悪と厄②
「きゃあっ!!だ、旦那様その顔……?!」
昼、メイド長マリアの悲鳴を聞いてアシュレイは席を立った。それまでは休日なのでアルドヘルムとダレンと一緒にトランプをしていたのだが、平和がうち崩れるような感覚がする。
確か今日、アラステアはアーノルド家の屋敷にさっそくクリフォードを迎えに行ったはずだった。そうなると、この屋敷にやってくることを覚悟していたのだが……
「!!……お義父さん、その顔の怪我は……?」
階段を下りて行く途中、クリフォードが居ないことに気づいた。それとは別にアラステアの右頬が青く腫れているのに気が付いて、アシュレイは階段を途中で飛び降りて急いで駆け寄った。2メートルくらいの高さから飛び降りたので、アルドヘルムは心臓が止まりそうになる。が、スタントもお手の物、アシュレイは無傷だ。そのままアラステアの前に立った。
「ああ、ただいまアシュレイ。あんなところから飛び降りるのは危ないからダメだよ。……それと、ごめん。クリフォードとは一緒に暮らせそうにない」
アラステアに困ったように笑いかけられて、アシュレイは言葉に詰まる。
「い、いえ……私は、別に……一緒に暮らしたかったわけではありませんから……」
「え?そうだったのか、そうか……なんだ……なら先に言えばいいのに、アハハ」
アラステアが少し考えたような顔をしてから、アシュレイの頭をポンポン叩いて笑う。アシュレイはそんなことはどうでもいいのに、とやきもきした。
「アハハ、じゃなくてその顔の怪我はどうしたんですか?まさか、あの人に殴られたんですか?」
怒った様子のアシュレイに、アラステアは驚いたような顔をしてからまた笑った。
「あの人……か。クリフォードは昔はあんな人間じゃなかったんだがね。人っていうのは変わってしまうものなんだな……少し、喧嘩してしまったよ。」
「……すみません」
「何で謝るんだ、お前が謝ることなんかない。もうアシュレイのお父さんは私で、クリフォードじゃない。もしクリフォードが何を言ってきたって、お前は気にしなくていいんだから。」
そう言ってアラステアがアシュレイを抱きしめた。アシュレイは驚いた顔でおとなしく抱きしめられている。ゆっくりとしたアラステアの心臓の音が聞こえて、アシュレイはどうしたらいいかわからなくなってしまった。
クリフォードはもう自分の父親じゃない。アラステア自身がそう言ったのだからそうなのかもしれない。実際、書類上の父親はもうアラステアなのだから。
人は急に人の親になれるものなのだろうか?アラステアはまだ30歳。それに今まで自分の子供はいなかったと聞いている。血のつながった実の母親も父親もアシュレイを要らないと思っていたのに、今まで親になったことの無かったアラステアが、自分を本当に、本当の子供のように思えるんだろうかと。
なんでだろう、とアシュレイは思う。アラステアがどうして、何かできるわけでもない自分に優しくするのか。アシュレイには不思議だった。
「……私みたいな、実の親にすら相手にされなかった、ひねた子供を……どうして、置いてくれるんですか」
「何言ってるんだ、みんなちゃんと知ってるよ、お前はいい子だからね」
アラステアはよしよしとアシュレイの頭をなでると、部屋に戻って行ってしまった。アシュレイはしばらくその場にぼんやりと立っていたが、アルドヘルムに声をかけられてハッとした。
「……アシュレイ?」
「……ああ、いえ。あの……あっそうだ、ウェインさん、何があったか教えてもらえませんか?」
ウェイン=ベアードはアラステア専属の執事である。50歳妻子持ち、大人しいが仕事のできるベテラン執事である。ちなみに、アシュレイの専属はアルドヘルム、ダレンは屋敷全般の色々な仕事を受け持つ執事である。アシュレイが来るまではアルドヘルムも屋敷全体の仕事をする執事だった。
普段はアラステアの仕事中も横についているのでアシュレイと会話することは少ないが、アラステアと夕食を取る時に少し話したことくらいはあった。
「それが……クリフォード様は私もはじめてお目にかかったんですが、なんだか少し……荒れた方でしたね。アシュレイ様に似ていると聞いていたのですが、似ていませんでした。」
「ああ、まあそれは……人は歳をとると顔が変わっていくものですからね」
「……それで、会話の中でクリフォード様がアシュレイ様への暴言を吐かれて、アラステア様がそれに激怒してしまいまして。温厚なアラステア様が急に人に殴りかかるなんてはじめてのことですから、私も咄嗟に止めに入れなかったんです。」
「……え?!お義父さんが最初に手を出したんですか?!」
アシュレイだけでなく、アルドヘルムもダレンもびっくりという反応である。あの温厚なアラステアが、しかも前から懐かしんで仲が良かったと言っていたのに。ウェインは困ったように笑いながら詳しい話をしてくれた。
「クリフォード様は、はじめは懐かしいなと言ってアラステア様を招き入れてくれたんですが……家にアシュレイ様が居ると言ったとたんに暴言を吐きはじめまして。第三者の私から見ても異常……と言うほかない様子でした。こんな話をすると気を悪くするかもしれませんがアシュレイ様。この話をしたのは、あの人がかなり危険だと思うからです。今後、何かあなたに害を及ぼすかもしれません。我々も気をつけますが……気を付けてください」
「……はい。気をつけます。それにしても、私を嫌ってはいても私本人に敵意を示すことはなかったんですが……」
「人間というものは、時間が経つと記憶の嫌な思い出が肥大化したり、思い込みが強くなったりしてしまう生き物ですから……それに、本当にあなたが気にすることなんて全然ないんですよ。子どもは気を遣うことないんです、おじさんからの忠告ですよ。では私はこれで」
ウェインはにっこり笑うとアラステアの部屋への階段を登って行った。アシュレイはしばらく立ち尽くしたまま色々考えているようだったが、一度ぎゅっと目を閉じてから自分の頬をぺちぺちと二度叩き、自分の部屋のほうに歩いて行った。アルドヘルムとダレンも黙って後に続く。
部屋に戻るとアシュレイはトランプを片付け、二人のほうを向いた。
「すみません、少しの間一人にしてもらえますか?」
「……構いませんが、窓から逃げて街に出かけたりしないでくださいね」
「流石にしませんよ……」
ダレンとアルドヘルムがおとなしく部屋から出ていくと、アシュレイは扉を閉めて、ドサッとベッドに仰向けに転がった。天井を見つめていると、アシュレイは自分の頬に手を伸ばす。
「……」
濡れている。涙だ。アシュレイは自分が涙を流しているのに気が付いて驚く。
アシュレイは、記憶にある限り泣いたことがなかったのだ。そりゃあ、赤ん坊の頃は泣いたことくらいあったんだろうが。
うれし泣きも、悲しくて泣いたことも無かった。目がじわじわと熱くなるような、今まで味わったことの無い感覚にアシュレイは顔を抑えてうずくまる。
「……」
袖に涙を沁み込ませるように、アシュレイは腕で両目を押さえ続けた。喉の奥が熱くて、どうすればいいか分からない。自分がなぜ今泣いているのかもアシュレイにはよくわからなかった。息を深く吸っては吐きを繰り返し、涙が止まるとアシュレイはベッドから起き上がって椅子のほうに歩くと、机の上の本を手に取った。部屋を見渡せば、昨日貰った自分の銅像だの木彫りの熊だの、風景画だのが飾られている。たくさんの本も。
今まで本しかなかったのに、一気に色々と増えすぎたから不安になっていたんだろうな、とアシュレイは自分で思う。
安心していた。
アシュレイは誰も自分を嫌わないことに、酷く安心していた。
「……いい子だからね、か……」
そう、悪いことなんかしていない。それは自分でもわかっていたはずだったのに、いつからか自分が悪いから両親に腫れもの扱いされていたのだと思うようになっていた。自分は劣等感なんて感じる必要はないのだ。そう、今日アシュレイは改めて認識できた。
アラステアにとって自分が悪者にならなくて良かった、と本 アシュレイは心の底から思う。でも、自分のせいで兄弟喧嘩させてしまったことは申し訳ないなと思ったりもした。
窓の外は冷たく青い冬。
高級毛布は暖かくアシュレイを包む。
屋敷の分厚いガラスの窓は、冷たさからアシュレイを優しく守っていた。




