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参 モーニングコーヒー

 翌朝、目を覚ましたリラは昨日のことを思い出す。あれは本当のことだったのだろうか。引っ張った頬は痛かったが、感覚がとてもはっきりとした夢だったのかもしれない。不安になってスマートホンを手に取り、新しい番号をタップする。


 呼び出し音がしばらく鳴った後、眠たそうな男の声が応対した。


「まだ開店時間じゃないのですがあ」

「鶫、さん……」

「……リラさん。おはよう。どうしたの」

「昨日のあれは夢だったんじゃないかって思って」

「あはは、この電話も夢かもよ」


 眠たそうに適当なことを言う俊哉に対して、リラの顔は徐々に恐怖に満たされていく。まだ何かを言おうとしている俊哉を無視して通話を切ると、パジャマから着替えて家を飛び出した。


 こんな時間からどこへ行くの、と訊ねる親はいない。地元を離れて一人暮らしをしているからこそ、このような自由が利くのだ。生まれ育ったのは札幌と同じくライラックもといハシドイを街の花として指定している釧路市である。幼い頃は湿原に不審な影を見たり、長生きしすぎて化けてしまった鶴に出会ったりしたものだ。


 地下鉄に乗り、公園の近くで降りて店を目指す。嘘ではないよと言うように鞄の中に納まっていたチラシを見ながら歩いて行くと、ドールハウスのような二階建ての建物が姿を現した。店の前では長髪の男が掃き掃除をしている。


「おはようございます」

「おや、木山さん。おはようございます」

「野衾さん」

「うーん、それは綺麗ではありませんよね。貴女のことをヒトさんと呼ぶようなものですから」


 ではどうしろと、と見上げるリラを見て、野衾は長い髪を揺らした。まるで束ねている部分だけ別の生き物のように、長い尻尾を振るように。


「私はモモンガのモモちゃんっ」

「えっ。モ……」

「ふふっ、冗談ですよ。私は飛歌流ひかると言います。飛ぶ歌が流れると書いて、ヒカル」

「飛歌流さん」

「こんなに朝早くからどうしたのですか。まだ開店前ですし、来るのは明日からでよかったのですよ」


 箒を手に飛歌流はリラを見る。いかにも優男と言った風貌に、まるですすきので働いている夜の男の源氏名めいた当て字。小さなモモンガからは想像できない。叩けば小さくなるのだろうか。


「木山さん」


 伸ばされたリラの手を優しく払って飛歌流は改めて目的を訊ねる。


「昨日のことが、もしかしたら夢なんじゃないかと思ったんです。でも、ちゃんとここにお店はあった。夢じゃなかった」


 リロンリロンとベルが鳴り、ドアが開かれる。狩衣姿の店長が顔を覗かせた。


「リラさん! おはよう。ようこそ、アーカーシャへ」

「おはようございます鶫さん。明日からよろしくお願いします」

「うん、よろしくね。今日は? もう帰っちゃうの?」

「んー。モーニングセットとかってあるんですか?」

「あるある。今から用意するから中で待ってて」


 笑顔で店内に引っ込む俊哉を見送り、飛歌流は掃除を再開した。


「鶫さんって、昨日はコスプレかと思ったんです。でも、今日も狩衣でした。本物の貴族なんですかね」

「それは俊哉君本人に訊いた方がいいと思いますよ。私の口からぺらぺらと個人情報を話すわけにはいきません」


 やがて、店内からコーヒーの香りが漂って来た。


    



 カウンターにはスクランブルエッグとソーセージ、フレンチトーストが置かれた。やや遅れてコーヒーカップが出される。


「どうぞ、召し上がれ」


 リラがフォークを刺しこむと、フレンチトーストの柔らかな弾力が手に伝わって来た。口の中に広がる卵の味に、顔が緩んでしまう。


「美味しいです」

「よかった。これのお代はばいと代から引いておくから今は払わなくていいよ。飛歌流さんは? 賄い食べる?」


 俊哉に訊ねられ、飛歌流は外から顔を覗かせて「後でいいです」と返答した。


 モーニングセットを口に運び至高の時を過ごすリラの様子を見て、俊哉は薄く笑う。その笑みは嬉しそうにも悲しそうにも見え、何かを含んでいるようだったがリラは気が付かなかった。


 俊哉は慣れた手つきでカウンターの脇にあるラジカセにCDを入れ、再生ボタンを押す。流れてきたのは神社などでよくかかっているような雅楽だった。シーリングファンが回り、フレンチトーストが出されるような店とは不釣り合いな音楽にリラは手を止める。しかし、そんなリラの反応などお構いなしに、俊哉は雅楽にノリノリな様子でカップを磨いている。


 リロンリロンとベルが鳴り、掃除を終えたらしい飛歌流が店内に入って来た。驚いた様子で俊哉を見つめるリラ、楽しそうな俊哉、流れる雅楽。店内を見回して、飛歌流は面白そうにリラに近付いた。


「俊哉君はこういう曲が好きなのです。今は一応準備中ですし、大目に見てあげてください。店の雰囲気に合っていないということは彼も分かっていますから、開店すればジャズに変えるのですよ」

「へ、へえ……。あの、鶫さん」

「なーに?」

「鶫さんって、どうして狩衣姿なんですか。貴族なんでしょうか」


 俊哉の目が一瞬見開かれ、コーヒーカップが手から離れる。床に落下する直前で拾い上げたものの、見ている側がどきどきするものなのだとリラと飛歌流は思った。


 俊哉は何事もなかったかのように皿を磨き始める。


「俺は鶫俊哉。それ以上でもそれ以下でもない。この格好は趣味だよ。着たくて着てるの」


 大きな袖を広げてポーズをとる。


「し、趣味? 平安時代が好きなんですか」

「うん、まあ、好きというか何というか。落ち着くんだよ」


 細い指が皿の淵を撫でる。桜の散る皿がまるで愛しい女の着物でもあるかのように、艶めかしい動きだった。


「風流はいい。風の流れと書いて風流と言うのだから、雅とは風を感じることなのだ。……知り合いの受け売りだけれどね」

「なかなか良いことを言うのですね、俊哉君の御友人は」

「……格好いい人だった。もう、随分と昔のことだよ」


 俊哉の外見は二十代半ばくらい。しかし、まるで何十年も、何百年も昔のことを思い出しながら語る老人のようである。幽霊だという俊哉は外見のわりに長い時を過ごしているのだろう。    


「木山さん、もしよかったら今日からお手伝い頼めないでしょうか」

「え?」


 飛歌流の提案に、リラと俊哉は同時に声を上げる。


「この店のこと、もっと教えてあげた方がいいと思いまして。せっかく来てくださったのに、朝食だけ食べて帰ってしまってはもったいないでしょう」


「は、はあ」

「お時間大丈夫ですか」

「今日は全休なので一応」


 上手い具合に乗せられているようにリラには感じられたが、乗ることにした。この店のことはまだ詳しく知らないのだ。聞いておくべきだろう。頷いたリラに対し、飛歌流は笑顔で答えた。


「ではそうしましょう」

「飛歌流さん一人で大丈夫?」

「俊哉君は準備と接客があるでしょう。お任せ下さい」

「うん。分かった。お願いするよ」


    



 モーニングセットを食べ終えたリラは、飛歌流に連れられて『STAFF ONLY』のドアを潜った。


 店の奥は廊下と階段とドアが入り乱れる複雑な作りになっていた。こちらにドア、そちらにもドア、あちらに階段、そことこことを繋ぐ廊下。


「この店はあくまで此岸ですが、多くの亡き者や人ならざる者が訪れます。迷ってしまわぬよう、お気を付けください。時たま悪しき者が現れるので、それを逃がさぬようにこのような作りになっています」


 悪しき者、という言葉を聞いてリラは小さく体を震わせる。妖怪の登場する小説や漫画のように、「うまそうな人の子だ」と言って襲い掛かってくるのだろうか。


「宿泊施設や休憩所としての面も持っているのですが、それについては追々説明していきましょう。こちらへどうぞ」


 案内されて、示されたドアを開ける。コーヒー豆や茶葉などが保管されているようだ。鼻腔を擽る香りにリラがうっとりしていると、すぐ近くでリロンリロンというベルの音がした。ドアに付けられたベルの音がここまで聞こえてくるのだろうか、とリラは飛歌流を振り向く。長髪のモモンガは穏やかに微笑んでいるだけだ。


「あの、飛歌流さん」

「店のどこにいても聞こえるようになっているのですよ。オーナーの工夫ですね。どのような原理なのかは私も知りませんけれど、そのようなものを気にするのは妖怪の存在を疑問視するのと同じだと思います」

「なるほど」

「お客様がいらっしゃったようですね。奥の説明は後にして、接客について説明しましょうか」


 店へ戻ると、若い男性客が店内を困った顔で見回していた。リラと飛歌流の姿を見てほっとした様子になる。


「ああ、よかった。誰もいないからお休みなのかと思いました。モーニングをお願いします」


 カウンター内では俊哉が皿を磨いている。しかし、男性にはその姿は見えていないらしい。


「はーい、ただいま」


 飛歌流と入れ替わるようにして俊哉がカウンターから出てきた。肩を竦めて苦笑する。


「俺は人の目には映らないから、一般のお客さんが来た時は人間に化けている飛歌流さんにお願いしているんだよ」

「普通の人も来るんですね」

「そうしないと収入がなくなるだろう」

「確かに」


 俊哉は見えていないのをいいことに男性客を指差す。


「ああいう風に普通のお客さんが来た時は飛歌流さんが対応する。リラさんにもお願いしていいかな。たくさん来る時もあって、そういう時は飛歌流さん忙しくなってしまうから」


 リラは小さく頷いた。


「幽霊や妖怪と、生きた人間は基本的に出くわさないようになっている。だから今は見本がないわけなんだけれど、妖怪のお客さんが来た時も基本的なことは同じ。メニュー渡して、お料理運ぶ。食事に来たのではないって人がいたら、ちゃんと俺に教えて。カウンターで準備してると気が付けない時とかあるから」

「はい」

「じゃあ、早速やってみようか。飛歌流さんの言う通りにすればとりあえず大丈夫だよ」

「はいっ、鶫さん」


 笑顔で答えたリラを見て、俊哉はほんの少し目を見開く。驚いたような、寂しいような、曖昧な表情を浮かべながら、カウンターに入っていくリラを見送った。


 狩衣が衣擦れの音を立てる。俊哉は懐から取り出した一冊の本をちらりと見て、小さく溜息をついた。







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