プロローグ
暗くて冷たい部屋の中、ろうそくの小さな明かりをつけて。
文字を読むのもやっとくらいの、幼い少女が本を広げて読んでいる。
窓の外からは月明りだけが僅かに差し込んでいたが、文字を読むには事足りない。だからろうそくを、火が燃え移らないように注意しながら出来るだけ本に近づけて、少女は毎晩のように一人で本を読んでいた。
家人は皆寝静まっているので、少しの音もたてないようにして。
起きていることに気づかれても誰も何も言ってこないのは分かっていたが、興味を持たれていないことを認めたくない少女は、あえて目立つことの無いようにふるまっていた。それをすることで「子供らしくない」と距離を置かれることにまでは気が回らなかった。
ただ、少女は知りたいと思っていただけだった。
だから本をたくさん読むことにしたのだ。知らないことをたくさん知れば、多くの愛される子供のように『普通』になれると思ったからだ。
愛される人間になるにはどうすればいいのか?自分はどう生きていくべきなのか?
そもそも、自分は愛されることを望んでいるのか?
「お前は小さい子供のくせに、毎晩なんのために本を読んでいる?」
ある晩、少女の背後からそんな声が聞こえてきた。
驚いた少女は首だけ振り返り、自分の後ろに立っていた〝なにか〟を見つめた。
それは人間と言われれば人間にも見えたし、ぼんやりとした、ただの月の光にも見えた。
男にも女にも見えたし、怪物にも神霊にも見えた。恐ろしいものにも暖かいものにも見えたし、ともかく、〝何にでも見えた〟し〝何にも見えなかった〟。だから少女は〝それ〟がなぜここに存在しているのかも考えず、質問に答えた。
「生きていく上で分からないことが多いから、調べているところ」
それは、ただ素直に出た答えだった。
簡潔な答えだったが〝それ〟が知っている中で、そんなことをする子供は他にいなかった。
「あなたは誰?」
今度は少女がたずねる。〝それ〟は少女の部屋の壁に寄りかかり、じっと少女を見ていた。少なくとも少女だけには、その視線ははっきりと感じられた。
〝それ〟は答えを返す代わりにゆっくりと少女に近づき、その髪に触れた。少女は怯えて逃げるでもなく、興味を持って相手を観察するでもなく、ただぼんやりと本を抱えたまま、黙って座っていた。
数分の後、〝それ〟は少女の頬に両手で触れ、その瞳を更に間近で見つめた。少女はそれでも抵抗を示さない。恐怖心すらも、少女はまだ持っていなかった。
それから〝それ〟はゆっくりと口を開く。
「私は夜と共にある者。永遠を生きながらにして、時と共にあることを渇望する者だ」
少女は黙って、ようやく〝それ〟の視線を見返した。それは月の光のようでいて、虚空に漂う冷たい空気のようでもあった。意味の分からない答えも、少女を困惑させた。少女がしばらく困ったように黙っていると、続けて〝それ〟は言葉を紡いだ。
「知ることを望む子どもよ。私が何者かわかるか?」
「わからない。どうしてあなたはいつも私の部屋に居るの?」
「いつも?」
「だってさっき、私が毎晩本を読んでいると言ったでしょう?」
「ああ、言ったな」
〝それ〟はこころなしか楽しげに見えた。何を嬉しそうにしているのか少女には分からなかったが〝それ〟は少女と言葉を交わすごとに次第に輪郭を持っていき、青年の姿に変わった。それから少年の姿になり、次には見たこともないような化け物の姿になった。少女はようやく驚いて、少し後ろにのけぞる。
「人間じゃないの?」
「さてな。神かもしれないぞ」
「神様?……そうなんですか?」
普通ならば何を言っているんだ、と呆れるか不法侵入で人を呼ぶところだが、少女は目の前の〝それ〟を見ていると、本当に神様なのかもしれないと思えた。本当に、なぜか。
「それで、お前は本を読んで調べて何を学んだんだ?」
「色々……」
少女は少し考えると、足を組み替えて座りなおして〝それ〟に向かい合う。
「男の幸せは権力と栄誉、女の幸せは権力を持つ男と結婚して、家を守ること……周囲の人々にうらやましいと思われるような生活を送っている人が幸せで、そうなるためには健気に働いたり、人を助けたり戦争で功績をあげたり、そういった努力が必要となること……人は幸せになるためと、神を信仰し信心深く天国へ行けるよう己を節制して生きるべきということでしょうか?」
すらすらと子どもとも思えない発言をする少女を〝それ〟は少し呆れたような顔で見ていた。
「……お前は本当に子どもらしくないな、そんなだから遠巻きにされるんだ。それで?お前は幸せになりたいのか?」
「それが自分の納得にいつか繋がるのなら。あなたは?」
「私か?」
「はい。神様は何を目的として存在しているんですか?なぜ今日、私に話しかけたんですか?」
少女はそう質問しながら本に、しおりを挟んで閉じた。
「私は他とは変わった、少し変な神なんだ。人間になることを目標に生きている。」
「ええっ!どうして人間になりたいんですか?」
少女にとってそれは至極当然の疑問であった。神とは人間よりはるかに〝上〟の存在であり、彼等には悩みも感情も無く、ただ人間に崇拝され、時折手を貸すこともあるが、気まぐれな存在でしかない。それが少女にとっての〝神〟の概念であった。人間より上の者が人間になることを望むことは、少女には理解できなかった。
「神に寿命はない。だから、永遠を生きるのに疲れてしまった」
〝それ〟は少女の目を見つめたままでそう言う。先ほどより少し、元気のない様子で。
「あなたは寿命を手にして、死にたいんですか?」
「存在していて楽しいことも別にないからな」
退屈だから、いい加減すべて終わりにしてこの世から消え去りたい。それが、永遠を生きる〝それ〟にとっての心からの願いであった。限りある命だからこそ人間は必死に生き、活力を持ち、充実を味わえるのだというのが〝それ〟にとっての認識だった。
「じゃあ、あなたが人間になったら、私の友達になってくれませんか?」
「どうしてそんなことを望む?ただの人間になった私に」
「友人というものは対等でなければなりません。神と人では友人になりえません。あなたが人間になるなら、私はあなたと友人になれるかもしれません」
王子と騎士、貴族と平民、身分や位が違う者同士が自然に仲良くできるということを、少女はまだ知らなかった。少女には友人もいなかったし、同世代に知り合いの子どもも居なかった。両親は少女に興味が無かったので話しかけもせず、少女はただ、本や人の会話から学んだことしか知らなかった。まして、神と友人になるということは少女には想像もつかないことだった。
「なぜ私と友人になりたいと思うんだ?」
〝それ〟が少し楽しげにそう聞くと、少女は少し身を乗り出して言った。
「私に質問をして話を聞いてくれたのも、興味を持ってくれたのもあなたが初めてでした。あなたは〝いい人〟です。私、あなたのことが好きです。だから友達になりたいと思いました」
〝それ〟はその言葉に驚いて少しの間黙っていたが、少年の姿から靄のような姿に戻ると少女を抱き上げてベッドに運んだ。少女は〝それ〟の目らしきところだけを見つめ、大人しく運ばれる。
「子どもはあまり夜更かしをするな」
そう言って〝それ〟は少女をベッドに優しく置く。
「また会えますか?」
少女が〝それ〟をじっと見つめていると、〝それ〟は少し考え込むように窓の外を見てから少女の顔を覗き込んだ。
「次に会うことがあれば……そう、私が人間になってお前をお前と覚えていたら、私は必ずお前を迎えに来よう。そうして、いつも共に居てやろう。死ぬまでな」
そこまでの返答は期待してもいなかった少女は、驚いてベッドから上半身を起こす。
「どうして私に、そこまでしてくれるつもりでいるんですか?」
「お前のことが好きだからさ」
「そんなのおかしいでしょう。私の真似して言っただけじゃないですか」
「そんなこともないさ。私は毎晩興味を持って、お前のことを見ていたのだから」
〝それ〟はそれだけ言うと部屋の小さな窓から出て行ってしまった。
そうして、二度と少女の前に再び姿を見せることは無い。幼い少女は、このことを時間が経つにつれ夢だったと思うようになり、忘れていく。しかし〝それ〟と出会ったことで確かに、少女の心境には変化があったのである。
それは夜の中、いつも少女と共にあった。
「行ってきます」
成長した15歳の少女は、今日も仕事をしに家のドアを開けて外に飛び出す。
少女の住む冬の国、アズライト帝国には今日も曇った空から、雪がちらほらと降ってきていた。