力故に苦しむべきは
航海がはじまって7日目の朝。規則正しく起きるアシュレイが、その日はなかなか起きてこなかった。不審に思ったアルドヘルムがアシュレイの部屋の扉をノックすると、しばらくしてドアがゆっくりと開けられる。アルドヘルムが慌てて姿勢を正すが、アシュレイの顔を見て驚いた。
顔は黒く感じる程に真っ青、額や首には汗が滴っていて、呼吸も苦しげだ。明らかに、普通ではない。大体、いつもならアシュレイはどんなに運動しても汗なんかあまりかかないのだ。病気や風邪にも、以前冬の川に飛び込んだ時以外になったことはなかったし。
「おはようございます。気分が悪いのでしばらく横になっていますね」
「……アシュレイ様、ひどい顔色です。それにその汗、尋常じゃない」
「アルドヘルム頼むから……放っておいてください。お願いします」
アシュレイは疲れたような投げやりな言い方でそう言うと、ドアを閉めて鍵をかけてしまった。アルドヘルムが慌ててノックし直し、開けてくれと頼むがアシュレイの返答はそれきり無かった。ドアを突き破るわけにもいかず、どうしようもないアルドヘルムは鍵のかかった部屋の前でしばらくの間立ち尽くす。
アルドヘルムは、アシュレイのことが好きだ。本人にも告げたし自分もアルドヘルムが好きだとアシュレイも言った。だが時折、アルドヘルムはアシュレイを見ていると片思いなのだ、と感じずにはいられない。アシュレイは自分のことなんて、そんなに特別には思っていない。他の相手に対する態度と自分に対する態度に差も感じられないし。先ほども迷惑そうだったし。
……とか、アルドヘルムが見当違いのことで悩んでいる間、アシュレイは部屋でもがき苦しんでいた。
朝、アシュレイは突然の体の重さと頭から足の先までまんべんなく襲い来る謎の痛みで目が覚めた。気づけばベッドは脂汗で湿り切っていて、手足はベッドに張り付いたように動かせない。何も考えられないほどに、何も聞こえなくなるほどに、頭の中では謎の轟音が鳴り響く。明らかに、「普通ではない」とアシュレイには感じられた。辛うじてアルドヘルムには出来る限りの平気な顔で接したが、あれ以上は無理だった。
「う……うっ……い……」
毛布に力いっぱい歯を立てて噛み締めないと、声を出してわめいてしまいそうだった。どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい?アシュレイは、いっそ死んでしまえればどれだけ楽かとすら思った。汗と共に痛みから勝手に流れた涙も流れる。その時、アシュレイの額にふと冷たいものが触れた。
「発作が来たか。早かったな」
その声は、ミサキのものだった。冷たかったのはミサキの手だった。何も考えたくないアシュレイが声の方をほぼ無意識に見上げると、ミサキの顔がぼんやりと見える。
「……」
「喋れないか。全く、自分の執事にはあれだけ取り繕えるのにな」
ミサキはアシュレイを抱き上げると、あらかじめ開けておいた空間の穴からアシュレイを天界に運んだ。ミサキも自分の部屋の鍵をかけているので、外からバレることはあるまい。アシュレイはミサキの家に運ばれると、ベッドに寝かされた。その間も常に、全身を貫かれるような痛みに襲われている。
「う、うぅ、うぐ、あ、あぁ……ああっ!!!」
「苦しんでるとこ悪いが、男になれ。着替えさせるから」
「う……ミサ……わかっ……」
「よし。嫁入り前の女の肌を見るわけにはいかないからな」
いや見たことあるだろと言いたいところだが、依然アシュレイにそのような余裕は無かった。言われた通り無意識化にアシュレイは男の体になり、ミサキはアシュレイの服を脱がせてそれを洗濯機に放り込み、Tシャツと短パンを履かせた。痛みが落ち着いたわけではないが、汗でベタベタだった状態からは少しマシになり、アシュレイは自分の手を噛んでわめきそうになる声をとどめた。
「おい、血が出るまで自分の手を噛むやつがあるか。噛むならこの布でも噛んでいろ。というか、ここは私しかいないから喚いても叫んでも構わないぞ」
「……」
ミサキに渡された布を噛んで再びアシュレイは痛みに耐えた。自分で声を発すると、自分の声が頭の中で大音量で反響するようで、少しでも言葉を発したくなかったのだ。
3時間ほど、その状態は続いた。その間ミサキはこまめにアシュレイの服を取り換え、汗を拭き、甲斐甲斐しく世話を焼いた。3時間たつ頃には痛みは徐々に引き、アシュレイはゆっくりと身を起こしてベッドに座った。ちなみに、現時点でアシュレイは男のままである。
「……ありがとう、ございました……大変お世話になって……」
「目が覚めたか。水は飲めるか?」
「はい。ありがとうございます」
水を飲むとスッキリして、アシュレイはミサキの顔を見る。案外世話焼きと言うか、親切と言うか、元から優しくはあったが「小さい頃に風邪をひいたときのお母さん」的な優しさであった。アシュレイはなんだか後ろめたく感じて、うつむく。
「迷惑かけてすみません。着替えさせてもらったり」
「私も無関係な現象ではないからな」
「……現象?」
「私も20歳くらいだったか、半神の力を本格的に使いはじめた頃は、定期的に突然の痛みに襲われた経験が幾度となくあった。徐々に減って、100歳になる頃には無くなったが」
「100歳まで、これが、定期的に……半神ってみんなそうなんですか?」
「力に全く目覚めていなければ発作は来ない。海の神との戦いで力を使ったからな。まあ、でもお前の場合は男になったり女になったりして力を使っていたから……どの道早い段階で発作は来ていただろう」
「ちなみにどのくらいの頻度で来るものなんですか?さっきだけでも死ぬかと思ったんですけど、薬とかないんですか?その、あなたも耐えていたんでしょう」
「大体3か月に一回程度だから安心しろ」
「安心しろって……あなたはどうしてたんですか?」
「どうするって、泣きわめきながらのたうち回っていたが」
「割り切ってらっしゃる……」
ミサキをとがめる気は全くないが、こんな目に遭うなら先に言っておいてほしかった。半神の力とかスゴい、かっこいい!とか正直気楽に考えていたアシュレイは、ミサキもこれに耐えて今こうなっているのだと思うとなんだか尋常でないものを感じる。5千歳の凄味というか。
「大きなものを手に入れるには痛み苦しみが伴う。本来交わるべきでない人間と神の間に生まれた半神は、矛盾の中に存在している。無理に合成されたものは慣れるのに時間がかかるらしい。悪いな、お前には悪い気がする」
「……まあ、実際人間に手を出したのはミハエレですから。あなたを恨んではいませんよ。それより船に戻らないとアルドヘルムが心配しますね」
「お前の執事は自室で落ち込んでいるぞ」
「は?なにかしたっけな……」
「本人に聞けばいい。船に戻るぞ。服は洗って乾かしておいたから、着替えて女に戻れ」
「あっ!!男のままだった!」
意識せず男のままになっていた自分に多少の危機感を感じながらも、アシュレイは元の服に着替える。そして、二人は船の各自室に戻った。頭が痛くてアルドヘルムに何と言ったかよく覚えていないアシュレイは、なんだか悪いことをしたかなあ、こういうことがよくあると、アルドヘルムに申し訳ないなと思う。やはり自分は誰かと付き合ったり結婚したりは出来ないのかもしれない、とも思えてきた。
「月が綺麗ですね」
先日、夜の甲板でアルドヘルムに言った言葉は覚えたての言い回し。
愛しています、の意味だった。




