参 いらっしゃいませ
釧路から戻ってくるなり、俊哉はアザラシの抱き枕を従えて文机に向かった。
誰のために綴っていたのか思い出せたし、眠っている土地に行くこともできた。リラの祖母の前世、その前世と遡って行きたいのはやまやまだがそれを辿ることは困難を極めるだろう。だから、次を見据えて筆を握るのだ。
「見てくれる、聞いてくれる、読んでくれる貴女がいれば、トラツグミのように悲しく鳴かなくてもいいんだよな」
今の世に合わせた名前をどうしようか。恭介に提案された時、兼俊は「鵺」と言った。今の自分はのどよう鵺なのだ、と。「鵺とはトラツグミのことだね、じゃあ鶫だ」と言ってメモをしていた恭介の姿を今では思い出すことができる。
しかし、書かなくなってどれくらい経ってしまっていたのだろう。俊哉は結局寂しいトラツグミだった。
「紫式部や清少納言と戦えるぞっていい気になってた昔の自分がすこぶる恥ずかしい。全然書けなくなってる」
「まあ、ぼちぼちやって行けばいいと思いますよ」
飛歌流はコーヒーカップを傾けて言う。
休憩時間。アーカーシャのスタッフ達はいつものように賄いという名のグルメを食べ、営業再開までの時間をのんびりと過ごしている。自分の分のコーヒーをカップに注ぎ、俊哉はカウンターから出てきた。飛歌流の隣に座って飲む。
食事を終えてさっさと奥へ消えた恭介と、屋根で日向ぼっこをしている真白と、大学へ行っているリラは店にはいない。今は俊哉と飛歌流二人きりだ。アーカーシャの店が回っているのは大方この二人の力による。
ラジカセからは雅楽が流れていた。シーリングファンだけでは足りずエアコンまで回り始めた店内は外と比べると過ごしやすく、開店すれば午前中やランチタイムのように涼みにくる客も多く訪れるだろう。それまでしっかり休んで備えておかなければならない。いくら方や幽霊、方や神といっても、疲れるものは疲れるのだ。休息は欠かせない。
俊哉はカップの中で揺れるコーヒーを見つめる。初めて飲んだ時には苦いし黒いし訳が分からないと思ったが、こんなところまで来てしまった。もうここまで来たら極めていくしかないだろう。
「飛歌流さん。俺、新しいメニューを作ろうと思うんだ」
「へえ、どのようなものにしますか」
飛歌流の目が敏腕経理のものに変わる。静かな威圧感を覚えて俊哉は身震いをした。
「大丈夫大丈夫、ちゃんと予算内に収めるから。たぶん」
「今たぶんって言いましたね」
「気のせいだと思う」
俊哉はコーヒーを飲む。自分の淹れたコーヒーが一番だ。そう思えるようになったのは実はほんの数年前である。
「食べ物、というか、デザート、とか? なんか地味だと思うんだようちの店。普通の人間の客、結構年配の人とか多いだろ」
「まあ、確かにそうですね……」
「もっと若い人にも来てほしいなって思うんだ」
「若い方はいると思いますけどね」
高校生や大学生の客は少なくはない。しかし、それでは物足りないのだと俊哉は言う。懐からスマートホンを取り出すと、近頃はやりの交流サイトを開いた。そこには色とりどりのスイーツの写真が並んでいた。
画面を覗き込み、飛歌流は「なるほど?」と唸る。
「こういう、視覚的に見て楽しい食べ物っていいと思うんだよ。これはちょっと賑やかすぎるけれど、うちに合う、アーカーシャらしい美しさなら雅だし風流だしいいんじゃないかな。ほら、ネットで話題の店とかになりたい」
「本音はそこですか」
「……いいじゃん客増えたら予算も増えるじゃん」
ふむ、ふむ、と飛歌流は画面を見ている。現在のデザートメニューはシンプルないちごパフェとチョコレートパフェ、お持ち帰り用のクッキー程度である。俊哉はメモ帳に万年筆を走らせる。何を書くにも万年筆だ。恭介が買ってくれたお気に入りの万年筆である。黒光りするボディに鳥の羽の模様がワンポイントで箔押しされている。
ケーキ、パンケーキ、タルト、ワッフル、パン、クレープ、プリンアラモード等々。俊哉と飛歌流の技量で実現可能そうなものから難しそうなものまで、次々とデザートの名前が並べられていく。
「なるほど、なるほど。全部は無理ですよ」
「分かってるよ。どんなのがいいか、今度皆で話し合いたいな。新しいメニューを前に追加したのっていつだったっけ……」
「……忘れましたね」
「神様なのに?」
「全部覚えているわけではありませんよ。全能だと思わないでください」
俊哉はメモを照明に掲げる。
「わくわくしてきた。リラさんが加わって、アーカーシャも新生アーカーシャだ。新しいメニューを追加したらそれこそ新生だ」
「楽しそうですね、俊哉君」
「楽しい。うん、すごく楽しい」
残りのコーヒーを飲み干して、俊哉は準備のためにカウンターに戻った。飛歌流も厨房へ入る。
ラジカセから流れる曲が雅楽からジャズへと変わった。
「追剥に襲われた時、『ああ、なんでこんなことになっちゃったんだろう』『宗子が待っているのに』『もうダメなんだ』って色々思った。死んで全部なくなったって。でも、俺は今がとても楽しい。いや、生前ももちろんよかったんだ。宗子はいたし、まだ名前を思い出せないけど仲のいい同僚もいた。それは別として、大江兼俊じゃなくて、鶫俊哉として生きて……いや、死んでるか。鶫俊哉として過ごす時間も同じくらい楽しいし忘れたくないって思うんだよな」
「僕も長い時を見て来ましたが、今がとても楽しいですよ。三間坂先生の元にいた時も楽しかったですけどね」
店長と店員は目を合わせ、笑い合う。違う歩き方で二人は長い時間を過してきた。今は同じ場所で同じ時間を過ごしている。
さあ、頑張って行こうか。
コンロに火を点けて、俊哉は一旦カウンターから出た。ドアにかかっているプレートをひっくり返す。
『OPEN』