだ。ここに来れば、やり残したことをやらせてもらえるんだろう?」
俊哉は苦笑する。
「ちょっと違いますけど、だいたいそんな感じですね。我々は、亡くなってしまった方のお話を聞き、この世に未練を残さずにあの世へ旅立てるよう、送り出すのが仕事なのです。お客様のご用件は何ですか。懐かしのお方を降霊させましょうか、思い出話にお付き合いいたしましょうか」
「……お花を見たいねえ」
老婆はサダと名乗った。生前、夫と共に見た花を忘れられないのだという。俊哉と飛歌流は顔を見合わせ、そして、リラに視線を向ける。
「リラさん。サダさんの旦那さんに何の花を見たのか聞いてきて」
「無理です。申し訳ありませんが私は旦那さんがどこにいるのか知りません」
「……とりあえず。サダさん、善処いたしますので少々お時間頂けますでしょうか」
奥に部屋がありますので、と俊哉はドアを指し示す。真白の案内でサダはドアの向こうへ歩いて行った。雅楽が鳴り続ける店内で、三人は揃って低く唸った。
「リラさん、すまほでちょっと調べてもらえるかな」
「いいですよ」
「五月に北海道で見ごろになる花って何」
スマートホンの画面に指を滑らせようとしたリラの動きが止まった。
「たくさんあると思います。百七十九も市町村があるので、ピンポイントで場所と花を探すのは難しいかと」
「そうなんだよねえ。あのおばあちゃん、今頃の時期だったってのは覚えているのに、どこで何を見たのかは忘れちゃったなんて言うから困るよね。何か手掛かりがあればいいんだけれど」
「普段はどうしているんですか」
「ちゃんと教えてもらってるよ。でも、おばあさん何十年も前の事だから覚えてないって言うからさ」
飛歌流はリラのスマートホンの画面を覗き込む。
「桜、チューリップ、ツツジ……、それぞれに名所があるようですね。……困りましたね」
リラはスマートホンの画面に指を滑らせた。冬が長いため、春は本州よりもだいぶ遅れてやって来る。梅と桜がほぼ同じタイミングで咲き、春を待っていた植物が一斉に動き始めるため街は花で包まれるのだ。
「鶫さん、飛歌流さん、おばあさんにもう少しお話を聞いてみませんか?」
「んー、そうするしかないかー。飛歌流さん、店の方任せていいかな」
「了解です」
「じゃあリラさん、研修も兼ねて俺と一緒にちょっとお仕事やってみようか」
「はいっ」
やる気十分に奥のドアを開けたリラの後ろ姿を、俊哉はしばらく見つめていた。俊哉の様子に何か思うところがあるのか、飛歌流は声をかけようとしたが躊躇ってしまった。何事もなかったかのようにお湯を沸かす。
飛歌流が動いた気配を感じ取ったようだったが、俊哉も小さく首を傾げただけで、すぐにリラの後を追った。
雅楽のCDとシーリングファンの可動音、お湯の沸く音だけが残された。