捌 むかしむかし
かっちゃんが成仏してから数日。真白は再び一人遊びの日々に戻っていた。お手玉をしながら店内を眺めている。
昼休みと思われるサラリーマンが食事を終えて帰ると、アーカーシャも昼休みに入る。椅子から降りて真白はカウンターに近付いた。よじ登るようにしてカウンターの椅子に座り、お手玉を続ける。
「今日の賄いはオムライスですよー」
飛歌流の特製オムライスがカウンターに置かれると、真白は目を輝かせた。リラもカウンターから出てくる。
「よかったー、真白ちゃん。元気そうだね」
「ほえ?」
「ちょっと寂しそうだったからさ。安心したよ」
そう言って微笑むリラを見て、俊哉は少し頬を赤らめた。その変化に飛歌流が気が付く。
「俊哉君?」
「あ。あー、えっと。リラさん、さあ。俺とどこかで会ったことある?」
「はい? 私?」
「いや、ないよね。あるわけないよね」
俊哉は口元に手を当てて考え込むような素振りを見せた。
「誰かに似てるような、そんな気がしてね」
「つぐみんが探してるのってリラなんじゃない?」
小首を傾げる真白に、リラと俊哉は「まさかー」と同時に答えた。飛歌流だけがまだ考え込んでいる様子だったが、誰も気が付かなかった。
正確な腹時計に従って奥から出てきた恭介を加え、皆で昼食を食べる。とろけるたまごと優しい味のケチャップライス。注文数も多いアーカーシャの看板ランチである。
真白は口の周りのケチャップを舐めとる。さながら人食い化け猫の食後のようである。
ぺろりとたいらげ、皿が流しに置かれる。飛歌流が皿を洗い始めたのを合図に、真白がリラにお話をねだった。聞こうとしていて聞けていなかったお話。
珍しく奥へ行くドアではなく外へ出るドアの方へ向かっていた恭介が足を止め、興味深そうにリラを見る。
「へえ、気になるなあ」
「小さい頃から、心の深いところに残っている話なんです」
「なるほど、今度私達にも聞かせてもらえないかな」
「お出かけですか?」
協会の定例会にね。と恭介は答える。
「行くよ、俊哉」
「ふあーい」
連れ立って出て行く陰陽師と式を見送ってから、リラは真白に向き直った。
リラの正面を陣取って真白は目を輝かせる。皿を洗っている飛歌流もそちらに意識を向けていた。
「昔々のお話。京の都に、男の人が住んでいました。名前を兼といいます。兼さんが真面目に働いていたある日のこと、不思議な噂が都を包み込んだのです。なんということでしょうか、山が光るというのです」
わくわくした様子の真白が身を乗り出す。
「都の偉い人達は、それを山明かりと呼んでいました」
リラはお話を続ける。
○
夏は夜。と、かの清少納言も『枕草子』にそう記している。夏の夜は漆を塗りこめたように暗く、そこに浮かぶ蛍であったり、空に広がる星々であったり、光るものがよく映える。
しかし、通常ではありえないようなものさえ光るのだという。近頃宮中で話題になっているのは「山明かり」という光のことだ。夜遅く、山の中腹がぼんやりと光り輝くのだという。始めは街の庶民達の噂に過ぎなかった。ところが先日、貴族が「自分も見た」と言いだして一気に話が広がったのだ。そして噂は大きくなる。あの山にはきっと不思議な力があるに違いない、と。
兼もその話を聞いて多少の興味を抱いていた。仮にそれが神仏の光なのであれば、自分の目に焼き付けて加護を受けたい。しかし、物の怪の類かもしれないと心のどこかで思っていた。鬼の行列が灯す松明だとしたら、見付けたところで食べられてしまうだろう。想像するだけで背筋がひんやりした。
同僚の定は心配そうに声を掛ける。
「どうした、身震いして」
「定、『山明かり』ってどう思う」
「ご加護があるならいいけど、私は物の怪の類かもしれないと思って背中がぞくぞくするよ」
「なるほどな。陰陽師に依頼する方もいらっしゃるようだけど、正体は分からないそうだ。御前の言う通り物の怪なのかもしれないな」
「陰陽師でも正体を暴けず倒すことができないなんて、そんなにおそろしい物の怪がいるとしたら怖くて眠れないな」
午後二時頃、仕事を終えた兼は邸へ帰った。
自室へ向かった兼は、机の上に置いたままになっていた『枕草子』を手に取った。今朝方ちらりと見て、そのままだったのだ。「春はあけぼの」と書かれている。そして、「夏は夜」。光るものなど蛍と星だけでよいのに、山まで光ることはないだろう。
「兼様」
兼の家の牛車を任されている召使の少年が庭から声を掛けてきた。手には折り畳まれた紙を持っている。
「お手紙です」
「誰からだい」
「それが、深く笠を被っていて顔はよく見えなかったんです。でも、兼様に必ず渡してくれと。ふふふ、あれは麗しい女性の従者かもしれませんよ」
「冗談はよせ」
召使の少年から受け取った手紙を開いて、兼は目を丸くした。
『子の刻に鴨川で待っています。二条の近くにいますので、間違えないように』
真夜中に川まで来いとはどういうことか。これが恋文なのであれば、相当特殊な感性の女性が相手なのだろう。
「そういえば、最近邸の前に鼠の死体が放られているんです。つかぬことをお聞きしますが、何か人の恨みをかっているとか、ないですよね」
「ただのいたずらだろう。そんな冗談を言っている暇があったら牛の世話でもしていろ」
「すみません」
ぺこりと頭を下げて少年が下がる。
兼は手紙に目を下ろす。怪しいことこの上ないが、手紙を無視するのはよくない。仕方がないか、と兼はひとりごちた。
そして静まり返った真夜中。そんな水無月の夜。
兼は邸の東門から外に出て、鴨川を目指す。
月明かり差し込む道はかろうじて明るいが、木陰は完全に闇となる。あの闇に鬼が潜んでいるのではないだろうか、そうして、人間を襲うのだ。陰陽師に方角の吉凶を占ってもらえばよかったと兼は思った。『伊勢物語』さながらに鬼が現れ、女諸共自分も食べられてしまうのだ。そこまで想像して兼は首を横に振った。
そうこうしているうちに、鴨川の淵に辿り着く。
「兼様ですね。お待ちしておりましたよ」
川辺に女が立っている。月光に白い顔が浮かぶ女房だ。「一体何の御用でしょうか」と言おうとした兼の腕を掴み、女房が走り出した。脱げそうになった烏帽子を押さえながら、兼は引っ張られていく。それは女性の力とは思えないほど強く、一緒に走らなければ腕の一本簡単に持って行かれそうだった。女の方が鬼であったかと兼は思ったが、逃げることはできないようだ。そのまま森に入り、山を登り始める。「山明かり」の目撃が相次ぐ、件の山である。
木々の間を縫って進み、やがて開けた場所に出る。そこに広がる光景を見て兼は己の目を疑った。これは夢か現か、どちらだろうか。頬をつねって、涙目になる。
広場のようになった場所で数多の狐や狸が踊り狂っていた。後ろ足で立ち上がり、前足を打ち鳴らす者。きゅわーん、きゅーんと鳴き声をあげる者。腹を太鼓のように叩いている者。器用に飛び跳ねる者。中には猫や鼬も混じっているようである。
「今宵は最終夜。ぜひ兼様にもご覧いただきたいと思いまして」
「これは、これは何なんだ」
女房はからからと笑い声を漏らした。細い目がさらに細められ、耳が尖る。恐れおののく兼の前で女房はくるりともんどりうって、一匹の狐となって着地した。狐は兼を見上げる。
「これは『夏の夜踊り』。洛中洛外の獣が集まって五日間交代で踊るんです。昨日は熊と狼が踊っていましたし、さらにその前の日は鳥達と兎でした。最終夜の今日は狐と狸。さあ、兼様も踊りましょう」
「待て、待て、なぜ私が獣達の踊りに参加することになる。どうしてこんなところへ連れてきた」
兼のきつい口調に、狐は耳をしょんぼりと下向きにする。
「うう、突然すみません。けれど、初日からずっとお誘いしていたではないですか。お邸に贈り物をお届けしましたよ」
「何だって。じゃあ、あれか。あの鼠の死体は君達が持って来たんだな」
「そうです」
「どうして私なんだ。人間を誘うにしても、もっと動物が好きなやつとか、物の怪が好きなやつとかにすればいいだろう」
「これは、御恩を返そうとした次第にございます」
恩返し? と兼は首を傾げる。狐は恭しく頷く。踊りの輪から何匹か狸が外れて、兼の前に並んだ。一番大きな狸が一番小さな狸を指し示す。
「これはうちの末っ子です。先日、兼様が命を救ってくださいました。ほら、お礼を言いなさい」
「ありがとーごじゃいましゅ」
「父親として、なんと感謝してよいのやら。本当にありがとうございました」
考え込む兼の眉間に皺が寄った。思い出されたのは十日ほど前の事。寺に立ち寄った帰り道で、木の洞に挟まってもがいている何かを見付けたのだ。従者と共に引っ張り出したところ、それは小さな子狸だったのだ。礼をして去って行った姿がかわいらしかったなあと従者と笑い合ったのを覚えている。兼はぽんと手を打った。
「あの時の狸か」
「へえ、そうです。お礼に、私達の踊りをご覧頂こうと思ったのです」
狸の家族が深々と頭を下げた。狐も満足そうに頷いている。そして、飛び上がって再び女房の姿になった。それがまるで合図だったかのように、狐と狸が次々と人の姿へ化けていった。束帯姿に狩衣姿、女房装束、庶民の姿。様々な姿で人々は踊り狂う。猫と鼬も何匹かが人に化けて輪に入る。
「『山明かり』とは、この踊りを照らす篝火だったのか」
「そんな名前で噂されてるみたいですね。夏は毎年やっていますよ。人々が気付かぬだけです」
気が付かれてしまうほどに明るい光が揺れるのは、仲間を救った彼の者への感謝があったからだろうか。漆を塗りこめたような夏の夜に笑い声が木霊する。
「さあ、兼様も」
女房に手を引かれ、兼も輪に入った。見よう見まねで踊っていると、輪の外にいた川獺から「なかなかいいよ」と声が掛けられた。狂ったように皆と踊っていると、だんだん楽しくなってくる。我を忘れて、兼は動物達と踊り続けた。
○
「そうして踊り続けて、気が付いた時、兼さんはたくさんの葉っぱに埋もれて目を覚ましました。傍らには木の実がいくつも置いてあります。いつの間にか眠っていて、朝になっていたのです。あれは夢か現か、兼さんにも分かりません。けれどそれ以来、都で山明かりが目撃されることはありませんでした」
おしまい。とリラが言う。真白は両手を振り上げて「不思議だー!」と叫んだ。
「妖怪の真白ちゃんにはちょっと面白くないかなと思ったんだけど」
「面白いぞ! 不思議不思議! かっちゃんにも聞かせてあげたかった!」
椅子から飛び下りて真白は店内を走り回る。くるりと宙返りをして子猫の姿になり、椅子とテーブルの脚の間を縫うようにして走る。
「面白ーい!」
千年前の京都に住んでいたと言われる兼という男の物語。幼い頃から、リラの頭に残り続ける物語。
走り回る真白の様子を見ていたリラは、カウンター内から呼びかける飛歌流の声に振り向いた。飛歌流は驚いた顔をしてリラを見つめている。方向感覚を失ってしまいそうな樹海のように、深く暗く美しい瞳がリラを見据えて動かない。
「木山さん、その話はどこで知ったものなのです?」
「えっと……」
リラは続きを答えることができなかった。「リラ! 遊ぼ!」と言って真白が激突して来たからだ。真白に手を引かれ、反対の手でお手玉を持ってリラは席を離れた。
ごめんなさい飛歌流さん! と言って遠ざかるリラを見て飛歌流は小さく呟いた。
「まさか、まさかな……」