第八話 原子の火
肇が犬養毅総理大臣の暗殺を知ったのは、翌朝、五月十六日月曜日の朝刊だった。その夜、了との定時連絡で、肇は噛みついた。どうして事前に教えてくれなかったのか、と。
(教えたとして、君はどうした?)
「助ける!」
率直に答えた。あの陛下の一筆があれば、総理だろうと誰だろうと面会は可能だ。暗殺の企てがあると告げれば、警備を増やしたり、よそへ避難することもできただろう。
(そのあとで、君はどうなる?)
「どうって……」
そこまでは考えていなかった。当然ながら、肇は取り調べを受けるだろう。しかし、暗殺計画をどうやって知ったのか、説明は困難だ。未来との通信など、精神異常を疑われても仕方がない。良くても反乱一味の仲間と思われるだけだ。
どのみち、I計画はそこでとん挫してしまう。
今の肇には、守るものがあった。この国の、世界の将来。その一部である、娘の光代、妻の由美。
このまま放置すれば、十数年後に日本はアメリカに破れ、東京は焼け野原になると、了は言う。その時、由美や光代がどうなるか。了に諭され、肇はうなだれるしかなかった。
「それでも……」
肇は食い下がった。
「今度、こんな事件があるなら、事前に教えてください。何も知らないで巻き込まれるのは嫌です」
しばらくの沈黙ののち、了は承諾した。
肇は仁科博士に確認した。
「では、トリウムだけでは原子力は得られないということですね?」
ここは理研の仁科特別研究所。核分裂の発見により、長岡研究室から独立して設けられた。当然ながら、その存在も研究内容も極秘となっている。紅葉が舞い落ちる研究所の門には、名前すら書かれていない。
仁科芳雄は答えた。
「そうなります。トリウムを燃料にするとしても、実際に核分裂反応を起こすのはウラン233で、これはトリウムが中性子を吸収して生じます。天然には存在しません。つまり、最初に何らかの方法で核反応を起こし、中性子を発生させなければ、トリウムは燃料になりません」
仁科は黒板に図を描きながら説明を続けた。
「そこで、かわりにウランを使った原子炉を考えました。ウラン鉱石には核分裂を起こすウラン235がわずかに含まれていますから」
肇は、了の言葉を思い出した。ウランは原子爆弾の材料にもなるから、出来るだけ排除すべきである、と。
「トリウムではだめですか」
仁科は眼鏡をかけなおして言った。
「大丈夫。考えがあります」
自信ありげだった。
翌年の冬。石動は茨城県日立町の工場を訪れた。
入り口で仁科が用意した紹介状を見せると、広い敷地の一角にある比較的小さな建屋に案内された。その入り口には髑髏のマークが描かれていた。毒物の意味だ。
「人除けには最適でしょう」
仁科は笑って言った。
「まぁ、放射線のことを考えると、まんざら嘘とも言えませんけどね」
さらりと言ってのける。
「その辺はどうなんですか?」
さすがに気になった。了も放射線の危険性は厳重に注意が必要だと言っていたからだ。
「今日までは気にするほどではないですね。I資料によるならば」
I資料の増補版、原子力開発の手引きの方だ。
肇は部屋を見回した。どう見ても普通の事務室にしか見えない。
仁科は奥のドアに肇をいざなった。
「これが、昨日までの主役です」
仁科がドアを開けて手で示したのは、延々と奥へと続く廊下のような部屋だった。入口のある正面からは想像もつかなかった広がりだ。その右側は通路のような空間となっていて、左側には巨大な円筒型の装置が奥に向かって立ち並んでいた。奥に向かって歩きながら、仁科は説明した。
「核燃料になるウラン235は、燃料にならないウラン238よりわずかに比重が軽い。これを利用して、これらの遠心分離機で少しずつ235の濃度を高めていきます。天然では〇.七%だった235を最終的には二%にしました」
「凄い数の遠心分離機ですね。ここの工場で作ったのですか?」
仁科は頷いた。
「はい。工場は元からあったので、生産品目に加えてもらいました。これだけ作るのに半年かかりました。もっとも、工員たちは何に使うものか知らなかったでしょう」
単純だが、機密保持には有効なのだろう。
「そして次は、これらの装置を使った濃縮作業です。これも、必要な量が得られるまでに半年かかりました」
「朝鮮半島のウラン鉱山が見つかって、何よりでしたね」
肇は、この計画の初期に必死に書き取った地下資源の地図を思い出した。あの中にウラン鉱脈の座標がいくつかあった。一つは内地の人形峠だが、これは量が少なすぎた。もう一つは朝鮮半島の北部で、驚いたことに、了によるとこちらは世界最大規模の鉱床だという。これで、原材料には事欠かなくなった。
歩いて行った突きあたりには、再びドアがあった。
「さて、ようやく今日の主役です」
ドアの横には、電子ソロバンのような釦があった。仁科が釦をいくつか押す。光は点らないが、押し終わるとブザーが鳴り、ドアノブからガチャッという音がした。暗証番号式の鍵だ。
「お入りください」
そこは天井の高い広い部屋だった。コンクリート打ち放しで、かなり寒々しい。その中央にもう一つ、コンクリートの建物が築かれていた。四方には小さな窓があり、そこから太い配管が二本、屋外に延びている。その周囲には作業員が何名か働いていた。
「零号機原子炉です。正確には、その格納容器ですね」
「これが……」
肇は原子炉の近くまで歩み寄り、その外壁に触れようとしてためらった。
「大丈夫です。今はまだ稼働してません」
仁科に言われて、壁に触れてみる。ほんのりと温かい。
「内部は摂氏五百度に保たれてます」
「随分な高温ですね」
「さもないと、熔融塩が固まってしまいますから」
溶融塩とは、I資料にもあった名前だ。塩には食塩、すなわち塩化ナトリウムをはじめ、いくつかの種類がある。これらは室温では固体だが、数百度に加熱すると水のようにサラサラとした透明な液体、熔融塩になる。また、この液体は水のように様々な物質を溶かし込む。
ここで使われる熔融塩は、I資料でフリーベと呼ばれている種類のものだ。塩素の代わりにフッ素、ナトリウムの代わりにリチウムとベリリウムという物質からなる塩類だ。フッ素のF、リチウムのLi、ベリリウムのBeという元素記号を組み合わせてFLiBeと読ませる。
「この熔融塩に、先ほどの遠心分離器の列でウラン235の濃度を高めたウランを溶け込ませたものが、あそこに入っています」
先ほど格納容器と呼んだコンクリートの箱に開けられた小さな窓を覗き込んで、仁科は言った。肇もそこから中を覗く。
格納容器の中には、向かって左側に金属製のタンクが支柱に支えられて立っていた。その上部と下部からはパイプが伸びていて、それぞれいくつかの装置を通って右側に立つ円筒につながっていた。
「左側のタンクのような容器が、原子炉の本体です。我々は炉心と呼んでます。特殊な耐熱・耐腐食合金でできています」
「炉心は何度ぐらいになるんですか」
「この零号機では七百度程度ですが、将来的には千度以上を目標にしています」
I資料の受け売りだが、確か鋼鉄もその温度では飴細工のように曲がってしまうはずだ。
「あの炉心で核反応を起こした熔融塩は、炉の上から出ているパイプを通って右側の冷却塔に行きます。そこで冷やされて炉心へ戻ります」
意外と、仕組みは単純なようだ。
「では、稼働させましょう」
仁科は傍らの作業員に向かって目配せした。肇は、作業員のある共通点に気づいた。
作業員は、壁際にある操作卓に近づき、大きなレバーを上に倒した。
「ご覧を」
仁科が示す覗き窓から見ると、炉心と呼ばれたタンクの上部から円柱が伸び上って来た。
「あれが制御棒です。中性子を吸収しやすい物質でできていて、あれが炉心に挿入されている間は核反応が停止します」
操作卓の上にある大きな計器を、仁科は指さした。温度計らしい。五百度を指していた針がゆっくりと動き出し、七百度のあたりで停止した。
「稼働成功です」
同時に、部屋のどこからかラジオのノイズのような音が響いてきた。
「あれは?」
「ガイガー計数管です。微量ですが、格納容器から放射線が出てますので」
思わず首をすくめた肇に、仁科は笑いながら言った。
「ここは作業員に任せて、我々は戻りましょう」
長い通路を戻るとき、肇はようやく気付いた。
「ひょっとして、作業員が皆、高齢なのは……」
「はい、I資料にあった、放射線障害による発癌率上昇への対策です。放射線を浴びると十年二十年後に癌になる率が上がる。しかし、高齢者ならその前に大往生ですからね」
「あの方たちはそのことを?」
「もちろん、説明しています。それに、退職後の十分な年金と、万一死亡した場合の遺族年金も、充分な額を用意しています」
至れり尽くせりだ。
「それで、現在はウランを燃料にしていますが、今後は少しずつトリウムを加えていきます。私の計算では、二年目に入ると当初のウラン235は全部燃え尽きて、あとはトリウムから生じたウラン233が中心になるはずです。そうなったら」
仁科は破顔一笑した。
「いよいよ、初号機の建造です」
その日の夜の定時連絡で、肇は了に零号機原子炉見学の報告をした。
(驚いたものだ)
「予想以上の進展?」
(そんなレベルじゃない、驚異的だ)
「年数にして、どれくらいの先取り?」
(アメリカがトリウム熔融塩炉を建設したのは、一九六〇年代。二十年以上だ)
これには肇も驚いた。
(ここまで来るには、もっと直接的なアドバイスが必要だと思っていた。しかし、I資料の簡単なガイダンスでここまで来るとは)
しばらく了は沈黙した。
(肇)
「なんですか」
(どうやら私たち未来の人間は、君たちの時代の人間を侮っていたようだ。済まない)
そう言われると、悪い気はしなかった。だが、次の了の言葉は意外だった。
(これは大問題だ)
「何がです?」
次の了の言葉は、肇に冷水を浴びせた。
(芹沢良一だよ。彼が何を成し遂げるのか、私は心底恐ろしい)
芹沢良一はボストンにいた。初夏の光の中、昔からの古風な街並みの中に摩天楼がそびえる光景は、なかなかの壮観ではある。今、彼は緑あふれる公園のベンチに座り、栗鼠にピーナッツの屑を与えていた。次第に近くにまで寄って来て、頬張れるだけ詰め込んでは逃げ去る。動物はいい。無心に生きるその姿は純粋だ。そう、節子が目指していたのも、そんな世界なのではなかったか。
暖かい日差しに包まれ、そんなことをぼんやりと考えていた。今の自分は、アメリカ中にいる失業者とたいして変わらない。ソビエトからの資金援助はあるが、潤沢とはいえなかった。しかし、質素な暮らしはむしろ慣れている。そう、節子と一緒だった頃のように。
「ミスター・セリザワ」
取り留めもない思索は、白人男性の声で破られた。
「私のことはジョージとお呼びください」
当然、偽名だろう。
「とある資産家が、あなたが行われていたプロジェクトに関心をお持ちです」
「なるほど」
アメリカ人のこうした単刀直入な態度は嫌いではない。西海岸を離れてから二年、全米を回って様々な企業や大学に顔を出し、種を撒いてきた甲斐があったようだ。
「よろしければ、彼の元にご案内します」
芹沢は男の顔を見据えた。サングラスに自分の顔が映った。
「その方の名前を伺ってもよろしいか?」
男はニヤリと笑って告げた。石油王と呼ばれたその名。
芹沢は笑いをこらえるのに苦労した。共産主義者の自分を、資本主義の頂点に立つ男が支援するというのだ。
良いだろう。思う存分、利用させてもらおうではないか。
実在する人物には【実在】としています。
ジョージ
本名、生年月日不詳。
大柄な白人男性。とある大富豪の命を受け、芹沢と接触する。
次回 第九話 「時の激流」