それは夜に灯る青い光①
岩で組まれた高い塔の入り口の前。ムスタファは、すべてを理解した様子で、それでも動揺はない様子で立っていた。必死で止めようと思えば、兵など居なくてもムスタファだけで王子を捉えておけただろうに。なぜそれをしないのか?答えは簡単だった。
ムスタファは、この国が滅んだっていいと思っているのだ。
人身売買が儲かる。それはただ「事実」なので、国王として有効活用していただけだった。それを良いとも悪いとも思わないし、国民が不幸でも幸福でも、そんなことはムスタファにとってどうでも良いことだった。ムスタファは生まれた時から神の子として周囲に崇拝され、それが当たり前として生きてきた。いずれ国を治めることになるのだ、と再三言われて大人になった。ムスタファにとって自分が王であることは、生きていくうえで本当に当たり前のことだったのだ。なぜなら、彼は神の子であったから。
『ねえお父様、どうしてぼくは宮殿から出ちゃいけないんですか?』
『お前のお母さまは神様で、お前はその血を引いているんだ。お前がこの宮殿に居るだけでこの国は安泰だ、外に出たいだなんて思ったらみんなが不幸になるんだぞ』
『街を見て回りたいだけなんです、国から出たいだなんて思いません!』
『駄目だ!!……欲しいものがあるなら持ってこさせるから、言うことを聞きなさい』
『……はい』
常に見張りがいた。10歳になるまでは両足に鉄の枷をつけられて育った。ムスタファの精神が歪むのはある意味、当然のことだったのかもしれない。彼に自由はなく、崇拝はされていても常に周囲はムスタファを畏れ、対等な存在は母親ただ一人であった。そのはずだったのに、母はムスタファが15になった年から、国内の人間を襲うようになった。
普段は優しい母だった。母は、ムスタファが閉じ込められていつも暗い顔をしているのを見るたびに様子も人格も変わって行ってしまったのだ。ムスタファが生まれるまで、ミラゾワに神を信仰する文化はなかった。突如現れたムスタファの母、狐の神が現れるまでは。
ムスタファの母は、はじめはただ少し化けられる程度の狐であった。それがムスタファの父親、先代国王に恋をし、人間に化けて近づくようになって変わった。ただ恋した相手が人間であっただけ。先代国王はその女が狐であることを知ると、神として祭り上げ、王の権力を示すものの一つとして利用しようと考えた。王は初めからムスタファの母を愛する相手としてではなく、利用する相手として接していたのだ。
王の思惑通り、国民たちがその狐を崇拝するようになると、狐は信仰を得て神へと進化を遂げたのであった。
『ムスタファ、我々神は人間の信仰により成り立つ存在。人々が変われば、私を恐れ嫌悪すれば、私は〝本当にそういう存在になってしまう〟のです。私は、私は、国が淀めば淀むほど人を襲うようになってしまう。自分が変わってゆくのが怖い』
『お母さま……私には分かりません、自分の意志が他人の想いによって変わってしまうなんて……』
『お父様も変わってしまったわ。昔は穏やかで民を大切にする優しい王様だった……私のせいで、すべてが変わってしまう。ごめんなさい、ムスタファ……あなたは、こんなところに生まれて不幸でしょうね』
『……』
ムスタファには分からなかった。悲しそうな母を慰めるにはどうすればいいのかも、自分が不幸なのかどうかも。それが不安だった。その頃には、もう外に出たいだとか国をどうにかしたいという気持ちはなくなっていた。
神の権威に頼って政治はどんどん独裁的になり、ただでさえ狭い国土は金持ちの豪邸を作ることで更に狭くなった。領主が農民の作物を低価で買いたたくようになり、農業をやっていた平民たちは軒並みその土地を手放した。唯一残った衣服や布の貿易や、森の木を細工して作った模型などを売るだけで平民たちは暮らし、利益のほとんどは貴族に流れるようになった。
ムスタファが王位を継いだ20の頃には、父は歳以上に老け、母は美しい白だった毛が真っ黒に染まり、口数も少なくなった。夜中にふらりと、口の周りに血をつけて帰ってくることも増えた。ムスタファはそれを見ても何も言わなかった。母の表情が昔のように暗くはなく、どこかニヤついた顔になって行ったのがただ、不気味だった。
王位を継いですぐ、先代王は死んだ。干からびて、やつれたような顔になっていたのが印象的だった。ムスタファはこれから自分が王になることに責任を感じたが、同時に不安でもあった。父が死ぬと、母がほとんど宮殿に戻らなくなったからだ。
『ムスタファ陛下……ミラ様が国民を殺害して回っていると……その、問題になっておりまして』
『どうにかしていただけませんか、国民が暴動を……』
高官たちの訴えを、ムスタファは冷静な頭で聞いていた。すべては自分の手の届かないところで起こっている出来事。ただ、母が人間を殺して回っているということしか自分は知らない。高官たちは、自分に母を殺せと言っている。ムスタファに残った選択肢は一つだった。
21歳の誕生日、ムスタファは夜、母を宮殿に呼び出した。母はその日だけはなぜかニヤついた不気味な表情ではなく、冷静な昔のような顔だった。
『ムスタファ、誕生日おめでとう』
『ありがとうございます、母上。どうぞそこにお座りになってください』
『ありがとう』
言われるままに座った母の首を、ムスタファは後ろから一気に剣で切断した。ムスタファは、その時生まれてはじめて涙を流した。顔を悲しみにゆがませ、口を抑え、止まらない涙を流れるままに流して泣いた。
『ありがとう、ムスタファ。私が消えてなくなる前に、殺してくれて』
その声が聞こえて、ムスタファは地面に落ちた母の首を慌てて抱き上げた。母は昔のような穏やかな顔をしていて、ムスタファは何も言えずにまた涙を流した。母が目を閉じたので机に首を置こうとすると、母はもう一度目を開け、今度はこの頃のような邪悪で人を憎む感情に憑りつかれた顔をしていた。ムスタファは驚いて首を机に投げ出して一歩下がる。
『よくも母親である私を殺したな。この国も、お前も、皆呪い殺してやる。今よりもっと不幸にしてやる。神であるこの私を、お前は……』
『……』
母は、再び目を閉じた。もう二度と目を開けることは無かったが、その日から、ミラゾワ国内で生まれた子供にはどこかしら体に欠陥が生じるようになっていた。耳が獣、頭が獣、手足が獣。国民たちは狐の呪いだと騒ぎ、恐れ、生まれたばかりの子どもを不気味がって焼き殺しまでしていた。母を殺せとムスタファに言ってきた高官たちは、大慌てで神殿を建築し、そこにムスタファの母の神を埋葬した。
しかし100年もすれば国民はほとんど獣人になり、元は普通の人間ばかりだったということすら忘れられていった。ムスタファにはもう、友人も家族も居なかった。孤独だった。やりたいことも、出来ることも無かった。見たいものも欲しいものもなかった。悲しいとも嬉しいとも思ったことは無かった。でも、不幸であると思った。自分は幸福ではなくて、食事だって豪華にされても半神は食べずに生きていけるので意味がない。豊かな生活だってどうでも良かった。
この宮殿の中だけで得られる幸福は何だというのか。
この宮殿でずっとこれからも死ねずに生きていく自分に比べれば、奴隷にされて早死にできる人間たちの不幸などどうだっていいと思った。他国との貿易も、国の発展もどうだってよかった。アズライト帝国からの使者を受け入れたのも、国を発展させたいだとかではなくただの気まぐれだった。
アシュレイとミサキを初めて見た時、ムスタファにはすぐに彼らが「自分と同じ存在だ」と理解できた。なぜかは分からないが、そう感じられたのだ。呼び止められた二人がそれぞれ、青くなったり怒った表情をしたのを見た時、ムスタファは嬉しかった。二人が本当に半神であったと知ったときは、もっともっと嬉しかった。
ムスタファはただ単純に、同じ半神という境遇の二人と「友達になりたかった」だけだったのだ。少なくとも、アシュレイとは親しくなれると思った。自分の話をしたのだって、アシュレイと親しくなれると思ったからだった。死ねない同じ苦しみをいつか理解した時、友人としてアシュレイが一緒に居てくれるかもしれないと思った。それだけだった。
アズライト帝国の人々に薬を盛って捕えようだとか、王子の誠意のある態度を無視する気もなかった。さらに言えば、ムスタファはエドウィンを気に入ってすらいた。しかし、ムスタファはエドウィンと貿易の話をしていて、思ってしまったのだ。
『私の国は冬の国です。娯楽も多く、最近では演劇なんかが人気なんです。ムスタファ殿下もわが国に滞在することがあればぜひご覧になっていただきたい』
『それは興味深いな』
『我が国は冬がとても寒いので、ミラゾワの衣類製品にはとても可能性を感じているんです。デザインもこちらとは全く違うものなので、我々はこれから、多くの異国文化を取り入れていきたいと……』
エドウィンが楽しそうに話す自国の話。この国の話。ムスタファは、エドウィンは幸せなのだと話しているだけで思い知らされ、生まれて感じたこともないような激しい嫉妬を感じた。そして、自分がこの国にこれからもずっと閉じ込められて生きていくのだと考えると、どうしてもやり切れない気持ちになった。どうして自分はこうなのか。
だから、自分よりずっと力を持っているミサキの存在を知りながらもアズライト帝国にこんなことをした。
少しも整っていない軍備、相手には半神が二人、相手には訓練された兵士100人近く。逃げられることは分かり切っている。戦争になれば敗北することも分かり切っている。それでも、ムスタファは高官たちに命令をして薬を盛らせた。高官たちも宮殿勤めの者たちも、ムスタファを恐れて少しも反対しなかった。そのことすら、ムスタファにとっては面白くないことだった。
アシュレイは、当然ながらムスタファに怒りを向けた。捕まって牢屋に入れられたのだから、それは当然の怒りだった。だったが。
「私は、悪人っていうのは見る側によっては悪でない場合もあると思っています。だから奴隷商のことを知っても貴方を悪人ではないと思いたかった。でも、いいんですよね。あなたは私にとっては悪人なんですから……」
友達になりたいだけだった。でも、それもムスタファにはどうでも良くなった。自分が悪人であるとアシュレイに断言されてしまったからだ。嫌悪に満ちた視線、はっきりとした敵対心。そして、自分がどうでもいいと思っていた奴隷商について怒っている様子のアシュレイ。生まれた時からずっと信じてきた「神の血を引いているから特別で偉大な存在である」という価値観の否定。
耐えられなかった。ムスタファは。もう、本当にどうだっていいと思っていた。
動物からの純粋な愛情に、人間は必ずしも誠実ではないというお話。本当に不幸なのは、ムスタファなのか、母親なのか、それとも奴隷たちであったのか?




