悪と厄 ①
アラステア様の部屋から出て再びアシュレイの部屋に戻ると、私はアシュレイに説明を求めるように視線を投げかけた。先程廊下で彼女が言った言葉。父親の憎しみに満ちた目を覚えていると。
彼女は私と目があうと、少しばつが悪そうに笑った。そして椅子に座り、彼女は話しはじめた。
「クリフォード=アーノルドは決して悪人ではありませんでした。きちんと仕事をしていて、妻のカミラとも仲睦まじく。人望も厚く……」
彼女は、アラステア様に先程貰った歴史書の一冊を手に取り、表紙を撫でた。私は隣の椅子に座り、彼女の方を見て話を聞く。
アシュレイはいつも真面目な話をする時は人の目を見ては話さないような気がする、と私は思った。いや、もしかしたらアシュレイは自分自身に問いかけているのかもしれない。
「あの人は、はじめから私に極端に無関心であったという点以外では、おかしな人間ではなかったんです。それに母親も……いえ、母親のことはあまり覚えていないんですが、何か嫌なことをされた記憶はありませんでした。虐待だとか、嫌がらせなんかはされた事がなかった」
「……」
そんなのは当たり前だろう。むしろ、子供に酷いことをする親の方が稀だろうと私は思う。だから私はアシュレイが何を言おうとしているのか図りかねた。
「あなたには、両親、家族と色々なところへ出かけたり、一緒に食事したり、時には世話を焼かれたり……そんな思い出がきっとあるんでしょう。ダレンや、アニタ、コーネリアス殿下だってきっとそうです。でも私にはそれはない」
「……そんなこと……」
いいや、自分には確かに家族と過ごした幸せな時間が沢山ある。だから私は「そんなことはない」とは言えなかった。それに、アシュレイには嘘の言葉は通じないような気がしたからだ。私がここで彼女の気持ちを理解していると言っても、それは本当の意味で真実ではないからだ。
「本は好きです。知らないことを沢山教えてくれるし、私を否定も拒絶もしない。……マーサも、私を否定しないから好きでした。ここにきてから、みんな親切にしてくれて……夢のようです。どうしたらいいかわからないくらいに」
「アシュレイ……」
そう、今のアシュレイは幸せなはずだ。今日だって嬉しそうだったし、楽しそうだった。15年間無かった家族との思い出だって、これから作っていけばいい。
……私はそう思った。そして、アシュレイにはきっとこれから、人と同じだけの幸福を味わうために、たくさんの思い出が必要なのだろうと。
「これは謙遜だとか自虐だとかではないんですが、私は欠陥だらけの人間です。だから何かで補おうとしている」
「……完全な人間なんていません」
私は答える。月並みな感想だが、本当にそう思った言葉だった。
「……そう、でも私には足りなすぎる。不安なんですよ。幸せを感じるほどに、このままでいいのかと考えてしまうんです。本当に自分は幸せなのか、とも考えてしまって。……そして、自分の今の幸せは、私があの人の子供だったからこその……おこぼれで得た幸せなんだと思うと、たまにどうしようもなく惨めな気持ちになる」
「……」
頭が良いくせに、なぜこんなわけのわからないことを考えるのだろう。アシュレイは悩んでばかり、素直に自分の幸せを享受することも出来ないのだ。そんな風になってしまったのは、両親があまりに彼女に無関心だったから、というのもあるのだろうか。彼女はなにか、自分の力だけで何かを得ることに執着しすぎている気がする。他人の力で何かを得ることが怖いのだ。
「廊下で言っていた事……あなたの実父は、あなたのことをなぜ憎んでいたんです?」
私は彼女の両親の事に話を戻した。彼女は平然とした様子で話を再開した。
「はじめてあんな憎しみに満ちた目で見られたのは、確か母親が死んだ日だったと思います。私は母親のことをよく知らなかったし、よく覚えていませんが……あの人は相当参っていたようでした。本当に好きだったんですね、母親のことが。何度かあの人がマーサに怒鳴っているのを聞きましたから、知っています。“母親が死んでも泣かないなんておかしい、冷血すぎる、私たちの子供じゃない”と。それが理由でしょうね。子供って案外覚えてるもんですよ」
「まさか、そんなことで……」
「親は子が死んだら泣いて当然でしょう。だから、親が死んだら子が泣くのも当然なんでしょうね。私は運悪く、実の母親の死を悼んで泣けるような殊勝な子供じゃ無かったわけですけど」
アシュレイは少し残念そうに言う。
彼女は自分を冷血な人間だと思っているんだろうか?私は彼女が冷たい人間だなんて思ったことは一度だってない。確かに一般的な人間に比べて感情の起伏が少ないと思うことはあるが、そんなのはただの個性だ。彼女を大切にしなかった親が、彼女の無関心を責める権利なんてあるわけがない。
「誰だって……そうですよ。普段から接していなかったならしかたないでしょう。それに自分が好いていない相手に好かれようなんて、ムシが良すぎます」
「……そう、でも……子供は普通、そうなれば〝親に好かれようと何かをする〟はずなんですよね。」
アシュレイは机の木目を指で数えながらゆっくりと話を続ける。考えて、考えて、考えているようだ。
「でも、私は何の文句も言わず、行動も起こさず、一人で何年もずっと本だけ読んで生きてこられたわけです。昔も今も、親に対してなんの感情も持ち合わせていませんし……気味悪がられても仕方なかったのかもしれません。何より、なにもしなかった、というのが、私のいままでの人生においての反省点です」
「反省点って……」
「だから今の私は色々行動を起こしてるでしょう?劇団に入ってみたり、喧嘩を買ってみたり、人助けしてみたり……父親のことは……このままずっと父親が死んでいると嘘をついているのが心苦しくなっただけです。アラステア卿の嬉しそうな顔を見てからずっと、クリフォードを本当に好きだったんだろうなと感じましたし」
「……実の子供に“あの人”なんて呼ばれる人間に、親の資格なんてありません。あなたの父親はもう、アラステア様なんですよ。私はアラステア様がさっき言ったことは本心からだと思っています。あなたはそう思っていないようですが」
「……そうですね。お義父さんは優しい方ですから、本心かもしれませんね」
にっこり笑ったアシュレイは椅子から立ち上がった。私もそれとほぼ同時に立ち上がる。そうじゃない、そんな適当な話の終わらせ方をしてほしいんじゃない。このまま私は結局、アシュレイの心の本当に深い部分にはたどり着けずに「その他大勢」に戻ってしまうのだろうか。私はそんなのは嫌だった。
「アシュレイ!」
「!?アルドヘルム……」
「私はあなたと違う人間だから、あなたの気持ちはわかりません!でも、あなたの心配を取り除きたいし、近くに居たい!あなたの心の一番近くに居たい。あなたの話をたくさん聞きたい。アシュレイ。私はいつか、あなたの理解者になれませんか?」
「……」
アシュレイの手を掴んで目を見て言うと、アシュレイが驚いた顔をして言葉に詰まる。彼女のこんな動揺した顔は初めて見た。やはり、目を見て真剣な話をするのが苦手なんだろう。自分の得意でない話題の時はなおさら、彼女は困ったような、怖がっているような表情をする。
スペンサー卿と話していた時も、エミリアと話していた時も相手の目をまっすぐに見て自信たっぷりに話していた彼女が、今、私の前でこんなに困り果てる理由は。やはり、彼女が今、自分が正しいとおもえていないからだ。彼女も、人と本当は深くかかわりたいと望んでいるからだ。……そう、思わずにはいられなかった。
「あなたって、本当に……変な人ですね。そんな……私は……わかりません……」
「あなたに分からないことは私が教えます。私がずっと、わかるまで教えますから、あなたも私に適当な答えをしないと誓ってください!大体、他の人にはわからなくても私には、あなたの笑顔が本当か嘘か、分かってしまいますから!」
「!」
もう、私はなんだか必死になってしまっていた。彼女は私が彼女を掴んでいた手をゆっくりと外すと、小さく咳ばらいをした。
「アルドヘルム、あなたが私のために一所懸命に話してくれることが、私は本当は嬉しいのかもしれません。……誕生日にするような話でもなかった気がしますが、そうですね。あなたの誠実さに報いなきゃいけないでしょうね。」
「!じゃあ……」
「本音で話しましょうか。お義父さんの言葉が本音かどうかは、わかりません。でも後日わかるでしょう。だから、あの時はとりあえずお礼を言ってみただけです。その時……もしも私がみんなから嫌われても、アルドヘルム、どうか変わらないでいてください。本当はそうであってほしいと思っています」
アシュレイは落ち着いた様子でそう言った。私は、彼女が本当に他人に“期待”をしていないのだとわかって、少し寂しい気持ちになる。いや、自分に自信がないのかもしれない。以前から彼女は自分の容姿については美しいと自信がある様子だったが、その他ではナルシスト的な部分は見られなかった。
「そんなの……当たり前です。あなたの父親よりあなたの味方をするのは当たり前のことです。私は世界の全員があなたの敵になったとしても、絶対にいつまでも貴方の味方ですよ」
「……よくそんな、ありふれた大げさで臭いセリフ吐けたもんですね……でも、ありがとうございます。……こんな話をしたのは、あの人が来たら多分私の屋敷内での立場はかなり酷いものになると思うからです。私はあの人の子供だったという立場を利用して幸せを享受していたわけですから、仕方ないかとも思えますが。……誕生日ってのは良いもんですね、一生分の幸せを消費しちゃった気がします」
「消費したというか、あなたが余計な事を言っちゃったんじゃないですか。あなたの敵は私の敵なんですから、あなたが嫌いな父親は私も嫌いですよ。屋敷に邪魔者がやってきたらどうするんですか」
「え?私は別に、クリフォードを嫌ってはいませんよ」
「え?!」
「なんだかんだ、親が居なければこの世に存在してませんからね、嫌うほどではないんです」
「私なら憎まれたら嫌いますけどね……」
彼女の気持ちは本当によくわからない。自分を理不尽に憎んでいる相手を、嫌いにならずにいられるものだろうか。ただその相手が親だというだけで。
「あなたはシンプルな人間ですから……私は色々と考えてるんですよ。」
そうだろうか。彼女が変わっているだけのような気もするが、私はあまり追求しないでおいた。私は大人なのだ。
「……まあともかく、私はあなたの味方ですから。安心して寝てください、夜更かしは美容の大敵ですよ。誕生日くらい楽しいまま終了させればいいのに、馬鹿ですね!」
「馬鹿じゃないです。この前のテストも学年首席でした」
「真面目な顔で謎の自慢はやめてください。いいから寝なさい!」
アシュレイをベッドに押し込めて毛布を掛けると、じっと見てきて私は少し驚く。それから拗ねたような顔をして、毛布に潜ってしまった。こういうところ、彼女は子どもっぽいと思う。
こういうことを繰り返していると、どんどん彼女の恋人のような存在ではなく保護者のような存在になっていってしまっている気がする。それはなんだか損なような気もするが、彼女に恋愛は早すぎる気もするのだ。
ともかく私は、この頼りない女の子の味方で居てやろうと心に誓ったのであった。




