大海大決戦③
舞台の上でなら、アシュレイは何者にもなれた。金持ちにも貧乏人にも、男にも動物にも妖精にも。悪魔にも神にも、人気者にも嫌われ者にも、悪人にも善人にもなれる。
劇団に入る以前、アシュレイはただ、毎日のように大量の本を読んで過ごした。外にも出ず、両親や親類から構われもせず、アシュレイに興味を持つ人間など周囲には一人だっていなかった。
マーサのおせっかいによって屋敷から出るまで、両親にすら愛されないアシュレイは、自分はなんの価値もない人間なのだと思っていた。
他の子どもは、子どもというだけで両親から無条件に、自分の命より大事に愛されるものだった。小説の中でだってそうだ。なのに、自分だけはそうじゃない。誰からも相手にされない、興味も持たれない、不必要でなぜ生きているかも分からないような、家の食費を食いつぶすだけの邪魔な存在。嫌われているわけでも好かれているわけでもなく、腫れ物のような存在。
でも、マーサに優しくされて、怒られて、大切にされて、自分が特別な人間のように思うことが出来た。エインズワース邸に来てからは、アラステアも、マリアもアルドヘルムも、家族のようにアシュレイを大切に思ってくれた。
アシュレイはもう、誰にも相手にされない落ちこぼれではない。アシュレイは荒れ狂う風の音を聞きながら、拳を握りしめて大きく息を吸った。
できると思えば何でもできるのが半神の力、自分にぴったりじゃあないか。今までだってなんでも出来た、それが舞台の上だけじゃなくなっただけのこと。加えて守るべき人々まで居る。
アシュレイは舞台に立つときのように、顔に笑みを浮かべた。ミサキがドアを開ける。猛烈な強風が吹きこんできてアシュレイは一瞬息が苦しくなったが、ミサキの服の背中の布を掴んで後に続いて歩く。他4隻の船はもうこの船から数十メートル離れてしまっていて、嵐の渦中にあるのはこの船だけだった。ミハエレと海の神はこの船だけに狙いを絞ったらしい。
アルドヘルムたちが必死で船を維持している方とは逆側の甲板に辿り着くと、ミサキが大きく両手を広げた。
「ミハエレ!右腕を吹き飛ばすぞ!!」
ミサキがそう怒鳴ったかと思うと、ミサキが手を広げている場所を中心として、雲が一度に吹き飛ばされて嵐が半分になった。アシュレイはその光景の非現実的な異常さに驚いて顎が外れそうになるが、そういえばミサキは全ての神の中での最高神なのであった。普段普通に人間のように親しくしていたので忘れていたが。
雲が半分吹き飛ばされると、じわじわと雲がそこから薄くなっていき、嵐はたちどころに消えてしまった。同時に、アシュレイは頭に何か生暖かい液体がかかって驚き、上を見上げた。見たことのある顔、そして人間ではありえないほどの美しい顔が、怒りでめちゃくちゃに歪んでいた。それは間違いなく、アシュレイの母親と名乗った女神のミハエレだった。先ほどミサキが言ったとおり、文字通りミサキはミハエレの右腕を吹き飛ばしたらしい。慌ててアシュレイが自分の頭を触った手を見ると、真っ赤な血が付着していた。
「よ……くも……!!クライアッ!!元人間ごときが、この美しい私の腕を!!あぁーッ!!痛い、痛いィイ!!」
ミハエレは右腕を付け根から失ったらしく、左腕で断面を押さえてミサキを睨みつけていた。こんなに実体を持って、赤い血まで流すのか。確かに宙に浮いているし人間でないことは確かにせよ、神とは概念のような存在だと聞いていたのに、まるで、これでは普通の生き物のようではないか。アシュレイは今ここに確かに存在するミハエレの流した血液の温度を感じながら、頭の奥がツンと痛むような心持ちがした。
「言い訳は後で聞いてやる」
「ひ?!」
ミサキが腕を大きく振ると、ミハエレは驚いた顔のまま後ろに吹き飛ばされて消えてしまった。
「空間に天界への裂け目を入れて、そこに突っ込んで閉じた。戻ってくるのに3時間はかかるだろう」
「3時間ごときで戻ってくるんですか?!」
「さあな。少なくとも死にはしない。腕が生えてくるには2、3年かかるだろうが」
「神様は出血多量で死んだりしないんですね……」
トカゲの尻尾のように切れても腕が生えてくるのか。恐ろしいことだ、とアシュレイは思った。だからこそ首から切断しなければ死なないんだろう。心臓、とかいう概念は無いのかなあなんて吞気なことを考えていると、船の上に波が大きくかかった。
「うわっ!」
空はもう晴れ渡って真っ青な空が広がっているが、大きい波はいまだ健在である。現在であるどころか、少し離れた位置に渦まででき始めていた。波もどんどん強くなっている。
「アシュレイ。お前の番だ。」
「っはい!」
すでに船にかかる波だけで全身水浸しだったが、アシュレイは気合いを入れ直して拳銃を握りなおした。酸素ボンベを口に噛んだ瞬間、大波が意思を持っているようにアシュレイを呑み込む。アシュレイは案の定、海の中に投げ出された。
目を開くと塩水なので痛いが、アシュレイは気合で視界を確保する。海の底から、ミサキの言っていた通り、青白い子供がこちらへやってくる。美しい白銀の髪が空の青色に反射して実に美しい。そして同時に、恐ろしい。こんな広い海のど真ん中、海底から人間の子供が出てくるはずもなく、それは間違いなく人間ではない存在だった。
アシュレイは水中で拳銃を構える。本当なら、当たり前だが水中で銃なんか撃てやしない。
そして、アシュレイは先程右腕を吹き飛ばされたミハエレの姿を思い浮かべた。あれと同じにしよう。同じに、右腕を吹き飛ばしてやろう。そう頭で強くイメージする。
海の神が両手を伸ばしてアシュレイの首元に手を触れようとした瞬間、アシュレイは「男になって」拳銃の引き金を引いた。響くはずもない銃声が、水中で大きく響き渡る。子供の右腕の、肘から先が吹き飛んだ。
やってやった!やっぱり私が半神というのは事実も事実だったのか!だってこんなの、非科学的だ!
「何をするんだ」
水中に居るのに、脳内に直接その声は響いてきた。アシュレイは驚いて自分の下で腕を抑えて苦しむ海の神を見た。
「神の風上にもおけん残忍な殺人者め」
殺人て、お前は神だろうが。しかもそれくらいでは死なないこともアシュレイは知っていた。アシュレイは海の神の心臓あたりに狙いを定めてもう一発引き金を引いた。再び発砲音が響き、海の神がアシュレイから離れて後ろに下がる。
アシュレイは海の神の目を見ると、今度は海の神の頭の中に自分の声を送り込むことをイメージした。
『アッシュフォードは最強なんだ。
教会のミサに行く、お前ら神の信者よりずっと、
私のファンの方が熱心に劇場に通ってくれる』
そうすると、かわいい子供の顔が急に変な形に歪んだかと思うと突然大人の姿になった。しかも、それもとびきりの美形。見た目は20代後半くらいだろうか。海の神は大人の姿になっても白銀の髪のまま、青白い顔のままだった。
そして、変化した海の神には腕も完全に生えていて、心臓に開いた穴も無くなっていた。
『アキル。アキルアルガルド。お前はミハエレの子供だ。私はお前をミハエレと会わせるためお前を捕まえにきた。クライアに何を吹き込まれたか知らないが、ミハエレはお前の母親だ。子は母親と居るべきなのだ』
アシュレイは、直感的にこの神は「嘘を言っていない」と感じた。何故そう感じたかは分からないが、海の神の少しも怒っていない瞳を見ていると、敵意や殺意は感じられなかったからだ。それに、腕を吹き飛ばしたのに即完治。こんな相手、今の時間でアシュレイなど殺そうと思えば即殺せたはずだ。まあ、そうなるとミサキが助けに来ているかもしれないが。
『ミハエレに何を吹き込まれたか知りませんが、私は人間の家族に恵まれて幸せに生きています。なのに、これからミハエレと共にいることになれば私は不幸になる。
それは、太陽の神に連れて行かれて育てられ、その父親を殺したミサキが……クライアが証明しているでしょう。私もそうなればいずれミハエレを殺します。同じことの繰り返しです』
『クライアの親神は父だった。母の神なら別のはずだ』
脳内で普通に会話するな。今だって船は大波で大変な騒ぎになっている。攻撃は出来たのに波はおさまらないし、海の神はダメージを受けないしでアシュレイはどうしていいのかわからなかった。
『別ではありませんよ。先程あなたにした攻撃を、すぐに彼女にするつもりです。彼女は怒り狂って私を殺すでしょう。あなたは私と彼女を殺し合わせたいんですか?』
『……そうではない。私はただ、良かれと思って……』
次第に波が消えていき、視界がクリアになったアシュレイは驚く。鮮明に、海の神の綺麗な顔が見えた。やはり、この美しさは人間じゃない。子供の姿とこの姿、どちらが本当の姿なのだろうか、なんてアシュレイはぼんやり思う。
『すまなかった。ミハエレとは付き合いが長い。きっと2人で居ることが幸せなのだと思ったが……私は、お前に考えを押し付けてしまったようだ……』
『分かってくだされば、良いんです……』
なんだ?案外物分かりがいいじゃないか。てっきり、ミサキのように年数を重ねて自分より強くなったらいけないから即座に殺そうとしているのか、と思っていたアシュレイは拍子抜けする。と、そんなところでアシュレイは突然後ろ襟首を何者かに掴まれて引っ張られた。
「?!」
……と思ったら、見慣れたミサキ宅の広間、大理石の床の上にびしょ濡れで座り込んでいた。どうやら海の中にミサキの固有世界への入口を開けて、いつものように引きずりこんだらしい。
「試合終了だ。お前が今着ているのと全く同じ服を用意しておいたから、即座に着替えろ。私はドライヤーを持ってくる。髪を乾かしたらお前の部屋に即ワープだ」
「よ、用意周到すぎませんか……」
なんだか、全部知ってたんじゃないかと疑いたくなる手際の良さだ。アシュレイは言われた通りに水浸しの服を脱ぎ捨てると、用意されていた服に着替えた。ご丁寧に下着まで今着ていたものと同じものが用意されていて、把握しすぎて気持ち悪っ!とアシュレイは思ったが、ともかくすぐに着替えたのだ。この間5分。
髪を即座に乾かして部屋にぶち込まれた直後、アシュレイの船室のドアがノックされた。
「アシュレイ様いらっしゃいますか?突然波と嵐がやんだので、もう外に出ても大丈夫ですよ」
アルドヘルムの声に、アシュレイは変な体勢で乗っかっていたベッドから体を起こして立ち上がり、ドアを開ける。
「そ、そうなんですか。すごい揺れでしたね。うわっ!当たり前だけどびしょ濡れですね!風邪をひかないように、タオル持ってきます」
アシュレイがにっこり笑うと、びしょ濡れのアルドヘルムもにっこり笑った。
「ありがとうございます、アシュレイ」




