神の加護のあらんことを
ソヘイルの両親が見つかってから一週間が経った。
ソヘイルについて通訳として、結局アシュレイたち全員が毎日アナスたちの家に通った。ソヘイルやマイリもアルドヘルムも、簡単な言葉なら少しわかるようになり、互いのことを知る機会も増えた。アナスたちが昔は貧しかったが、商売がうまくいきこの牧場を手に入れたこと。羊の毛を加工する方法を発達させたことや、この国も昔に比べれば治安が良くなったこと。
この状態で改善されている、というのがアシュレイには理解不能だったが、暮らしている彼らが言うのだからそうなのだろう。それで、ソヘイルはマイリと恋人関係にあることを告げた。両親はマイリが男であることを告げても「ソヘイルと一緒に居てくれるだけで嬉しい」と好意的な態度で、アシュレイはそのことに安心した。とりあえず、二人の関係を肯定してもらえれば後腐れなくアズライト帝国に戻れるというものだ。
『私、夜用に水を汲んでこなきゃ。少し席を外しますね』
『ああ、では私もついて行きましょう』
アシュレイは、水を汲みに行くというアティヤについて行くことにした。ソヘイルは、アナスが服を織る工程を見せると言うのでそちらを見ている。すべて手作業で、毛を細くねじって茹でたものを縦、横に順番に織っていく。
歴史上の他の織物と同じ工程での機織り作業だが、ソヘイルたちは興味深げにじっと見ていた。小屋には通訳としてミサキが残り、アルドヘルムは小屋のすぐ外で見張りをしている。何の見張りなのか、とアシュレイが聞いても「念のためです」と笑顔で言うばかりでよくわからない。
『水汲み場は、小屋から結構離れているんですね』
『ええ。この付近の全世帯共用の井戸なんです。』
アシュレイは昨日の話は忘れ去ろうと思って、アティヤに愛想よくふるまった。アティヤもソヘイルの後見人と名乗ったアシュレイに悪感情はないんだろう、笑顔で返事する。
アシュレイは彼女を見ても良い人そうだ、としか思えなかった。こういう普通で良い人そうな人が、心揺れて我が子を手放してしまうような環境下。20年経っても名前を聞いてすぐ思い出せるくらいに大事に思っていたはずなのに。それはただ単純に、とても悲しいことなんじゃないだろうか。
『あの、あなたに相談したいことがあって……』
『何でしょうか?』
『その……私たちはソヘイルと再会できてとても嬉しいの。言葉はこれから覚えて行けば良いし、だからあの子に……ここで私たちと暮らさないか、と聞いてみてもらえませんか……?マイリっていう子は男の子なんでしょう?ずっと恋愛関係で居るのは現実的じゃないと思うし、あの子のためにも……』
アティヤの言葉に、アシュレイの顔から作り笑顔がすぅっと消えて無表情になる。それを見てアティヤはまずいことを言ったか、と少し青い顔になった。マイリはアシュレイの友人でもある。貴族であるアシュレイの、友人のことについて何か言うのは得策ではなかったかと思っているのだ。
『何が現実的じゃないんですか?』
『え?だ、だから……子供だって作れないし、今は若くて華奢だから女装すると女の子に見えますけど、大人になればそうもいかないでしょう?結局のところ、彼は男の子なんですから……』
喋れば喋るほどアシュレイの地雷に触れていくアティヤだが、なんというか、これはこの国の当たり前の価値観なのである。アズライト帝国はその点、性別に関する宗教的拘束がさほどきつくない。自由な国であると言ってもいい。マイリの両親だって、女装するマイリに何も文句を言わないし。
『マイリが自分を女の子だと思っているならば、マイリは女の子なんです。何年か経ってマイリの体格が変わったとしても、マイリが自分のことを女だと思っているのなら変わらずマイリは女です。大体、子供が日常的に売買されているような国で子供を産むだの産まないだの、馬鹿馬鹿しいと思いますけどね』
そう言いながら、アシュレイはアティヤの持っている分の水桶も取り上げて持った。どんな時でも女性には優しく、重い荷物は持たせない。それがアシュレイの信条である。アシュレイがマイリについてこういうことをきつく言ってしまった理由には、アシュレイ自身の体質のこともあった。
アシュレイは自分を男と思えば男になってしまう。体そのものがだ。だからと言って自分の体が男になった時、自分は完全に男になってしまうのかと言えばそうではなかった。心のどこかでは、生まれた時から自分は女だし、女としてアルドヘルムを好きだと思っているのだと感じている。要約すると、体が男だろうと女だろうと、アシュレイ自身は女だと認識しているのだから、体が男だからって男扱いされてたまるかという気持ちがあるのである。マイリだってそれは同じのはずだ。マイリが自分を女と思えば、マイリは女であるはずだ。
とはいえ自国の問題点について指摘されたアティヤは、少しむっとした顔をして控えめにだがアシュレイに言い返した。
『あ、あの……いままであなたがソヘイルをお世話してくださっていたことはとても感謝しています。でも、20年も私たちは誘拐されたソヘイルのことを思って……今、私たちはたくさんの羊を飼っていて比較的生活にゆとりもありますし、ソヘイルはここで暮らして結婚して、子どもだって……』
『ソヘイルは生まれてすぐ、洞窟の民族の元で奥深く、薄暗い牢屋に閉じ込められて育ちました。私たちに出会ったのは今年に入ってからですよ。』
歩きながらアシュレイは言った。アティヤはアシュレイの言葉に分かりやすく青ざめて歩みを止める。アシュレイも立ち止まり、振り返った。
『牢屋!?そ……そんな……私、そんなことになっていたなんて……』
『思いませんでしたか?今のソヘイルを見て、ここにいる生活よりマシだっただろう、と思っていましたか』
『あなた……さっきから何が言いたいんですか?!』
刺々(とげとげ)しくなったアシュレイの言葉に、とうとうアティヤが声を荒げた。アシュレイは一度両手の水桶を地面に置くと、アティヤの細い右肩を強くつかんだ。女と思えないがっしりとした手の感覚に、アティヤは驚いて怯える。アシュレイはアティヤの目を見て畳みかけるように言った。
『神はあなたを見ています。いつの日もあなたの行いを誰かが見ているでしょう。すべてを失いたくないのなら、過ぎた願望は胸の内にしまっていなさい。』
無神論者だったアシュレイの言葉とも思えないが、確かに神は見ていたのである。神と言うか、先生と言うか。神父ってこういう感じなのかな?なんてアシュレイは呑気に思う。
『あなた……知って……』
『ソヘイルに余計なことを言わず、良い母親として思い出にしてあげてください。それが出来ないのなら、私があなたの敵です』
アシュレイは手をアティヤから離すと、再び水桶を両手に抱えて小屋の方に歩き始めた。アティヤは数分の間その場で静かに泣き、少し歩いて水場に戻って、泣いたせいで少し火照った顔を冷たい水で洗い、新しくひとつの水桶を抱えて小屋に戻った。小屋ではアシュレイが他の数人と笑顔で談笑している。
小屋の近くまで歩いてきたアティヤの所に、ソヘイルが慌てたように走ってきた。
『か、母さん、おれ、それ、持つ、代わりに』
カタコトのミラゾワ語でそう言ったソヘイルを見て、その父親にそっくりの優しい笑顔を見て、アティヤはこらえきれなくなって涙を流した。それから地面に水桶を置いて、ソヘイルを抱きしめて、わんわん泣いた。ソヘイルは少し困ったような顔をしたが、アティヤの背中を優しくさすって気遣う。
自分が誘拐されてここからいなくなったのだということを知っているソヘイルは、自分がミラゾワ語で喋ったのでアティヤが感極まったのかな、と解釈した。
『ごめんなさい』
『なに、言っているのかわからない、大丈夫?』
『大丈夫よ、大丈夫なの……』
ソヘイルにアティヤの荷物を持ちに行けと言った張本人のアシュレイは、窓の外でソヘイルを抱きしめて泣くアティヤを見ながら、彼らの間に何があろうと、確かな家族愛があったのだと感じた。自分は母親に抱きしめてもらったことも、泣いてもらったこともない。だから単に、うらやましいと思う。今日は僻みでアティヤに嫌味を言いすぎたかな、とアシュレイは少し虚しくなった。
夕暮れが赤くて少し不気味だ。今日は帰ったら、アルドヘルムとどうでもいい話をしたいとアシュレイは思った。
悲しいお話。どんなに想っていても、やり直すことはできない。




