暗い水の底へ
寒くて、背中や全身が軋むように痛い。
それが、しばらく硬い地面に横たわっていたせいだとアシュレイが気づくのに、そう時間はかからなかった。
「いたた……」
呻きながらアシュレイが上体を起こすと、固い岩の地面と岩の天井が視界に広がっている。薄暗いそこは鉄格子がかかっていて、牢屋なんだろうと言うことだけはわかった。
そしてここは洞窟の民族の住処なんだろう、ということも。殴られた事もあって、頭も酷く痛い。後頭部にコブでもできてるんじゃないか?と触って確かめたかったが、後ろ手に縄を縛られているし足も縛られているので、這ってしか動けなかった。
手をよじって縄を解こうかとも思ったが、血流が止まるんじゃないかというくらいに固くきつく縛られているので、ほどけそうには無かった。アシュレイはため息をつくと、縄を解くのをあきらめる。
思い起こす、あの老婆の目。笑顔なのに不気味な、あの、狂った人間の目。でも、アシュレイは不思議とこの民族の人間たちに心からの憎しみは沸いてこなかった。「そう思って生きてきたからそう育った」「環境が人間をそうさせた」から「仕方のない」ことなのだろうとアシュレイは思う。
だから、つまり彼らにとってはこうするしか道が無かったのだ。洞窟に閉じ込められて育った彼らにとって「山の神」は絶対的な存在で、生贄をささげなければ自分たちが死ぬと思っているのなら、仕方ない。
そして、今日、今、自分が掴まってしまった事。事前に自分が生贄として狙われていることは分かっていたはずだった。なのに、自分は不覚を取ってまんまと捕まったのだ。自分のせい、ただの自己責任。仕方のないこと……だから、アシュレイはこのまま生贄にされることについても「運が悪かったな」で片づけられた。
自分が気絶してからどのくらいの時間が経ったのかは分からない。一晩か、それともほんの数時間か、もしかしたら数十分かもしれないが。洞窟の中なので空も確認できないし。
アシュレイは今までの人生、「仕方ない」で済ませることが多かった。なんでも大体自分でできるけれど、どうにもならなければ仕方ない。そこまで執着するような欲も無かったし。
「あの娘が目を覚まさなかったらどうするんだ?!」
「で、でもあんなところで物音でもたてられたら人に見られると思って……」
「ともかく、あの娘があのまま死んだらお前の命も無いものと思えよ」
「え?!そ、そんな!」
洞窟内は声が良く響く。耳を澄ますと、そんな言い争う声が遠くから響いてきた。あの娘というのは十中八九アシュレイのことに違いないだろう。醜い人間の縮図、責任の押し付け合い。アシュレイはなんだか空しく思った。
アシュレイは昔から、あまり他人に期待をしていなかった。自分の力で大体何でもできたからだ。そして今も。
こんな場所まで自分を助けに来る人間は居ないだろうと思っている。アルドヘルムにだってこの場所は分からないだろうし、ソヘイルが教えたとしても気づくのにどれだけかかるのか。そうなると、ここでいつ殺されるのかと怯えているのは、嫌だった。どうせ死ぬならばさっさと終わりたかった。
自分がこのまま寝たふりをしていれば、無駄な死人が増えそうだし。
「生きてますよ!生贄は!!」
アシュレイが地の底から響き渡るような大声で怒鳴る。その声は岩と岩を反響して走り回り、洞窟中の人間の鼓膜をビリビリと響かせ、中には泣き出す子供もいた。どうせ死ぬならその前に、この洞窟の人間の鼓膜でも破壊してやりたいところだが、さすがにそこまでの威力は無いだろう。
すぐにバタバタと足音がして、数人の男たちがやってきた。その後ろから、例の老婆も歩いてくる。
「生きていたぞ!早く神に捧げるんだ!」
男たちは大慌てで牢屋の鍵を開け、アシュレイを引きずり出した。
「移動するなら足の縄くらいほどいて下さいよ」
「そ、そんなことして、お前が抵抗して逃げたりしたらどうするんだ……!」
まあ、もっともだな、とアシュレイも思う。ここでうっかり縄をほどいてくれたら蹴りを入れて走って逃げるのだが。アシュレイは二人がかりで、狩られたイノシシのように丸太にぶら下げられて運ばれた。かっこ悪いので、気分はあまり良くない。運ばれながら、先程アシュレイが話しかけた老婆が近くに寄って話しかけてきた。いくら相手が老人でも、もはやアシュレイはこの老人に不快感しか抱いていない。
「優しい娘さん、手荒なことをしてごめんなさい、でもね、あなたみたいに優しい子だからこそ神様は望んだのよ……きっと、神のもとで幸せになって、私たちに幸せを運んでくれるわ」
……心底そう思っているのだろう、この老婆は。でもそんなのは自分勝手だ。そう、アシュレイは感じた。アシュレイにとってそれが幸せだと彼女は本当に思っているんだとしても、それは押し付けだ。
「あなたは長く生きているんでしょうに、それがおかしいと気づけなかったんですね。そうしてそのまま死んでいく」
アシュレイはそう言ってにっこりと笑った。老婆は強張った顔で押し黙る。外界について知らない民族。閉じこもって、新しいことを知ろうとしない民族。老婆にもきっと、それくらいは分かっている。逆さにつるされた情けない格好のアシュレイに、運んでいた男の一人が怒りの形相になる。
「長老様に何を言う!!無礼な……!」
「神様が万一でも居たら、会えたら、生贄に私を選んだことをあなたたちの一生かけて後悔させてあげますよ」
別にそんなことは思っていないし神など信じていないが、アシュレイはとりあえずそう言っておいた。男は黙って、怯えた目をした。呪いだの祟りだの神だのなんだのと信じやすい人々には、案外こういう脅しは響くのだろう。だから、かなり後味悪く死んでやろうとアシュレイは思った。無知な人間に罪はないなどというのなら、アシュレイにだって罪は無いのだから。
洞窟を奥に奥に進んだ出口は、山の頂上付近につながっていた。山頂付近の湖の前につくと、外はまだ明るかった。そんなに時間は立っていなかったんだな、とアシュレイはそんなことを思う。ぼんやりしているうちに、足の縄にさらに縄がひっかけられ、その先には岩が縛り付けられている。これとアシュレイを一緒に投げ込んで、浮いてこられないようにするのだろう。
(死にたくないな。まだ、何も足りないのに)
そうアシュレイは思う。アラステアにだって、まだ全然恩返しができていない。自分は人からもらってばかり、何も与えられはしなかったと。湖は広く、深そうで、青くて、底が見えない。この中に何人もの娘の死体が沈んでいるとは信じられないような、綺麗な湖だった。
(まだ私は寒いままなのに)
民族衣装のようなものを着ている何人かが湖の前に立ち、儀式の呪文のようなものを唱え始める。不気味な光景だ。アシュレイはこの際、大声で妨害してみようかなんて思ったが、布を噛まされたのでそれも出来なかった。
「……」
呪文が終わると、アシュレイは背中を突き飛ばされて湖に落ちる。息を吸い込むことも出来ずに体が沈んでいき、直後にドボンという音がして、体に岩がのしかかってきた。早く沈んでいく岩に引っ張られるようにして湖の底に落ちていく。アシュレイは、心細いと思った。
(そうだ)
(ああ、私はあの人のことが好きなんだった)
(アルドヘルム、顔が見たいな)
死ぬのだ、と実感した途端アシュレイはアルドヘルムの顔を思い浮かべた。今頃どうしているだろう、自分が死んだら泣いてくれるだろうか?自分が死んだら、他の誰かと結婚するのだろうか。
自分のぶんまで幸せになってくれるだろうか?
やたらと深い湖は、いつまで下に行けば地面につくのかとアシュレイには不思議だった。山にある湖が、こんなに深いことなんてあるのだろうか?
息が切れて意識がなくなる直前、アシュレイは、湖の底からゆらりと浮かんで、自分の足を掴む不気味な青白い腕を見た気がした。




