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カフェ・アーカーシャ~幽霊のいる喫茶店~  作者: 月城こと葉
四杯目 鵺鳥ののどようさまに
23/29

肆 左兵衛佐の記録

 貴公子然としていた空気は再びリラを見たことで霧散した。だらしなく顔を歪め、怪しげに手を動かしながら近付く。


「ああ、逢いたかった。覚えていてくれたんだね、俺の送った物語を。ありがとう、宗子そうし。好きだ。好きだよ。思い出した。思い出したよ。大好きだ、宗子。君のこの温もり、もう忘れない。愛らしい笑顔も、鈴のような声も、君の全てを……!」

「鶫さん……」


 リラは引き気味に俊哉を見ている。離れている隙を逃さずに椅子から立ち上がり、距離を取る。


 子猫の姿になった真白がリラの足元にすり寄った。俊哉の近くにいたくないらしい。そして真っ白な全身の毛を逆立てて「シャー!」と威嚇までし始めた。


 しかしリラと真白の反応など全く気にせず、俊哉は少しずつ近付いていく。


「違うだろ。俺は、俺は思い出したんだ。君も思い出してくれ、ほら、ほらほらほら」

「ひいい怖い」

「どうして嫌がるんだ。こんなにも好きなのに、愛しているのに。宗子」

「私リラです」

「つぐみん気持ち悪い!」

「気持ち悪くて結構! 俺の宗子への思いは誰にも止められない! ほーら、お兄ちゃんだぞー!」


 興奮した様子の俊哉は不気味な笑みを浮かべながらリラを見ている。


 そこへ、見るに見かねて飛歌流が止めに入った。リラと俊哉の間に立ちはだかり、神々しささえ感じられる威圧感を放つ。その場にいた者達が抱いたのはおそれだった。恐れではなく、畏れだ。


「俊哉君、一回落ち着きましょう。落ち着いて、木山さんに説明してください」


 俊哉は不服そうに口を尖らせたが、おとなしく席に着くと本のページを捲った。そこには何も書かれていない。


「物語は貴女を喜ばせるためだった。だから、貴女がいないのに綴るのは、まるでトラツグミが鳴いているように寂しいものだ」


 そして、失われてしまった記憶を、思い出した自分のことを、語り出す。





          ○





 いずれの御時か、帝に女御にょうご更衣こういあまたさぶらいたまいける頃。平安の都に一人の男が住んでいた。


 名を兼俊。皇居外郭の警備を司る左兵衛府さひょうえふに勤務する左兵衛佐である。


 ある夏の日、都で変な噂が流れた。兼俊は山明かりと噂されていた件の怪異に巻き込まれ、それ以来宮中でも度々話題に上げられる人物となっていた。


 そんな兼俊には妹が一人いる。名を宗子。やや年の離れたかわいらしい姫君である。妹のためならば、兼俊は何だってできるような気がしていた。頼まれたものは必ず手に入れる。妹に近付く虫は追い払う。手紙なんぞ来ようものなら先に自分が読んで選別してやるのだ。兼俊は、千年後ならばシスコンと呼ばれる人間だった。そして、邸から出ることの少ない小さな妹は、歌を詠むことと同じくらい書を読むことが好きだった。


 『源氏物語』も『伊勢物語』も手元にある分は全て読んでしまった。新しいものが手に入るまでの間、何を楽しめばよいのだろう。そう言って俯く妹のために兼俊は筆を取った。彼が紡いだのは、ある夜、ある男に起こった不思議な出来事だ。事実と創作を織り交ぜて綴られた物語は、たくさんの動物と男が楽しく踊り、朝が来るところで終わる。喜ぶ宗子を見て、兼俊も幸せそうに笑った。


 遥か未来の世界まで名のある書は読み継がれることになるが、ある男が妹のためだけに記した小さな物語が歴史に残ることはない。それでも、二人にとっては大切な物語だった。


 夏に物語を作ってやってからというもの、宗子は『源氏物語』や『伊勢物語』をある程度読み終わると兼俊に物語を催促するようになった。兼俊もまんざらでもない様子で、宗子のためならばいくつでも物語が思いつくかのようにさえ感じていた。


 兼俊が即興で物語を作り始めると、宗子はそれに耳を傾けながら、うっとりとした様子で筆を握った。文机に置いた紙に、兼俊が語る内容を書き連ねていく。夏の話は兼俊が書いた。しかし、それ以降は宗子が書き残していた。文字を書く練習にもなるからと笑う小さな姫君を見て、兼俊は危険な笑いを浮かべたものだ。


「兄上様、わたし絶対に忘れません。兄上様が作ってくださったお話、絶対に」

「本当? 嬉しいよ」

「えーと、ほら、人は死んだら浄土へ行くというでしょう? わたし、浄土へも持って行きますわ。大好きな兄上様のお話!」

「……もしも……。もしも私達が別の姿になってしまっても、再び会いまみえて私の話を聞いてくれるかい」

「きっとお話がわたし達を繋いでくれますわ! ねえ、兄上様。その時には新しいお話が聞きたいです」


 妹はいつか誰かと結婚してしまう。その時が来るまで、いくつもいくつも物語を送ろう。兼俊はそう思っていた。





 そして幾年か経った頃、宗子は中級貴族の次男と結婚したのだ。だが、そのことが兼俊に大きな打撃を与えることはない。兄は妹の結婚を祝福することも、妹が離れて行くことを嘆くことも、どちらもしなかった。いや、できなかった。


 宗子が結婚する数年前。妹に面白い話を届けてやろう。そのネタが必要なのだ。そう言って出かけた先で悪質な追剥に遭って左兵衛佐兼俊は命を落とした。夏の怪異に遭遇したのだから、いつしか物の怪に喰われるのではないだろうか、と言われた男にしてはあまりにもあっけない最期だった。


 宗子は兄が語った物語を全て破棄した。思い出すことが辛かった。いつか自分が死んだ後、自分以外の者の目に触れてしまうのが嫌だった。たった一つ。初めて聞かせてもらった山明かりの物語。それだけを心に留めて彼女は生きた。


 時が巡り、自分が別の体と心を手に入れたとしても、この物語だけは絶対に忘れないように。いつか、どこかで、姿を変えた兄に出会えたら、その時は――。


「また物語を聞かせてくださいね、兄上様」





          ●





 愛する宗子のために面白い話を作ろう。そう思って兼俊は出かけた。しかし、山で追剥に襲われた。そして、書き留めて以来、手放すことのなかった山明かりの話の原本を抱きしめたまま死んでいった。


 妹に逢いたい。妹を抱きしめたい。妹に物語を聞かせたい。


 その執念だけで兼俊は体を失ってなおこの世に留まり続けた。地図を失った旅人のように彷徨う浮遊霊は、妹を探し続けて何度も季節を巡った。何年過ぎただろうか。次第に生前の記憶が曖昧になってきていることに兼俊は気が付いた。いつか妹のことも忘れてしまうかもしれない。その恐怖に満たされた彼は何よりも大切な、唯一の自分が生きた証である一冊の本を抱きしめた。


 何度も何度も時間を繰り返した。


 親友だった同僚の顔を、父の顔を、母の顔を忘れた。名前を忘れた。宮中で人気だった公達のことも、恋の話の尽きなかった女房のことも、全て忘れてしまった。


 風流とは風を感じることである。ある貴族に聞いた気がしたが、誰の言葉かは思い出せない。


 それでも、歳を取らなくなった兼俊と半ば同化してしまったらしい本だけはいつまでも朽ちることがなかった。





「やあ、君、浮遊霊?」


 ある時、声をかけてくれた者がいた。何人も、自分の姿を見る者に会ってきた。しかし皆逃げてしまうのだ。初めてだった。兼俊は縋りつくようにその男の手を取った。触ることなどできないはずなのに、兼俊の手は男の手をしっかりと掴む。男の手にはよく分からない文字が書かれた護符が握られていた。


「掴んだな? 掴んだね? これで君は私の相棒。よろしくね」


 何を言っているのだろうと思ったが、その次の瞬間、兼俊は自らの体に変化が起きていることに気が付いた。重力を感じることができ、そして、空腹感を覚えた。おにぎり、というらしい食物を差し出しながら、男は「陰陽師なんだ」と言った。火野坂恭介だ、と名乗った。


 恭介と共に暮らすようになり、兼俊は久方ぶりに筆を手に取ることができるようになった。しかし、筆は進まない。聞いてくれる妹が、笑ってくれる妹がいないのであれば、物語を綴っても意味がない。気分転換に手伝い始めた喫茶店の仕事が板についてきた頃には、執筆よりもコーヒーを淹れることの方が楽しくなってきていた。


 そして兼俊は、妹の名前を忘れてしまっていることに気が付くのだった。


 妹の存在こそが兼俊をこの世に留めているのだと、恭介は兼俊に思い出すよう何度も言った。しかし千年の時を経た記憶はどんどん欠落していってしまう。無理に思い出そうと苦しんでいる姿を見て恭介は執拗に訊ねることをしなくなる。


 いつの間にやら恭介の店に居座るようになった飛歌流も最初は兼俊を心配していたが、無理に思い出そうとして疲弊していく様を見て口を閉じた。


 「誰か」となってしまった者のために、兼俊は本を捲る。


 自分は貴族である。偉そうに胸を反らせていた兼俊は、自分が貴族であることすらも忘れた。


 今の世を過すために恭介が与えた仮の名をまるで実の名であるかのように名乗る兼俊を見て、恭介と飛歌流はひどく心を痛め、彼を案じた。





 ずっと誰かを探している。何よりも大切だったはずの人。今はもう会えない人。


 また、あの頃のように、かわいらしい笑顔を浮かべながら、私の物語を聞いておくれ――。


 名もなき著者は、名もなき本を手に大切な誰かを探している。





          ○





「リラさんは、きっと宗子の生まれ変わりなんだ。そうだろう。俺が語ったこの物語を、何度生まれ変わっても忘れなかった。そうだろう」


 兼俊――俊哉は断定する。しかし、リラは首を横に振った。


「違う。違います、鶫さん。私は違う」

「そんなわけない。だって、顔もそっくりだ。俺は思い出したんだ」


 俊哉は飛歌流を押し退け、やや乱暴にリラの肩を掴む。少し血走った眼は、妹を求めてやまない兄の危険な愛を大いに孕んでいた。最初は怯えていたリラだったが、俊哉の過去を聞くにつれて落ち着いて来たようだった。まだ落ち着かないのは俊哉の方だ。


 リラは俊哉の手を取り、申し訳なさそうに引き剥がす。


「鶫さんが探しているのは私じゃない」

「どうして」

「だって、私はあのお話をおばあちゃんに聞いたんだもの」

「おばあ、ちゃん……」


 俊哉はリラから引き下がる。


「リラさんのおばあさんには、逢える?」


 リラは躊躇っているようだった。店内に流れ続けていたジャズのCDが最後の曲まで行ったらしく停止した。


「……母方の祖母は、もう、亡くなっています」


 体中の力が抜けたように、俊哉は床に頽れる。烏帽子が脱げ落ちたが、それを恥じることすらない。


 俊哉が、兼俊が浮遊霊となってこの世に留まったのは、もう一度妹に逢うためだった。妹は何度人生を繰り返しただろうか。例え違う姿になっていても見付けてみせるから。


 ようやく見付けた。けれど、この時代の妹は既に死んでいた。


 飛歌流が俊哉の肩に触れた。見てきたからこそ、妹を探していた俊哉の気持ちはよく分かっていた。何か声をかけるべきだと思った飛歌流は神々しさを放ち続けたまま、願いを受け取る神のように俊哉に向き合う。


「俊哉君」


 しかし、俊哉はそれを振り払った。烏帽子を拾ってよろめきながら立ち上がる。


「……お世話になりました」


 死んだような目をして歩き出す。実際に死んでいるのだが、いつもの元気な鶫俊哉とは大違いだった。夕闇に消えていく幽霊を呼び戻そうとするかのように、開け放たれたドアはリロンリロンとベルを鳴らした。




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