子どもになれない子ども
私がアシュレイに出会ったのは、私が57歳、アシュレイが3歳の時だった。
それまで、生まれた時からごく一般的な平民だった私は普通に働き普通の生活を送っていた。夫が若くして他界してからは宿屋に住み込みで下働きをしていたが、ある日私のもとに女中として働かないかとの誘いがあり、そこで働くようになる。
まさか60近くになって転職することになるとはと当時は驚いたが給料もそこそこ良かったし宿屋で働いていたので家事は得意で、仕事にはやりがいを感じていた。
その働き口が、アーノルド家だった。アーノルド家は没落したが元は男爵家だったらしく、平民よりは裕福で大きな家に住んでいた。その時の家長はクリフォード=アーノルドで、クリフォードはアシュレイの父だった。
顔の整った美しい男だったが、私はこの男をすぐに嫌いになった。この男の妻もだ。他の使用人から聞くと、公爵家だったクリフォードがその妻、カミラに一目惚れをして家の反対を押し切りアーノルド家に前例のない婿入りをしたのだという。家とは縁を切り、ほとんど駆け落ちのような状態で。
……いや、別に駆け落ちをしたから私が二人を嫌ったというわけではない。二人はあまりに、互いだけを愛しすぎた。クリフォードは仕事をしているかカミラと二人でいるかで部屋からほとんど出てこず、カミラは子供など見向きもしないでクリフォードに夢中だった。
カミラは珍しい黒い髪と目をしていて、そのためにクリフォードに出会うまでは差別で嫌な目に多くあってきたのだという。確かにカミラはクリフォードとは釣り合わないごく普通の外見で、黒髪を理由に差別されていたと聞けばそうなのか、と思える。
置いてきぼりは、アシュレイだった。私がはじめてアシュレイに出会った日。彼女の部屋のドアを開けると、彼女は読んでいた本から顔を上げて立ち上がった。
「こんにちは、あなたが新しいお手伝いさんですね?わたしはアシュレイといいます」
小さな子供なのに喋り方がはきはきとしていて、天使のように美しい子どもだった。綺麗な顔は父親譲りなのだろう、似ていた。それでいて……私は、笑顔が子供らしくないと思った。
作り笑いと言うか、子供らしい無邪気さのない笑顔というか。
握手を求められてその小さな手を握ったときは、やはり小さな子供だと感じたが。彼女は挨拶が終わるとまた椅子に座って本を読み始めた。彼女の部屋にはベッドと、机と、大量の本だけが並んでいた。今にして思えば、本は彼女にとっての世界のすべてだったのかもしれない。
誰があんなに小さな子に文字を教えたのかと聞くと、使用人の何人かが「質問された時に少し答えた」だの「自分で勝手に読んでる」だのと言っていた。使用人は男女合わせて5人だったが、私のような年寄りはいなかった。
そしてそれらの人たちは皆、誰もアシュレイに興味はない様子だった。……と言うよりは、不気味がっていたようだったが。
「だって、両親に相手にされてないのになんとも思ってないようなんだもの」
「なんか、怖いのよね。子どもらしくなくて。わがまま一つ言わないし……」
「ずっと本ばっか読んでて部屋から出てこないし、他の子供と遊ぼうともしないからな」
「まだ3歳なのに本が読めるなんて、どこかおかしいんじゃないのかしら」
「女の子なのに勉強なんかしたって」
みんな、そんな様子だった。そして屋敷に来た日、カミラに私は質問をした。
「アシュレイ様とは、食事をしないのですか?」
カミラは私に少しびっくりしたような顔をしてからにっこりと笑った。
「だって、あの子かわいくないんだもの。甘えてこないし、子どもらしくないし?クリフォードだってあの子はどうでもいいって言ってたわよ」
私の息子は、7歳で病死している。だからかもしれないが、私はその日のうちにカミラを心から軽蔑するようになった。
アシュレイが子どもらしくないのは、他の子どものように親や他の大人からの愛情を受けて育っていないからだ。だれも彼女を愛さず、興味を持たないから彼女は「そうなるほかなかった」のだ。
彼女は子どもでいることを許されなかったのだ。
「お母さんですか?えっと……両親の仲がいいのは良いことですよ」
アシュレイに母親をどう思っているか聞いたとき、彼女はそう答えた。
「いえ、そうではなくて……」
「……どうとも思っていないんです。……父も母も、あまり関わりはありませんから。前に話したのもいつだったか」
少したどたどしく、困ったようにアシュレイは言った。こんなに、こんなに小さな子供がこんな風になってしまっていることが私には衝撃的だった。
これなら、貧しい平民の子だものほうがずっと幸せなんじゃないのか?生活が保障されていれば、それで親をしていると言えるのだろうか?クリフォードはカミラ以外には厳しい人間で、私もほとんど口をきいたことがなかった。
そんな折、カミラが病気になった。私が来てほんの数か月後だった記憶がある。彼女はみるみるやせ衰え、寝たきりになってクリフォードは仕事をほっぽりだし、カミラにつきっきりになってしまった。アシュレイは相変わらず、自分の暗い部屋で本ばかり延々と読んでいた。
カミラが死んだ年、アシュレイが5歳になる頃にはアシュレイが読んでいた本は絵本ではなくて、少し厚めの小説に変わっていた。私はアシュレイはそのころから天才児なんじゃ?なんて思っていたが、やはり誰も彼女に興味はないようだった。
「アシュレイ様、ささやかですがこれを」
「マーサ、その包みは?開けてもいいですか?」
「ええ、もちろん。誕生日プレゼントです」
「誕生日?誕生日……私の誕生日ですね?!覚えていたんですか!ああ、この本、前から欲しかったんです」
ただ本をプレゼントしただけで、彼女は珍しく無邪気な笑顔を見せて食いついた。なんだ、こんな顔をして、やっぱりただの子どもじゃないか。
こんなに素直な、かわいい、小さな子どもじゃないか。私は歳だからか涙腺がもろく、アシュレイが喜んだ姿を見ただけで泣きそうになってしまった。
どうして誰も彼女を見ない?どうして彼女を愛さない?私は、彼女の両親なんかよりずっと彼女を愛しているのに、どうして彼女は私の子供じゃないんだろう。そう思わずにはいられなかった。その年から私は毎年アシュレイの誕生日に本を一冊と、ケーキを用意するようになる。
病でやせ細ったカミラは、やはり一度もアシュレイを呼びはしなかった。カミラが死ぬまでにアシュレイと会ったのは、片手で数える程度だっただろう。子を愛さない親など居ないと思っていた。でも、いたのだ。カミラはアシュレイに欠片の興味さえ持ってはいなかった。
「クリフォード、私死んでもずっとあなたを愛しているわ」
「私も、一生お前のことだけを愛している」
カミラの最後の言葉は、クリフォードへの愛の言葉だった。その部屋にアシュレイも立っていたが、無表情で無関心だった。まあ、ほとんど会話したこともない相手だ。いくら母親とはいえ、急に悲しめと言われても困るのだろう。
でもクリフォードはそうは思わなかったらしい。カミラの葬式の日、クリフォードはアシュレイのことを一切無視して通り過ぎた。
「クリフォード様、なぜアシュレイ様を見ないんです!!自分の子どもをかわいいと思わないんですか?!ずっと、ずっと彼女は一人で……」
「あれはカミラが死んでも眉一つ動かさなかった。泣きもしなかった。心がないんだ、冷血で私たちの子とはとても思えない。カミラじゃなくて……」
カミラの葬式があった日、クリフォードの言葉は私の怒りを爆発させた。
「〝あれ〟が死ねばよかったのに。」
彼女を愛する「両親」は居なかった。
アシュレイがこれを聞いていなくて本当によかった。しかしそれがきっかけで私は、アシュレイを自分の手で幸せに育てようと心に誓ったのだ。
クリフォードはカミラが死んで数日すると仕事ばかりをずっとするようになり、また部屋から出てこないようになった。しかし豪華なアーノルド家は、しばらく仕事を投げ出していたクリフォードが一人で維持するには大きすぎた。
「アシュレイを近所の金持ちに寄越すことになった。礼金は弾むそうだから悪い話じゃないし、食い扶持が一人減って助かるな」
アシュレイが9歳のころだったか。クリフォードがアシュレイを嫁に出して金を得ようと話し出したのは。まだ9歳の女の子を、しかも自分の子供を。40過ぎの男に嫁がせようとするなんてと私は信じられない気持ちだった。
その頃にはクリフォードの美しかった顔はやつれ、見る影もない疲れたただの男になっていた。精神的にも疲弊していたのかもしれない。いつもアシュレイを庇う私にわざわざそんなことを言ったのは、なぜだったのか不思議だが。
ひょっとすると、少しは「止めて欲しい」と思っていたのかもしれない。
「何を言うんです!人間として恥ずかしくないんですか?あなたは父親としても人間としても最低です!」
「そんなに言うならアシュレイを連れてこの家から出ていけばいいだろう!!責任を取る覚悟も無い癖に大口をたたくな!!」
「連れて出ていってもいいのですか?」
「好きにしろ。先方には断ればいいんだ、さあ出ていけ!出て行け!!」
年寄りになんて剣幕で怒鳴るんだ、と思いながらも私はすぐに荷物をまとめ、次に住むところをすぐに手配した。以前働いていた宿屋の近く、ボロボロだが一軒家を手に入れた。アシュレイの本も一部屋使えば収まるだろう。……問題は、アシュレイがついてきてくれるかだった。
「アシュレイ様、いえアシュレイ。この家を出て私についてきてくれない?私は、こんな老婆で、今のような生活はしていけないかもしれないけれど、一緒に来てほしいんです」
「マーサ、どうしたの?」
「この家から出て暮らしたいんです。それで、あなたと暮らしたいのよ。」
「二人でですか?」
「ええ。きっと、ちゃんと、育てるわ」
「マーサ、あなたが出ていくならついて行きたいですが……いいんですか?私は足手まといじゃありませんか?」
「もちろんです、わたしがきてほしいのよ!」
アシュレイだって、家が厳しいのは分かっていたはずだ。使用人も2人やめていったし。大量の本を運んでいる最中、クリフォードは窓からそれを見ていたが何も干渉してこなかった。最後の本を運ぶ時、アシュレイを玄関に待たせて私はクリフォードに話に行った。
「では、約束通り私はアシュレイ様を連れて私は出ていきます。」
「ああ、嫌な顔を見なくてせいせいする」
クリフォードから聞いた最後の言葉はそれだった。新しい家に歩きながら、アシュレイが聞いた。
「お父様は?」
「馬車に轢かれて死にました。」
「え?!……そうですか……」
私が怒った様子で答えたので、「嘘だな」と察したようでアシュレイはクスクスと小さく笑い、深くは追及してこなかった。アシュレイとの生活は貧しかったが、前よりもアシュレイの表情は豊かになったような気もした。それが私は嬉しかった。
私のアシュレイに対する態度も、“お嬢様と女中”から“親と子”のように打ち解けていった。アシュレイが劇団に入って働きだした時、本当はすごくうれしかった。つい素っ気なくしてしまうのは、大嫌いなクリフォードに顔がそっくりになってきてしまったからかもしれない。
しかし、いま彼女にやりたいことができたのなら、あの男のことも許せるような気がする。
アシュレイが15になって公爵家に行き、私は公爵家が用意した小さくも綺麗な家で老人扱いを受けて大人しく老後を過ごしている。もう、私も今年で67なのだ。アシュレイと二人で過ごしたのはほんの5年、アシュレイが大人になって行けば忘れてしまうような短い時間だったかもしれない。
けれど、私は本当に幸せだった。アシュレイが成長して、毛布をプレゼントしてくれた日なんかは嬉しくて泣きそうだった。
去年まではアシュレイにやはり本を一冊プレゼントしていたのだけれど、明日の誕生日はまた、いつものように渡せるだろうか?一応、用意はしているのだが。
「あの、アルドヘルムさん……でしたか?明日だけ公爵家に訪問したいのですが……」
「そうですか!アシュレイも喜びます、ぜひ。明日はアシュレイも休日ですからね」
私の申し出はすぐに許可された。温かい家、普通の生活。私のような年寄りにはこのくらいがいい。アシュレイの学校の話や屋敷でやんちゃしている話を聞くたび、あの日、ああ言ってよかったと思っている。アシュレイが幸せで、私も落ち着いた生活ができて。
アシュレイのお付と言う執事のアルドヘルムは、たまに私の所にアシュレイの話を聞きに来る。そう詳しい情報は教えてやらないが、好きな食べ物くらいなら教えている。私の焼いたアップルパイが、アシュレイは好きなのだ。
好きだとは言わないが、食べていた時の美味しそうな顔はすぐにわかる。アシュレイは、案外わかりやすい子なのだ。アルドヘルムがアシュレイを好きだと言ってきたときは、わかってるじゃないか、この若造は!なんて思ってしまった。
お前は私の一番大切なものにはなれなかったんだよ。ああ、もちろん大嘘だ。人生で一番、アシュレイが大切に決まっている。私は、彼女の母親代わりなのだから。
「マーサ!疲れた顔してるとまたおばあさんって呼びますよ!」
外はまだ寒い。本と一緒に、今編んでいるマフラーを編み上げてしまって持っていこうかなと思いながら、私は窓の外を見て、笑った。




