漆 幼子の声響き渡る
祭り当日。六月の日差しが札幌の街に降り注いでいた。
かっちゃんを連れてリラ達は歩道に立っていた。猫耳のままの真白はかっちゃんと並んで車道近くを陣取っている。そのやや後方で、リラは飛歌流と一緒に様子を見ている。俊哉は近くのビルの壁に凭れて、少し離れて一同を見ていた。恭介の姿はなく、今日も今日とてやる気のないオーナーは『CLOSED』の札の向こうで優雅な休日を過ごしている。「最近外に出すぎて苦しい」と言って頑として動かなかったのだ。
予定時間が迫っていた。この後、車道を使ってのパレードが開かれる。列になった踊り子達が次々と現れては消え、現れては消えを繰り返すのだ。
聴衆がどっと盛り上がった。いよいよかとリラ達も車道に注目する。そして、軽快な音楽と共に踊り子達が練り歩いてきた。鳴子を振り、跳ね、回り、掛け声を上げる。近くで見るのは初めてだったため、リラは小さく拍手をした。
いくつめのチームだっただろうか、大学生のチームがリラ達の前にやってきた。これを待っていたのだ。リラは無意識に身構えてしまう。
「ぴょんぴょん!」
かっちゃんが立ち上がった。踊り子の動きを真似して体を動かす。
「木山さんの学校のチームですか?」
「はい。あっ。あの、ねえ、飛歌流さん。あの衣装見てください」
衣装に長い布のパーツを用いているらしく、踊り子達の動きに合わせて布が龍の尾のようにうねうねと動いていた。
「飛歌流さんの髪の毛みたい……。かっちゃんが飛歌流さんに興味を持っていたのって、たぶんあれに似ていたからですよ」
「なるほど。言われてみれば確かに」
かっちゃんの隣で真白もぴょんぴょんと跳ねている。すっかり仲良くなった二人は、繋げない手を取り合うようにしながら一緒に踊り続けた。
最後尾の女子学生が目の前に来た時、かっちゃんの動きが止まった。美紀だ。衣装を纏いメイクをしているとまるで別人のようであるが、かっちゃんには分かったのだ。かっちゃんは両手を口元に当て、メガホンの形にする。
「お姉ちゃーん! 頑張ってー!」
リラと飛歌流は顔を見合わせる。後方で様子を見ていた俊哉も凭れかかっていた壁から体を離した。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん! かっちゃん、ここにいるよ! お姉ちゃん!」
かっちゃんの声が聞こえるわけもなく、美紀は集中して演舞を続けている。リラの姿もおそらく視界には入っていないだろう。しかし、かっちゃんは諦められないようで声を張り上げて声援を送る。幼い歓声は次第に泣き声に似てきた。
寒気を覚えてリラは腕をさする。六月にもなれば、北の大地に吹く風も暖かくなる。しかし、何かが背筋を凍えさせるような冷たさを運んで来たのだ。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん! こっち見てよお! なんでかっちゃんに気付いてくれないの! 見付けたら合図するって言ってたじゃん!」
マズいな……。と飛歌流が呟いたのが聞こえた。リラが声をかける間もなく、群衆を押し退けて飛歌流が車道へ近付いた。
「子供を助けずして、何がアッカムイだ」
軽く身を屈めて飛歌流はかっちゃんの肩に触れた。
「大丈夫、僕に委ねて」
はっとしたかっちゃんは軽く飛歌流を見てから、車道に向き直った。リラの寒気は消えていた。真白も俊哉も警戒態勢を解く。
飛歌流の長い髪が揺れた。絹織物が広がるような美しい動きだった。
「僕の風に声を乗せて」
柔らかな風がかっちゃんを包み込んだ。歌声は誰にも聞こえていないが、飛歌流が歌っていた。歌が風となって舞い踊る。
「お姉ちゃん! 頑張って!」
かっちゃんの声を重ねて、風の歌は美紀の方へと流れていった。
踊っていた美紀は一瞬視線を彷徨わせた。堪えるような、噛みしめるような笑みを口元に浮かべて通り過ぎていく。
「お姉ちゃん、かっちゃんの声聞こえた!」
嬉しそうに飛び跳ねるかっちゃんを見て、飛歌流は満足そうに頷いた。
パレードが終わり、一同はアーカーシャへ戻って来ていた。
「かっちゃんの周りに瘴気が見えた。あのままだとあの女の子を求めて悪霊になるかと思ったけれど、飛歌流さん何かしたの?」
冷蔵庫を開けながら俊哉は問う。飛歌流は負けを認めるように肩を竦めて見せた。
「子供の神、子守の神。アッカムイならば困っている子供のピンチを救うのは当然のこと。……認めましょう。僕は野衾ではありません」
「ようやく認めたかー。やっぱり神様なんだ?」
「正確には眷属なのですが、まあそんなもんですね。もう少しミステリアスなお兄さんを演じていたかったのですけれど……」
飛歌流は苦笑する。
「神様お疲れ様です」
俊哉はカウンターに麦茶を注いだグラスを置いた。ピッチャーを戻し、冷蔵庫を閉める。
「神様って呼ばないでくださいね。僕は飛歌流、野衾の飛歌流なのですよ」
「はいはい」
店内には雅楽が流れ始める。シーリングファンの稼働音とラジカセから流れる雅楽、そして真白とかっちゃんのはしゃぎ声を聞きながら飛歌流は麦茶を飲んだ。
俺も飲むかー。と冷蔵庫を開ける幽霊を眺めて、モモンガの神様はグラスを手に穏やかな時間を過ごす。
皆に「先に帰ってて」と言って、リラは会場に残っていた。演舞を終えたチームに近付き、同じ学校の学生であることを告げると彼らは明るくリラを出迎えてくれた。無難な感想を述べつつ美紀を探す。ごちゃごちゃとしているチームを掻き分けながら進んでいくと、友人に囲まれながら涙を拭っている姿が見えた。
「あ、あのー」
「あっ! えっと、木山さん、でしたよね」
「ちょっとお時間よろしいでしょうか」
友人の輪を抜けて、彼女はリラに近付いた。メイクを崩しながら溢れているのは嬉し涙だろうか。タオルを顔に押し当ててから改めてリラに向き直る。
「さっきのパレード、弟さんと一緒に見ていました」
「連れてきてくれたんですね」
「嬉しそうに見ていましたよ」
かっちゃん。と小さく呟いて美紀は涙を零した。タオルを再び顔に押し当てる。
「声が聞こえた気がしたんです。弟の。本当に見ていてくれたんですね。……嬉しい。ありがとうございました。木山さん」
「いえいえ。あっ、そのぅ、私と陰陽師さんのことなんですけど」
「……秘密、にすればいいですか?」
「はい、お願いします」
美紀はタオルを手に頷いた。
弟によろしく伝えて下さい。声、届いたよって。
伝言を受け取り、リラはよさこいサークルの面々から離れた。
アーカーシャに戻ったリラが姉の言葉を伝えると、かっちゃんは元気よく飛び跳ねた。
「お姉ちゃん! 好きー!」
きゃー! と言って店内を駆け回る。それを追い駆けて真白も駆け出す。しばらく走っていると、小さな体に光が差し始めた。姉の演舞を見たかった。姉の応援をしたかった。幼い幽霊に、もう思い残すことはない。
「かっちゃん」
カウンターから出てきた俊哉がグラスを差し出す。透明なグラスの中には半透明の液体が揺れていた。小さなかっちゃんにはコーヒーはまだ早いという判断なのだろう。
「最期の一杯。果物のみっくすじゅーすだ」
かっちゃんは恐る恐るグラスを手に取る。それを確認すると、俊哉は目を閉じた。
俊哉の纏う空気から音が消え失せたかのようだった。滝上で感じたものと同じ緊張に包まれ、リラは音を立てないように意識する。店内には誰もいない。そう思えてしまうほどに静かで、聞こえているのはシーリングファンの稼働音だけであった。ラジカセも誰かの手によって止められている。
「幼子の声響き渡る初夏の日は舞う人心も踊るようなり」
幼子の声が響き渡る初夏の日。舞う彼女は、その心も踊るようだった。
短歌を詠み終え、俊哉が目を開いた。場に漂っていた緊張感が霧散する。呆然として自分を見上げているかっちゃんに気が付き、俊哉は「飲んでいいよ」と促す。そして懐から短冊と万年筆を取り出すと、先程の歌をさらさらと書き記した。
かっちゃんはグラスに口を付け、ジュースを飲む。柔らかな頬がさらにとろけてしまいそうなほどの笑顔を浮かべて飲んでいる。一体何をミックスしているのだろう。リラはカウンター内を覗き込んでみるがそこに材料らしい材料は見当たらなかった。
「美味しい! ありがとうお兄さん!」
ごくごくと飲み干して、グラスを俊哉に返す。かっちゃんの体から放たれる光が強くなっていた。皆に礼をし、最後に真白を見る。
「真白ちゃん! 元気でね!」
「……かっちゃん」
消えていくかっちゃんに真白は駆け寄る。もう一度だけでいいから、と真白はぴょんと跳ねた。かっちゃんも手を広げる。そして、幼子の笑い声は光と共に散っていく。
もう何もなくなってしまったところをじっと見つめて、真白は唇を噛んでいた。かっちゃんがアーカーシャへやってきてから、真白はいつも相手をしていた。かっちゃんと一番長い時間を過していた。外見は同じくらいの年だが、実年齢は真白の方がはるかに上である。猫又の少女はこれまで何度も人間を見送って来た。しかし、それでも寂しいと思ってしまう。
「仲良く……なりすぎちゃったのかな……」
「そんなことありませんよ」
飛歌流が撫でてやると、真白は無言で振り向いた。それを受けて無言で屈んだ飛歌流が両手を広げてやると、無言でその胸に飛び込む。
幽霊が消える瞬間を見るのはこれで二回目。リラはかっちゃんの立っていた場所を見つめる。本当に跡形もなく消えてしまうのだと改めて実感した。この先これを何度も経験するのだ。人が死んでしまうことはもちろん悲しい。やり残したこと、思い残したことがあって留まった人が本当の最期を迎える姿も悲しい。しかしそれと同時にすがすがしさも感じられるのだ。サダもかっちゃんも笑顔だった。
リラは俊哉に歩み寄る。
「行っちゃいましたね」
「最期の一杯、しっかり届けたよ」
彼岸へ旅立つ者へ最期の一杯を提供する喫茶店。幽霊店長の手には空っぽのグラスがある。
「逝ってらっしゃい、かっちゃん」
無邪気な心のように透き通ったグラスに指を這わせて、俊哉は呟いた。