僕は君が好きだから
いつからだったのか。君がいなくなったのは。寒い、冷たいこの部屋を更に凍える場所へと変えたのは、君なのか。
真っ白な部屋の中、明かりは点いていない。真っ暗な、部屋。
壁に寄り添う様に設置されたもこもこのベッド。そこに丸くなって座る僕は、何に見えるのか。
闇に、溶けて見えるのか。淡く、光って見えるのか。
夜空ならきっと真相を知っているだろう。上から、この家ごと僕を見下ろしているのだから。
「白く、もっと白く」
彼女の好んだ色、白色。清潔感を持つこの色を、混じりけのないこの色を、彼女は好んだ。
白を求めて。
僕を求めて。
アイボリーの僕の髪。白にはなりきれなかったから彼女は帰ってこないのか。
「ただいま」
「!!」
僕は駆けた。大して距離もない廊下を、冷たく伸びるその床を素足で駆けた。
「おか、えり」
抱き着いて僕が彼女に言えば、沿っと頭に手が乗った。
「もう。暗くなったら電気点けないと」
蛇のようにまとわりつく、動くには相当邪魔だろう僕を、引き離しもせずにリビングのドアを開ける。
「ちゃんとご飯は食べてたんだね。偉い偉い」
「ん」
撫でられた頭がぽかぽかした。これは、君の手だから。君じゃなかったら僕は暖まらない。そんな思いを込めて、彼女の首に頭を押し付ける。
「はいはーい」
これでもかというほど僕が強く抱き締めて密着していると、彼女も抱き返してくれる。これは僕だけの幸せ。
「帰ってきた」
「ふふっ。寂しがり屋なんだから。ごめんね、一週間も家空けて」
彼女がソファに腰を下ろすから、僕は床に座って、胴と手を伸ばして腰に巻き付く。
「帰ってきた、からいい」
僕を撫でる手が、ずっと離れないなら、それでいい。離れたとしても必ず戻ってくるならそれでいい。
「そっか。……でもそれって辛くない?」
「辛くない」
どんな理由でも僕はいいんだ。ここに君がいるから、許せる。
「……あのね」
辛くないと言っているのに、優しい彼女は話し始める。ここを一週間離れたのは、僕を思っての事だった。
僕は人間じゃない。
家族もいない。
僕は『送り犬』。
人の後をつけて、家路を辿る妖怪。道中に転べば、その人間が僕の餌となった。
僕はあまり穏やかな犬ではない。断末魔のような叫び声を幾度となく聞いてきた。
――――自分の手によって、発せられるそれを。
その日も、ただ餌を求めて人の後をつけていた。普段と異なっていたのは、人を追う前に送り犬同士で喧嘩をして、右前脚と牙をいくつか折っていた事と全身が擦り傷となって体が血に塗れていたという事だ。
腹も減っていたから、僕は傷の痛みを意図的に忘れて目の前を歩く女の人に注意を向けていた。
女の人が、足をくじかせた。
転んだとまでは言えない。でも今僕は弱っているから……。
「バウッガアアアアアッ」
大口を開けて勢いよく女の人に飛びかかった。
「だ、大丈夫?」
女の人は驚き、怖がりながらも僕を抱き留めた。
力が出ていなかった。酷く怪我をしていたのだと、今更ながらに気が付いた。
「こんなに怪我したの……」
きらきらと光る水滴。後から聞くと、それは涙というらしい。
僕は未熟な妖怪で、特にその当時はまだ、この形で世に現れたばかり。『生きる』という事を何も知らない。
そんな僕を家に連れ帰って、世話をした。僕が人の姿で君の前に現れると、驚いてはいたが嫌がらず、すぐに受け入れてくれた。
それから僕は君の元で暮らして、君と共に生活を送った。
一週間、彼女の友達である、妖怪に詳しい人間を渡り歩き、僕を妖怪の中に戻してくれようとしていたらしい。
嫌い、だからではなく、人間と時間を過ごしすぎた妖怪はすぐに消滅してしまうと、その友達から聞いたのだという。
言うまでもなく僕は彼女の元を離れる気は無い。
「僕は、君を知ってるから」
君の優しさを理解している僕には、嬉しい事でしかないから。
「謝らない、で」
上手く言葉を喋る事は苦手だ。送り犬として生活していた僕は、吠えるくらいしかしなかった。
頭の中に沢山の感情が流れても、口に出すのは難しい。
そんな僕の足りない言葉でも、彼女は理解してくれる。
「ありがとう……」
君は僕を見て、初めて会った時と同じように、一筋、空に瞬く一番星のように、きらきらと輝く涙を流した。
僕が笑むと、彼女も笑む。
涙の混じった笑顔の下、安心した僕は、彼女の腰に巻き付いたまま、ゆっくりと目を閉じて、深い幸せの眠りについた。
ご愛読ありがとうございました。