第九話 時の激流
夜のニューヨークは光と喧騒の坩堝だった。だが、よく言われる人種の坩堝ではない。それは決して融けあうことはなく、明確に分かれて混在している。
芹沢が待ち合わせに指定されたナイトクラブに入ろうとすると、黒服に蝶ネクタイのいかつい男に呼び止められた。
「ここはチャイニーズはお断りだ」
東海岸に来てから何度繰り返したか分らない問答だ。
「ニエット。私はロシア人だ」
芹沢のロシア語に、男は面食らったようだ。その胸元に、折りたたんだ紙幣を突き付ける。
「肌の色なんて、暗くて分らなかったとでも言っておきな」
そのまま中へ入ると、ジャズと色彩と人の波が押し寄せてきた。ステージでは肌もあらわな女性が身をくねらせて踊っている。
見事に退廃的な文化だ。客は当然のように白人のみ。適度に落とされた照明の元、笑いさざめくそれらの顔が浮き出る。さして広くない店内だが、見回しても「ジョージ」の姿は見当たらなかった。
適当に空いている席に座ると、女性が歩み寄ってきた。ウェイトレスかと思い顔を上げると、ブルネットの髪の女性が、細巻きの煙草を手に立っていた。鮮やかな赤いドレスは、こちらで流行のシャネルという喪服のような黒とは対照的だった。肌の白さが際立つ。
「ここらでオリエンタルな紳士は珍しいわね」
ややハスキーな声で女は言った。
「紳士的でない白人なら珍しくはないがね」
女はクスリと笑った。紅の間から白い歯がこぼれる。
「面白い人ね。お爺様が興味を持つわけだわ」
女は、顔を寄せて名乗った。
「私の名はアビー。よろしくね、ミハイル・セリザワ」
逢瀬の相手としてなら、「ジョージ」とはくらべものもなかった。
芹沢は立ち上がると、女性の手を取って店を後にした。
老人は書斎の椅子に体を預け、目の前の東洋人を見つめた。そのそばには、彼の最愛の孫娘が寄り添っている。
「アビー、その若者が気に入ったのかね」
「ええ、とても」
アビーは頷いた。しかし青年の方は、静かな黒い瞳でこちらを見据えているだけだった。
「ミスター・ロックフェラー。私に御用がお有りとか」
物怖じしない青年の言葉は、いささか新鮮だった。実の息子ですら、こうはいかない。
「ミスター・セリザワ。なかなか興味深い経歴をお持ちのようだ」
手元の書類に目を落とす。
「今まで色々な国の人にあったが、日系ロシア人というのは初めてだ」
顔を上げると、書類を机の上に放り出す。
「まぁ、そんなことは食前酒のようなものだ。メインディッシュに取り掛かろう」
机に両肘を突き、組んだ両手の上に顔を乗せ、ジョン・ロックフェラーは言った。
「一緒に会社を作らんかね? 君の持つ技術は、非常に市場価値が高い」
「大恐慌の最中にですか」
芹沢は微笑んだ。老人も笑った。
「もちろん。ビジネスチャンスは、いつでもそこにあるものさ」
そう言うと、彼は右手を伸ばした。指の間の十セント硬貨が明りに照り映える。芹沢はそれを受け取ると、そこに刻まれた文字を読み上げた。
「E pluribus unum」
多数からなる一つ。なかなかいい響きだ。どことなく、共産主義的ですらあるではないか。
「やりましょう」
芹沢は老人の手を握りしめた。
肇の元に、二つの朗報が届いた。
仁科からはトリウム熔融塩炉、初号機の完成の報告。肇が仁科に合うため向かったのは、同じ日立でも前回と異なる施設だった。門柱には「日立第一発電所」の銘が掘られている。しかし、立ち並ぶ建物の煙突からは、石炭火力の黒い煙は全く見られない。
それらの建物の内、一番奥まったところで、仁科は肇を出迎えた。
「初号機から発電まで行うとは思ってもみませんでした」
開口一番、肇は言った。破顔して答える仁科。
「苦肉の策です。基本設計の時点で、大型化して熱量が増えたため、水冷にするしかなくて。そうしたら、発生する水蒸気が膨大で、発電でもしないと悪目立ちしてしまいます。ちょうど、新型の発電用蒸気タービンを日立が完成させたところでしたし」
仁科によれば、意外にも一番てこずったのは、八百度もの高温で水蒸気を発生させる仕組みだったと言う。
「熔融塩は四百数十度で固まってしまいますからね。一方、水は百度で沸騰します。両方液体のまま熱を伝えるのに苦労しました」
結局、蒸気タービンの復水器から出た水を加圧して、再加熱して蒸気発生器に送り込むことで解決したと言う。圧力を加えることで、水の沸点が上がることを利用するわけだ。再加熱には、発生した蒸気の一部を使う。この仕組みは、後の海底軍艦でも引き継がれるはずだ。
この発電所は既に電力網に配電されている。定格出力は二万キロワット。一基目としてはかなりなものだった。単なる技術研究に留まらず、実利も生み出していくのがI計画で見られる特徴だった。
ウランを使って始めた零号機の稼働から、もう二年が経っていた。これからはトリウムだけで原子燃料がどんどん作られていく。すでに二号機の建設も始まっていた。
もう一つは電子計算機だった。
「とろん?」
説明を担当した東京電気の若い研究員に、肇は聞きなおした。
「はい、論理を砥ぎすます、と書いて砥論です」
あの電子ソロバンが進化した究極の姿だ。最大の違いは、計算の手順をあらかじめ決めておけば、数値を入れ替えながら何度でも繰り返すことができる点だという。
「この計算の手順を算譜と呼んでます。囲碁将棋の棋譜に似てますので」
この算譜と、計算のもとになる数値、計算結果。こうした情報はすべて磁性帯に記録され、自由に入れ替えることができる。これらは自在に加工して利用できるので、資源と呼ばれた。
「で、これらを管理するための算譜が必要になりまして。統合資源操作算譜と呼びます」
「長いね」
研究員は苦笑した。
「はい。ちなみに、英語で書くとこうなります」
Total Resouce Operation Numeric-code
「これの頭文字を取ると、TRONとなります」
「ふーむ。電子の英名、エレクトロンとも語呂が合いますね」
肇は目の前のキャビネットを見上げた。高さ二メートル、幅一メートルの金属製の箱で、磁性帯のオープンリールが回転し、多数のライトが瞬いていた。その内部には真空管はほとんどなく、半導体による電子回路がぎっしりと詰まっている。
その前に置かれた机には、テレタイプライターに似た装置が載っていた。
「この制御卓で砥論に指示を与え、さまざまな計算処理をさせることができます」
研究員は椅子に座ると、制御卓の打鍵盤の上に指を走らせた。同時に、機械の細い口から文字が印字された紙が吐き出される。
「こうして指示を単語で与えるようにしたので、訓練が随分短縮できました」
「お、日本語も使えるんですね」
印字された文字には、平仮名と片仮名の単語も見られた。
「はい、漢字はまだ無理ですが、打鍵盤は日本語用に改造しています」
見ると、一つの釦には、英字に加えて平仮名が二つずつ刻印されていた。
「この手前にある切替え釦で、どの文字が出るかが変わります」
実演して見せてくれた。切替え釦は親指で押すようだ。
「最近は、報告書もこれで作っちゃってます。結構、便利なんですよ」
何度でも書き直しができて、清書釦一発で綺麗に印字される。これは素晴らしい。うちにも欲しいくらいだ。
「用途はやはり、暗号文ですか」
研究員は頷いた。
「一応、軍用ということで予算をいただいているので」
了によると、日本軍の暗号はかなり早い段階でアメリカに解読されていたという。そもそも、手計算で暗号化できる単純な仕組みでは、限界がある。だが、膨大な乱数表を磁性帯に記録すれば、解読はほとんど不可能になる。
「しかし、これだけのものを各国の拠点に置くのは大変ですね」
肇の言葉に、研究員はにこやかに答えた。
「そのうち小さくなりますよ。トランクケースに入るくらいには」
次に、ため息をついて一言。
「軍事秘密でなければ、もっと普及するんでしょうけどねぇ」
了はしばらく考え込んでから言った。
(七年間でコンピュータとはな)
「コンピュータ?」
(電子計算機のこちらでの呼び名だ。アメリカで生まれたんでな)
「また、こちらが先取りですか」
(二十年……いや、それ以上か)
トリウム熔融塩炉と電子計算機。了の計画に必要な要素は、思いのほか早く揃いそうだ。
「ただ、気になることがあって」
東京電気で聞いた話だが、同社が民生用に売り出した磁性帯蓄音機の売り上げが落ちているらしい。
「舶来品で、もっと音質のいい製品が入ってきているようです」
(芹沢だ)
了は断言した。
(彼が動き出したに違いない)
ジョン&ミハイルカンパニーは、ロックフェラーセンターの一角にオフィスを持つ新興企業だった。
「社長」
書類の束を抱えて入ってきた男は、上司に声をかけた。
芹沢は手にしていたレポートから顔を上げた。
「ジョージ、どうしたね?」
「おっしゃる通り、日本への輸出を強化したところ、現在シェアは八十パーセントを越えました」
「当然だな」
芹沢はロックフェラーの知名度と自ら集めた資本力にものを言わせて、失職中の全米の研究者を独占し、I資料をベースに研究開発を進めた。その結果生まれたのがバイポーラ・トランジスタだ。日本で肇たちが実用化した電界効果トランジスタは、コンピュータが必要とするデジタル処理には向いていたが、従来の真空管が得意とした微弱な電気信号の増幅というアナログ処理の用途には不向きだった。バイポーラ・トランジスタはその代替であり、テープレコーダーの音質と音量を飛躍的に高めることに役立った。
しかし、これからが本番だった。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
アビー・ロックフェラー
【実在】ジョン・ロックフェラーの孫娘。
本編では芹沢の妻となる。奔放な性格。
この当時、史実では既婚です(突っ込まないで)。
ジョン・ロックフェラー
【実在】石油王と言われたアメリカの大富豪。
本編では、芹沢に出資してジョン&ミハイルカンパニー(略称:JM社)を設立する。
次回 第十話 「租界の闇」