弐 繋がり
曲が終わりシーリングファンの音だけが聞こえる店内。リラは恭介の言葉を繰り返す。
「平安……貴族……」
平安時代が好きなコスプレ野郎だと思っていた。面白い人だなと思いながら見ていたことをリラは心の中で謝罪する。狩衣を好んで着ていたのも、古語を時々話すことも、短歌を詠むことも、平安時代オタクだからだと思っていた。しかし、俊哉は本物の平安貴族だったのだ。リラの頭に描かれていた平安貴族のイメージが崩壊していく。白塗り、お歯黒、麿眉その他諸々の教科書的な姿がコーヒー好きの店長に塗り替えられていく。
困惑した様子のリラを見て、恭介が再び溜息を吐いた。長い前髪が半ば目に被っていて常に仄暗い印象を与えているが、いつにも増して暗かった。
「狩衣を着ているのも、短歌を詠むのも、体に染みついた習慣なだけなんだ。きっと俊哉本人に自分が貴族だからという自覚はもうない。当時の人にとって烏帽子を人前で脱ぐことはとても恥ずかしいことだった。それも恥ずかしいと思っているだけで、なぜ恥ずかしいと思ってしまうのかは分からなくなっている」
「つぐみんかわいそう……。わたしは覚えてるぞ、昔のことも!」
「人と妖怪は違いますからね。僕も……」
何かを言いかけて飛歌流は口籠った。誤魔化すようにナポリタンを食べながら恭介に続きを促す。
「私は彼に何をしてあげればいいのか分からない……。鶫俊哉としてコーヒーを淹れ続けさせるだけでいいのだろうか。私は陰陽師だ、仕事のサポートをしてもらえればそれで十分で、戦闘や諜報は必要としていない。だから、それでもいいと思っていた。けれど……」
恭介はリラの方を見た。一瞬その瞳が赤く光ったが、すぐに茶色いごく普通の瞳に戻る。
「けれど、リラちゃんが来てから俊哉の様子がおかしい」
「私……?」
リラがアーカーシャへ来てから、俊哉はぼんやりしていることが増えた。遠くを見つめてぼーっとしていたり、アザラシの抱き枕に倒れていたり、いつも持っている本を意味もなくぱらぱらと捲ったり。そして、リラを見てとても優しく笑うのだ。
リラに対して緊張していたり、頬を赤らめていたり、デレデレしていたり、誰かに似ていると言ったり。皆から次々と目撃談があがっていく。リラ自身にもそれらのことに心当たりはあった。
ナポリタンを食べ終え、片付けを済ませてから恭介はリラに部屋へ来るように言った。店は飛歌流と人間に化けた真白が対応することとなった。
複雑に絡み合うような廊下を抜け、リラは階段を昇る。護符が大量に貼られた壁。やはり不気味であることこの上ないな、と思いながらリラはドアを開けた。
「失礼します」
「その辺の椅子に座ってて」
カーテンが半分閉められた部屋、恭介はパソコンに向かって座っていた。回転式の椅子を回してリラの方を向く。
「君を占ってもいいだろうか」
「私を、ですか」
「あんなにも俊哉が人を気にするなんて初めてでね、何か本当に、繋がりがあるのなら……。式のために主として何かできるのではないかと思って」
リラが頷いた瞬間、すぐ目の前に恭介が来ていた。前髪の向こうで瞳が真っ赤に光る。リラの座っている椅子と恭介の間にはいつも使っている不可思議な文様の書かれた紙と護符が広げられていた。風もないのに護符がわずかに揺れる。
リラは生唾を飲み込んだ。いざ自分が占われるとなるととても緊張する。固くなっているリラを見て噴き出しそうになりながらも、恭介はリラと俊哉の繋がりを詠み解いていく。しばしの沈黙の後、護符に翳していた手がぴくりと動く、はっとした顔になったその頬を汗が伝った。
「見えっ……! っ、あ……」
恭介の上体が揺らいだ。瞳に宿っていた赤い光が消え、まるで電源の切られた機械のように床に倒れる。相変わらず掃除をしていない汚部屋の床から埃が舞った。
「えっ……恭介、さん……?」
リラが状態を確かめようと椅子から降りて屈むのよりも早く、階段を駆け上がってくる足音が響いた。リラの手が着流しに触れたところでドアが開かれる。驚いて顔を上げた先に立っていたのは息を切らせた俊哉だった。俊哉はリラのことを見て、そして倒れている恭介を見る。
狩衣の広い袂がぶわりと広がった。勢いよく屈んだため空気を孕んだのだ。
「オーナー!」
「あ、あの、私のことを占うって言って、そして、占ってて、『見えた』って言った途端倒れてしまって」
「どうして一人占っただけで倒れるんだ」
「私と、鶫さんの繋がりを詠むって……」
恭介を見ていた俊哉がリラへ視線を移す。
「俺と、リラさんの……? 何でまたそんな……」
「鶫さんのことが分かるかもしれないって」
「俺のこと。……俺が、忘れてしまったこと?」
俊哉は胸元に手を当てた。懐にしまっている大切な本を装束越しに撫でる。
「とりあえず、オーナーが目を覚ましてから……」
餡子たっぷりの饅頭に蜂蜜をかけて、珈琲にもみるくをたくさん……。とぶつぶつ呟きながら俊哉が部屋を出ていった。倒れている恭介をそのままにして。
リラは部屋を見回す。いくら初夏だからといって、床に倒れていては風邪を引いてしまいそうだ。資料が山積みになっているベッドからタオルケットを引き剥がして恭介にかけてやる。
「何が見えたんだろう……」
カーテンを閉めてリラは恭介の部屋を後にした。
閉店間際、客足も伸び悩んできたところでベルを鳴らさずに入店して来た客がいた。ドアを開けずに、すり抜けて。
まだ普通の客もわずかに残っている。リラは見えていない振りをしてカウンターに立っていた。
「いらっしゃいませ、カフェ・アーカーシャへようこそ」
俊哉が対応する。やって来たのは三十代くらいの男だった。小さな声で何かを言いながら歩いているようだが、リラはまだしも俊哉にもよく聞き取れない。男の幽霊は声をかけた俊哉に目もくれず、ただただ前へと歩き続けていた。
行くべき場所を失った浮遊霊はあてもなく歩き続けていることがある。おそらく、この男もアーカーシャへ用があったわけではなく偶然入り込んでしまったのだろう。客席の間を堂々と通り抜けてそのまま壁の向こうへ行ってしまった。
リラは俊哉の方を向く。
「時々あるんだ、お客さんじゃない幽霊が通り抜けていくこと。けれど何の反応もなかったな……。あの人、もう駄目かもしれないな」
「何が駄目なんですか?」
訊ねたのはリラではない。先程の男の幽霊だ。いつの間にか戻って来ていたらしくリラも俊哉も驚いて彼を見つめる。
「なんだ、反応できるんじゃないか」
「僕は別にコーヒーがほしいわけではないので通り過ぎただけですよ。それだけで駄目なやつ呼ばわりは失礼なんじゃないですか。変な格好の人に言われたくないですね」
「変な格好だと、そっちこそ失礼な。駄目って言ったのはあんたの人間的な部分についてじゃなくて、霊体的な部分についてだ。悪霊になっちゃうかもって」
「失礼な」
男は俊哉に掴みかかろうとしてすり抜け、勢い余ってカウンターをすり抜け、リラの隣に飛び出してきた。そこでようやくリラは男の顔をはっきりと見る。そして、拭いていた皿を落としかけた。
調理が一段落し厨房で休憩していた飛歌流が手にしている新聞を見て、目の前にいる男のことを見て、もう一度新聞を見る。何かあったと気が付いた飛歌流も新聞と男を確認する。畳みながら読んでいたため、リラの方に地方欄が向けられていた。俊哉も厨房へ向かい新聞を覗き込む。
そこには若くして命を落とした彫刻家について書かれていた。繊細な掘り込みが美しい動物の置物を作ったそうである。しかし、彼のことは知る人ぞ知る存在。記事の内容も、「実はこんな人がいました」というような書き方だ。五十年以上前に夭折した彫刻家。それが、アーカーシャに通りかかった浮遊霊の正体だった。
そして――。
飛歌流が新聞を取り落とした。
「三間坂先生……」
神秘的な光を揺らす深い深い茶色の瞳が震えた。