旅立ちの日
こつこつ。靴のかかとを鳴らして階段を降りていくと、下の広間にはアラステア、ダレン、マリアを前方に、屋敷付きの使用人たちがずらりと待ち構えていた。自分が部屋から降りてくるまでここで待っていたのか、とアシュレイは少しぎょっとする。
「では、行って参ります」
アシュレイが荷物を置いて恭しくお辞儀をすると、玄関に見送りに集まった使用人一同が整列する。アラステアが前に出て、アシュレイの手を取った。
「3ヶ月の間だけだし、王子と一緒だから安全とは思うけれど気をつけて。アシュレイは海外ははじめてなんだろう?決して1人にならないように。」
「はい。お父さん」
「それからアルドヘルム。アシュレイをしっかり守ってくれ。お前のことは信用しているが、今回のアシュレイ用の護衛はお前だけだからね。本当に気をつけて」
「はい。命に代えてもお守りします」
エドウィンなんかは何年も海外に行っていたのに、たかが3ヶ月の旅行に心配性だな、なんてアシュレイは思う。海外が初めてだから、というのもあるだろうが。アラステアの少し心配そうな顔を見ると、少し行くのが心苦しい気もする。
しかし、アニタたちと別れる時と違って寂しくないのはきっと、もうここがアシュレイの「家」になったからなのだろう。彼らは決していなくなることはなく、アシュレイにとって戻ってくるべき場所なのだ。アラステアは父親だから心配するのは当然だし、仕方のないことだ。その当たり前、がアシュレイには嬉しかった。
「お土産を持って帰ってきますね。」
アシュレイがにっこり微笑むと、使用人たちはなんだかみんな寂しそうに視線を下にした。この世界での船旅は危険がつきものだ。船が頑丈とはいえ、嵐に巻き込まれたり海に落ちたりしたら、まず助かることはない。そういう点で、無事に帰国する人の方が多かれど船旅への心配は当たり前の心配でもある。
「私、運がいいんですのよ。顔も頭も良く生まれ、こんな立派な屋敷に住んで、こんな優しいお父さんがいて、こんなに強い執事がいますし、友人には王子様!此度の旅も、それはもう、運良く五体満足で帰ってきますとも。ですからどうか、景気の良い笑顔で送り出してくださいませ!」
アシュレイがよく通る声で言うと、使用人たちがパッと顔を上げた。アシュレイの狐みたいな胡散臭い笑顔に、みんなが薄い笑みをこぼす。なんだか騙されてる気がするけれど、この人が無事に帰ってこないわけないよね、と。アシュレイはコートの裾を翻すと、再び玄関に向かってコツコツと歩きはじめた。その後にアルドヘルムも続く。
「アルドヘルム、それにしてもあなたが付いてくるのは意外でした」
「なぜです?私は当然と思っていましたが」
「たしか、だいぶ昔、夏には騎士団の合同大会があるとか言っていたじゃないですか。それに、夏にはあなたの誕生日もありますし」
「あなたが見ていなければ大会なんて出ても仕方ないですし、誕生日だって私はどうでも良いですよ。あなたが最優先です」
相変わらず何やら重たいことを言ってくるアルドヘルムだが、ここで全力で突っ込むと疲れるので、アシュレイは適当に賛同しておくことにした。
「そうですね。そうですか。あなたがそう思うならそれでもいいです」
「荷物お持ちしますよ」
「ああ、じゃあお願いします」
「今日は素直ですね?」
「いつだって素直でしょう」
「……うーん、言われてみればそうかも……」
服など大体の大きい荷物は先に運んであるため、アシュレイが持っていたのは小さい鞄が1つだけだったが、中には色々なものが入っている。台本だの、ペンだの、本だのだ。主に勉強と、舞台の台本を覚えるためのものだがなにぶん本が多い。
2人で馬車に乗り込むと、ドアの閉まる音を聞いて運転手が馬を走らせはじめる。
「マイリさんたちを劇場前で拾ってから船着場に5時間かけて到着です。」
「なんだか長く走らせて馬に悪いなあ。運転手さんも」
「後で美味い餌を貰えるから大丈夫ですよ、それにこんなに立派に育ってるんですから、走らせないと。足が鈍りますし」
「うーん、馬には生まれ変わりたくない」
ガタンゴトン。ガタガタ揺れる馬車にももう慣れたが、やはりミサキのところで乗った電気自動車、あれは静かだった。時代秒速で進化してくれ〜〜と思うが、こればっかりはどうにもならない。アシュレイは急な段差で下を噛まないように、口を閉じた。
予定通り馬車は劇場の前で止まり、アシュレイとアルドヘルムが奥側に向かい合って座っていたため、マイリはアシュレイの横に、ソヘイルはアルドヘルムの横に座った。
「おはよお、両親がギリギリまで本当に行くの?って食ってかかってきてさ〜アシュレイのこと言ったら大丈夫か……ってようやく行けることになったんだよね」
「マイリの家はお母さんが過保護だもんね」
「過保護ってか、完全に女の子扱いなんだよね。それはそれでいいんだけどさ」
「マイリも海外ははじめて?」
「もち!船って乗るのも高いしさ」
「そうなの?」
「そりゃそうだよ、噂では船旅一回で平民が5年働かなきゃいけないくらいかかるらしいし」
「はは、そこまではかかりませんよ」
熱弁するマイリにアルドヘルムが苦笑いする。とは言うが、平民のマイリとアルドヘルムたちでは金銭感覚に開きがありすぎるので実際そのくらいかかるのかもしれないが。アシュレイは、本で国自体や海については調べていたけれども、自分が乗る船については考えてなかったな、と反省する。まあ、王子が同乗するような高級船の代金が分かったところで個人で払える額でもない気がするので、知らなくても変わらない気もするが。
「……」
「大丈夫ですかソヘイル?顔が青いですよ」
先程から一度も喋らずに固まっているソヘイルに、アシュレイが声をかける。マイリとアルドヘルムもソヘイルの方を見た。
「い、いや、俺はその、馬車って初めてだから……結構揺れるなって」
「ああ、そういえば私もはじめて乗った時は緊張しました。はじめのほうなんかは揺れた拍子に顔面から前の座席に突っ込んで怪我したこともありましたね」
「あ〜、ありましたありました」
「ア、アシュレイはそんな感じなのに結構間抜けな失態をすることがあるんだな……」
「完璧すぎると近寄りがたいですから、親しみ要素ですよ」
「自分で言うか」
そう返したマイリが、馬車の小窓の外を指差して大きな声を出した。
「見て!もう見たことない風景だ!平野が広がってる!!すごいすごい!草原ばっかだよ!木も生えてないし、空も青くて雲もないし、空と地面の緑色だけで世界が2色しかないみたい!」
「ほんとだね。海はまだ見えてないけど、こういう景色ははじめて見たな。草とかって勝手に伸びてきたりしないのかな?柔らかそうな草がいっぱい生えてるけど」
「ここもエインズワース家の領地ですよ。今日は朝早いのでまだですが、昼になると動物が放牧されるんです。草は動物が食べるんですよ」
「そうなんですか。見てみたいなあ」
アルドヘルム、物知りですねと言おうとしてアシュレイは踏みとどまる。あの家で暮らさせて貰っているんだから、このくらいは自分で勉強しておくべきだったのでは、と反省したからだ。本当に、生活に馴染めてきたというだけで実際のところ、貴族社会や領地、家同士のことなんかは不勉強に尽きる。
「アシュレイ様」
「ん?」
「今回が楽しかったら、新婚旅行は海外にしましょうか。」
「えぇ……突然じゃん……別に良いですけど……」
アシュレイは困惑した顔で正面のアルドヘルムを見るが、マイリとソヘイルは「2人の時にやれよ」とこの空間で苦しく思っている。人前でいちゃつくのはマイリとソヘイルも似たようなものなのだが、本人たちにはわからないので仕方ない。
「まだ何時間もあるなあ。紙あるんで、折り紙でもします?」
「なに折り紙って?」
「遠い国の、紙を折って形作るのを楽しむあそびです。鶴から教えて進ぜましょう」
「鶴ってなに?」
「……と、鳥だよ。遠い異国の鳥。」
そんなわけで、長めの馬車の旅がはじまった。各自は暇をつぶすことを考えて、時には談笑しながら馬車は平原を駆けていく。アシュレイと2人きりが好ましかったが、まあ楽しそうだからいいか。なんてアルドヘルムは思っていた。
港まで、あと3時間ほどだった。




