狼に育てられた少年編 2
1匹の狼と1匹の人間が木々の間を縫うようにして森を駆けてゆく。風も雨も雷も留まるところを知らないように見えるが、炎の勢いだけは収まってきたようだ。太郎はその短い手足からは想像もつかない速度で狼に着いてゆく。
雨と風の音が総まじいが、一種の静寂も覚える。それは他の動物が姿を消しているからだろう。山火事の範囲外に逃げているか、自分の巣に引きこもっているのでこの山に気配はない。
しかしそのことが他の動物の気配を見つけやすくしていた。
ドウカンが立ち止まって言う。
「あいつらの気配だ。わかるか?」
太郎は暫く集中した後、
「…微かに」
と呟きながら首を小さく縦に振る。
記憶が戻ってくるにつれ、それまでの生活で培った能力を使いこなせるようになってきているようだ。どんなに注意深い人間でもこの雨の中動物の気配を捉えることはできない。
「ほー、わかるようになってきたか。」
ドウカンは「オン」、と良く通る連絡用の鳴き声を出した、一拍後、「オン」という返答が3つ重なって聞こえてくる。
「リンとジョークとドーマ、全員いるな、急ぐぞ!」
とドウカンは吠え、駆け出した。太郎もそれに続く。
返答の鳴き声が発せられた場所はちょうど結び石の場所だった。そこにドウカンと太郎が茂みから矢のように飛び出してくる。
「お父さん、お兄様!……ケホッ!」
リンが助けを求めるような声で二匹の名前を呼ぶ。なぜなら三匹は、結び石を背後に、他3方は炎で囲まれて身動きの取れない状態にあった。ジョークが現状を報告する。
「ドウカンさん!みんなの様子がおかしい!呼吸が荒く咳をしている!」
「それは煙だ!その白い気体、なるべく吸うんじゃねえ!」
この場で最も年上で経験豊富なドウカンが忠告する。如何に食物連鎖の頂点に立つ狼といえども根源的な恐怖を呼び起こす炎相手ではなすすべがない。
雨は依然降っており、炎が消えるのも時間の問題だ。しかし人より小さな身体の狼は、煙の影響を受けやすい。もし後遺症が残ってしまったら自然界で生き抜くには致命的なダメージとなりかねない。
太郎は「おい!」と声をあげ注意を引き付けてから、伏せの姿勢を取る。三匹にも意図は伝わったようで三匹とも姿勢を低くする。
「待ってろ!炎なんかおっかなかねえって教えてやる!」
太郎は濡れてぐちゃぐちゃになった地面に身体を擦り付け全身に泥を纏う。ドウカンと目を合わせる。太郎の考えがわかったのか、驚愕の表情を浮かべている。太郎は再び前を向くと、炎目掛けて走り出す!
「太郎!」
「おい!早まるな!」
「お兄様!」
三匹の呼び止めるような声を無視し炎の根元に突っ込む。その勢いのまま三匹のいる方に転がり込んだ。
「ふぅ~、ほらな、平気だったろ。今のを真似してやってみろ」
「ほ、ほんとに平気なのか!?火傷してないか!?」
とドーマは慌てながら聞く。
「火傷どころか体につけた泥すら乾いてねえよ」
太郎は三匹に身体を見せつける。
「それで、私たちにもこれをやれと言うのでしょうか……」
リンが不安げに問う。太郎は頷き、もう一度泥を纏う。そして次の瞬間、ためらいもなくまた炎へ飛び込んだ。
「きゃあ!」
リンが怖がるのも無理はない。人間でいえば、高所からの飛び降りを何度も見させられているようなものだ。今までの常識からいえば炎に飛び込むなんて自殺と何ら変わりがない。その常識に捉われて、三匹はまだ尻込みしている。するとドウカンが、太郎と同じように泥を付け始めた。そして炎目がけて走り出す。
一切無駄の無い加速、炎の壁の前での蹴り込み、そして炎を抜ける際の空中姿勢の美しさ。ドウカンという種の生物のポテンシャルを最大限に引き出した動作に、太郎は目を奪われた。生物の根源的な恐怖である炎を克服し、そこから出づるドウカンの姿は、見るものに畏敬を抱かせるほどだった。
それは三匹にも感動を与えた。ドウカンは炎なんて無かったかのように悠々とした態度で三匹に促す。
三匹はそれぞれ身体に泥をつけ始める。まず年上のドーマが先ほどのドウカンと比べても遜色ない動きで炎の壁を突破する。それに勇気づけられたリンとジョークも後に続いて脱出した。
「皆さん無事のようですね……助けに来てくれてありがとうございました!お父様、お兄様!」
炎を潜り抜けて無事だったことに安堵と少しの疑問を持ってリンは礼を言った。
「家族だろ、そんなことは気にすんな」
とドウカンは言い、続けて
「しかし太郎、お前、この嵐ではぐれる前とはまるで別人だな。なにがあった?」
と問う。先ほどから太郎は、日本語と身振り手振りを使ってコミュニケーションを取っていた。どうせ言葉が通じないからといって黙るよりも、声音で伝わる情報もあるのでボディランゲージだけではなく積極的に声を出すようにしていた。しかしこの問は答えることが難しい。前世の記憶が戻ったとは信じてもらえないだろうしそれを伝えることも不可能に近い。
数舜の逡巡の後、太郎は手を地面から離し、二本足で立つ。二足歩行。四足歩行からの脱却。これで十分だった。
「それは……そうか、太郎は人間となったのか」
「ど、どういう意味ですか!?人間になった!?」
「リンはまだ生まれてなかったがな、ある日俺は捨てられている人間の赤子を見つけた。喰っちまおうと思ったが、なんとなく気が乗らなくてな。放ってはおかないから俺たちの家族にしたんだ」
「そんなことが……そうか、だから太郎は狩りも下手だし感覚も鈍かったんだな」
太郎が家族に加わったのと同じ時期に生まれて、以来ライバル視して成長してきたジョークが納得して呟く。ライバル視とは言っても大抵のことはジョークが良くできていたが。
「太郎、ドウカンさん、それで、この後はどうしましょう」
3匹の中では最も年上で太郎の事情も把握していたドーマが冷静に問う。
太郎には2つの選択肢がある。このまま家族の一員として過ごすか、それとも森を出て人間として暮らすか。
太郎はこの森に忌子として捨てられていた。前世ではたくさんの愛情を注いで育ててくれたお爺さんとお婆さんに捨てられた。人間としての意識が戻って暫くたったので、その記憶も思い出しただろう。しかし太郎は捨てられたことに納得している。
お爺さんとお婆さんは自分たちに子供ができないことを酷く気にしていた。毎日敬虔に、子供を授かりますように、と神に祈っていた。そんな折、前世では一寸法師を授かった。2人は人より明らかに小さいその体躯をみて神からの贈り物だと確信し、沢山の愛情を注いだ。
しかし今世では、ごく普通の健康な男児を授かった。神には子供が欲しいと願ってはいたが、お爺さんはまず、浮気を疑った。お婆さんは高齢で相手が誰であっても子供は出来ない、2人はずっと人里から少し離れた山の麓で暮らしていたので相手とやる時間がない、という理由で浮気はないと納得はした。だがその子を神の贈り物だとは考えなかった、忌子だとした、悪魔の生まれ変わりだと。お婆さんも何もしていないのに生まれてきた子を不気味がり恐怖した。突如湧いてでた子を神の御業ではなく悪魔の仕業だと考えた。
もしその子が小さかったら奇跡だと喜んで大切に育てていたのに、普通の元気な赤ん坊は忌み嫌ってしまう。本当に些細な差というか、なぜ一寸法師という人外を可愛がれたのに普通の赤ん坊はだめだったのか。そこに明確な理由はない、過去の改変は存外多くのことを変えた。
太郎は2人に悪気があったわけでは無いことをわかっている。小さかった自分にたくさんの愛情を注いでくれたことを知っているからである。それに、過去の改変を願ったのは太郎自身であるのだから。
また、太郎はこんなことも考えていた。力をつけるにはこの環境は悪く無い、と。実際、童子の年齢にしては考えられないほどの生き抜く力を会得していたし、人の常識に収まらないほどの嗅覚、聴覚などの獣の勘を身につけていた。
だから太郎はーー
だから俺は、しばらくこの森に留まることにした。俺の目的は十数年後に来たる鬼からお嬢を守ることだ。ただその危機を回避するだけなら、その日お嬢を外出させなければいいだけだ。しかしその後もお嬢を守り続けたい。これは一寸法師時代に守られ続けてきたからこそ生まれる身の程知らずな守護欲かもしれない。そのために、力が欲しい。平凡な日常に、いきなり鬼がやってきたのだ。妖怪なり悪魔なりが現れても不思議ではない。
この森には魑魅魍魎の類いは現れなくても、食物連鎖の中で常日頃から命のやり取りをしている獣たちがいる。この中で生活、まさしく生きるための活動を続けて行けば自分の、人間という種の可能性を大きく開くことができるであろう。今でさえ人間の常識では考えられない能力が身についている。この幼子の時にこんな体験が出来るのは恵まれている。だからこの森に残ろうと思った。
ただ1つ迷っていることは狼達と一緒に暮らすか1人で自立して生活するかだ。
しばらく迷っているとドウカンは言った。
「すぐには決められないか、とりあえず家に戻ろう。疲れてるだろ。それにみんなも俺たちの帰りを待ってる」
俺たち以外の家族が全員いるとするなら、ドウカンの妻であり俺とリンの母親であるケツカと、ドーマ、ジョークの母親であるパープの2人の母親、そして俺の姉のクディの女性陣が待っているはずだ。
さて、帰ろう。考えながら。