伍 北の祓い屋
「はいどうぞ」
俊哉が盆を手に戻ってきた。ソーサーとコーヒーカップを机に置き、シュガースティック五本とスプーンを添える。
「ありがとう。では始めようか」
カーテンが開けられており、部屋は明るい。積み重ねられた書物やぺらぺらのクッションを動かすたびに埃がきらきらと舞った。
「先に片付けておいてくださいよ。珈琲に埃が入ります」
「入らないようにするから」
「普段片付けないからこういう時困るんですよ、オーナー。だいたい、どうしてこんな部屋……汚部屋……」
俊哉の言葉を遮断し、恭介は黙々と準備を整えていく。床には古びた大きな紙と護符が置かれた。大きな紙には先程の陣にも似た模様が描かれている。何かを占うのだろう。リラは真剣な眼差しで恭介を見ている。部屋の汚さに文句を言う俊哉の声は二人には聞こえていないようだった。思わず漏れた溜息も聞こえていないようである。
砂糖を全て投入したコーヒーを一口飲んで、恭介は紙に向き直った。大きく息を吸って、吐いて、目を閉じる。難解な模様の上に載せられた護符に手をかざすと、風もないのにふんわりと浮かび上がった。
「かっちゃんとお姉さんはとても仲が良かったんだな」
恭介が目を開ける。
「二人は今でも強く繋がっている。きっと、かっちゃんのことを話しても気味悪がることはないだろう。かっちゃんに関しては、だけどね」
「かっちゃんに関しては」
「リラちゃんのことをどう思うかは分からない」
リラは唇を噛む。軽く俯き後退ったリラは後ろにいた俊哉にぶつかってしまった。
「っ、ごめんなさっ……」
「じゃあオーナーが行けばいいじゃないですか」
大量の砂糖が溶け切っていないコーヒーをじゃりじゃりと飲んでいる恭介のことを俊哉は見る。窓から差し込む日光を受けて、俊哉の瞳に金色の光が揺れていた。リラはちらりと後方を見遣る。思ったよりも顔が近く少し緊張してしまうが、変に動くと護符を蹴散らしてしまいそうなのでおとなしくしている。
俊哉は恭介から目を逸らさない。新人の肩越しにオーナーを睨み付ける店長という絵。オーナーが圧力をかけているように見えるが実際は逆である。
「『こんにちは』って言って、オーナーがかっちゃんのお姉さんに話をすればいいんじゃないですか。オーナーは陰陽師なんだし、別に問題ないでしょう。リラさんは『偶然会った』って言えばどうにでもなると思いますけど。どうですか、オーナー」
「お外出たくない!」
「駄々をこねないでください! この前ライラックまつり行ったでしょう! 定例会にも!」
「もう何ヶ月分かまとめて出たからしばらく出たくない」
風も音もなく俊哉の狩衣の袂が揺れた。顔からは表情が消え、瞳に宿る金色が強くなる。
「主よ、仕事をしてください」
「……はい」
恭介は甘ったるすぎるコーヒーを飲み干すと、パソコンの方を向いた。八咫烏の壁紙、そこに計算ソフトが立ち上がる。編集済みの表があり、仕事の依頼主や場所や報酬などが一覧で表示されている。その一番下に「男児の浮遊霊」「よさこいの踊り子である姉」などと入力がされた。少し上に「老婆の浮遊霊」「花を見たい」「思い出」と書かれているのを見つけて、リラの口元に無意識に笑みが浮かんだ。
仕事に取り組む姿勢を見せた主を見て、式は満足した様子で頷いた。空になったカップとソーサーを手に、リラを連れて撤退する。
「オーナーはオーナーなりに色々考えてるから、いつ行くかとかどうするかとか、決まったら教えてくれるよ」
「やっぱりそれ体に悪そうですよね」
カップを見るリラに言われて俊哉は苦笑した。廊下を徘徊していた妖怪が貸し出している部屋に戻ったのを見送ってから、盆を軽く傾ける。コーヒーカップに、ソーサー、空になったスティックシュガー五本。
「ごっそり色々持ってかれるからね、占術使うと。ぱそこんの作業が終わったら後はもう晩御飯までぐっすっりだな」
「そんなに」
「軽い占いなら平気なんだ。でもやっぱり、人と人の繋がりを詠む時はかなりね……」
恭介の体の心配をしつつ二人が店に出ると、カウンター席に少年が一人座っていた。カウンターにはカフェモカが置かれている。飛歌流と楽しげに話していた少年はリラと俊哉に気が付きそちらを向く。
少年の目に見据えられて、リラは一瞬どきっとした。年の頃は中学生か高校生くらいだろうか。しかし、彼の視線はあまりにも重かった。何年も何年も時を過してきたかのような、全てを見透かしてしまうような、そんな目に思えたのだ。狼狽えるリラを見て少年は目元に笑みを浮かべながらカフェモカを飲む。そして俊哉に向かって会釈をした。
この少年の目には幽霊の姿が写っている。
リラは同類を前にして若干の喜びを感じつつも、先程から受ける緊張感に不安を抱いていた。少年を警戒したまま、エプロンを着けてカウンターへ入る。
「お姉さんが新しい店員さん?」
「あ。はい、木山リラです」
「初めまして、こんにちは。ボクは九条隼人といいます」
隼人はカップを手にリラへ会釈をする。リラも会釈を返す。
「リラさんも陰陽師ですか? それとも、霊媒師?」
「私はただの霊感持ちです」
「えっ」
「一般人をこの業界に引き込んだのか? 大丈夫か?」
深みのある低い声が聞こえた。隼人の鞄の中から飛び出した何かが彼の肩に乗る。
直径二十センチほどの茶色い球体で、翼が生えている。もふもふとした毛の間から赤い瞳が覗いていた。隼人の肩の上でふよふよと弾むように体を動かす。
「火野坂は何を考えているんだ」
「かっ、かわいい……! のに、声が……!」
柔らかな毛で首元をくすぐられて隼人は堪えるような顔になる。むんずと掴んで毛玉をカウンターに置き、リラの方を向かせる。
「ボクは祓い屋です。これはボクと契約をしているニタッラサンペ。……そう、かわいいのにいい声すぎて不自然なんです」
「かわいいとか言うな。こんにちは一般人のお嬢さん」
ニタッラサンペ。北海道で語られるマリモに似た妖怪である。その姿を見ると不運になるとか不幸が訪れるとか言われている。しかし、祓い屋が連れ歩いているためその辺りの力は抑えられているようであった。
「アッカムイ様は火野坂に何も言わなかったのかよ」
「僕は店員ですからね。オーナーの決めたことに従いますとも」
「ふん、神も落ちぶれたな」
「僕は飛歌流。アーカーシャの店員の野衾、ただそれだけです」
そう言いながら、飛歌流はカウンターにホットミルクの入った皿を置いた。ニタッラサンペは口の周りの毛を牛乳で染めながら勢いよく飲み始める。
隼人は残り少ないカフェモカが入ったカップを弄んでいる。
「木山さん、気を付けてくださいね。祓い屋や霊媒師、陰陽師、この世界に踏み込んだらもう、戻れませんよ」
「忠告ありがとうございます。でも、この目と付き合っていくにはきっとこういう場所の方がいいんです」
その気持ちは分からなくもないですが。そう呟いて、隼人はカフェモカを飲み干した。
「ごちそうさまでした。行くよ、マキリ」
「あっ、待て隼人っ」
頭に飛び乗ったニタッラサンペを連れ、隼人は会計を済ませるとアーカーシャを出て行った。リロンリロンとベルが鳴る。
「マキリ……?」
「あのおばけマリモの名前だよ。個人名」
カップと皿を下げながら俊哉が言う。
リラは隼人の出て行ったドアをしばらく見つめていた。自分よりも年下の男の子が生まれ持った力に従って仕事を行っている。悪い妖怪と戦うこともあるだろう、危険な仕事だ。そして、ただ幽霊や妖怪が見えるだけという自分に対して忠告までして来た。
最期の一杯を提供する喫茶店、カフェ・アーカーシャ。そこの店員になった今、自分はもうただの霊感持ちとは言えないのかもしれない。悪霊や悪い妖怪からは霊媒師や祓い屋と同じものとして見られるかもしれない。本当は、ここは危険な場所なのかもしれない。
しかし、決めたのだ。ここで働くと。みんなといればきっと大丈夫だ。
リラは小さく頷く。どこまででも踏み込んでやろう。見える以外の力はない、けれど、この目を役に立たせることができるのなら。
(私はリラ。木山リラ。カフェ・アーカーシャの店員だ)
うんうんと頷くリラのことを、俊哉はぼんやりと見ていた。誰かの姿を重ねて、リラよりも向こう側を見ているかのように。