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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第四部
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第二話 南海と烈風

第二話 南海と烈風


 昭和十八年九月末。

 抜けるような秋空の下、肇は広大な埋立地にある滑走路の脇に佇んでいた。見上げると上空には数機の零戦が舞っている。自分が乗らずに済むのなら、航空機も悪くない。

 横須賀海軍航空隊、通称「横空」は、海軍で最初に編成された航空部隊である。その主任務は搭乗員の教育と戦技研究、そして新型機の実用試験だが、有事には帝都の防空も担当する。開戦後初頭のドゥーリットル爆撃では、この追浜飛行場から飛び立った零戦の奮闘で、その全機を撃墜した。

 今、その滑走路から一機の戦闘機が飛び立った。胴体下部からの主翼が途中から反り上がる逆ガル翼が特徴で、試作機のため橙色の目立つ塗装になっている。試作A7M1、愛称は「烈風」であった。

 零戦よりも一回り大きな機体は、この夏にようやく完成した発動機、ハ四三の大出力で大空に駆け上がって行く。そのまま反転・反捻りでインメルマン旋回を決めると、水平飛行に入り増速し、速度計測のポールを飛び越す。計測官が叫んだ。

「速度三百十四ノット!」

 時速六百キロ。速度の出にくい低高度でも、初期型の彩雲を上回る高速性だ。その直後、機体を大きく傾けて急旋回に入る。高速にも関わらず小さな半径で機首を巡らすと、今度は急上昇。数分後、再び計測官が声を上げた。

「高度六千メートルまで五分三十秒」

 改良された最新の零戦でも六分はかかる。大幅な進歩だ。

 再び水平飛行に入り、エンジン音がさらに高まった。

「速度三百四十ノット!」

 およそ、時速六百四十キロ。空気抵抗の少ない高空での最高速度では、米軍のグラマンF6Fヘルキャットを大きく凌いだ。

「凄い」

 思わず呟く肇の横に、眼鏡を掛けた細面の男が立った。歳は肇と同じくらい。

「発動機と空戦補助翼のおかげです」

 三菱の設計課長、堀越二郎。零戦を始め、この烈風など数々の名機を手掛けた技師だ。

 肇と並んで見上げる青空で、その烈風は宙返りや急旋回を繰り返した。離れた場所で訓練中らしい零戦と見比べると、明らかに飛び方が違っていた。機体性能だけでなく、搭乗員の技量にも差があるのだろう。

「中島飛行機の糸川さんにはお世話になりました」

 堀越の言葉に、肇は頷いた。これほどの高速でも小回りが利くのは、自動空戦補助翼のおかげだった。糸川英夫の手で完成した、烈風の極秘装備である。

 しかし、糸川の担当していたあの特別な機体が、この企業間協力のために完成が遅れている。I計画の要となるものだけに、肇としては苦いものがあった。しかし、大空を自在に舞う烈風を見ると、そんな気持ちも吹き飛ぶ。I計画が完遂する前に敗戦となっては元も子もないのだから、これは必要な遠回りだとみなすしかない。

 肇は堀越に向き直ると言った。

「まさに、零戦の再来ですね」

 速力と空戦性能という相反する性能を追求した結果だ。グラマンに凌駕された機体性能が、これでまた覆る。

 堀越は静かに答えた。

「その分、航続距離が犠牲になってますが」

 タンクの内側にゴムを貼るなどの防弾装備のためだが、搭乗員の命には代えられない。装甲空母武蔵を中継基地としたアウトレンジ戦略を取れば、その点は補ってお釣りが来るくらいだ。

 その時、計測官が告げた。

「降下限界速度の計測に入ります」

 堀越の顔に緊張が走り、上空を旋回する烈風を鋭く睨んだ。設計強度の限界まで速度が出る急降下は、大きな危険の伴う試験となる。極限まで軽量化した零戦の開発では、この試験で何人もの試験搭乗員が殉職していた。

 やがて、橙色の機体は旋回をやめ、急角度で大地を目指して突入していった。二人の脇に置かれた無線機から、搭乗員の読み上げる速度計の値が流れる。

「大気速度、三百五十ノット……四百ノット」

 改良を重ねた零戦での限界速度だった。それでもまだ、烈風は持ちこたえた。

「四百二十……四百三十……振動発生!」

 機体が引き起こされ、急降下は終わった。堀越が安堵のため息をつく。初期型の零戦より百ノット近く向上していた。

「何度立ち会っても、これは堪えます」

 眼鏡を外し、額と鼻の冷や汗をハンケチで拭う。

「確かに」

 肇も同意した。海底軍艦の試験航海で最初に行うのが、限界深度への潜航だった。船殻が圧縮されるあの音は、決して慣れることはない。

 やがて機体は高度を下げ、滑走路に軽やかに降り立った。

「搭乗員をねぎらってあげましょう」

 そう言った堀越の後に続いて、肇も烈風へと滑走路を歩き出した。

 二人が機体にたどり着くと、整備兵の手を借りて搭乗員が降りて来るところだった。飛行帽を脱ぐと、右目は黒い眼帯に覆われていた。

「お、今日のお客さんは二人か」

 二十代後半の搭乗員は、砕けた口調で声を掛けてきた。堀越が名乗ると、敬礼して彼も名乗った。

「坂井三郎飛曹長であります。いやぁ、こいつの生みの親でしたか。良く仕上がってますよ」

 続けて肇が名乗ろうとすると、突如、坂井は二人の肩越しに背後へ向かって怒声を上げた。

「馬鹿野郎! なんだその着陸は!」

 肇が振り返ると、零戦が一機、隣の滑走路に背後から着陸してきていた。こちらは空母への着艦訓練だったらしく、滑走路上に張られた制動索に機尾のフックを引っ掛けたは良いものの、その後機体が浮き上がってしまい、ドスンと落下する形で着地となった。

 坂井は零戦に駆け寄ると、搭乗していた訓練生を引きずり出して殴り出した。これには肇も驚き、駆け寄って声を掛けた。

「坂井飛曹長、いくらなんでもそれは」

 肇の方に向き直ると、坂井は怒鳴った。

「俺たちが操縦桿を握るときは、いつだって戦場だ。戦場でヘマをこいた奴は、自分ばかりか仲間も殺す。こんな着地で主脚を折ったら、後に続く者はどうなる? 俺は今まで、自分の乗機を壊したことはない」

 確かにそうかもしれないが、訓練生は鼻血まみれだ。

「だからと言って殴ることは」

 肇の言葉に坂井は反駁した。

「こいつは俺の教え子だ! 何度教えても上達しないなら、体に教え込むしかない」

 さらに殴ろうとするので、思い余って肇は右手を取った。訓練生を放り出すと、坂井は怒りに燃えて左の拳を肇に繰り出す。肇は体を捻ってかわしながら相手の右背後に回り込み、掴んだ右手を捩じりあげた。そのまま地面に組み伏せる。

「畜生! 誰なんだ、あんたは?」

 改めて問われると返答に困る肇だった。

「ただの技術屋です。それより、貴方もこの訓練生も、命を陛下に捧げた身ではないですか。それを身内の暴力で傷つけることは、戦場でヘマをするのと同じなのでは?」

 肇の言葉に、坂井はぐっと詰まった。

「わかった……放してくれ」

 二人が立ち上がると、堀越が歩み寄ってきて坂井に声を掛けた。

「坂井さん、こちらは石動肇さん、三菱の技術顧問です」

 堀越に名乗っていた肩書だった。なるほど、この場では一番ふさわしいだろう。だが、坂井は納得でき無いようだった。

「実家が古武術の道場だったので」

 肇の説明にも疑わし気だ。そこで、堀越が付け加える。

「烈風や零戦、彩雲の開発にも力を貸していただいてます」

 坂井の表情が変わった。

「彩雲か……あれには命を救われた」

 足元で訓練生が呻く。肇が手を貸して起こした。

「手当が必要ですね。医務室へ」

 訓練生に肩を貸して基地の建物に向かう間、隣を歩く坂井は自分が負傷した時のことを話した。

「あれは、ラエからオーエンスタンリー山脈を越えて、ポートモレスビー空爆隊を援護した時だ。帰り際にF6Fの急襲を受けて右頭部に一発くらってしまった」

 右の眼帯を指さす。

「それでこれだ。出血も酷く、何度も意識を失った。そのせいで帰路を見失い、ソロモン海を東に向かってさまよっていたところを、ラバウルからの彩雲が見つけてくれた」

 零戦をも凌ぐ航続距離があればこその捜索であった。

「彩雲がなかったら、俺はそのまま海の藻屑だったろう。なら、あんたは命の恩人の一人だな。済まなかった」

 粗暴な反面、非を認める潔さはあったようだ。

「ラエですか……山本閣下が亡くなられた頃でしょうか」

 歴史の揺り戻しで、防げなかった出来事だ。肇の問いに、坂井は頷いた。

「その少し前だ。俺が内地に送られてから、さらに厳しくなっているらしい。戻ってくるのは怪我人と死人ばかりだ」

 バシッと、右拳を左の掌に叩きつける。

「この烈風で、仲間の仇を撃たなけりゃな」

 隻眼になっても戦意旺盛なのは、吉とすべきだろうか。

 そんなことを思い巡らす肇の横で、堀越二郎がつぶやいた。

「零戦より扱いやすい烈風なら、多少技量が低くても十分戦えるはずです」

 それは、ベテラン搭乗員から失われていく、今までの悪循環を断ち切ることになるのかもしれない。肩を貸している名も知らぬ訓練兵を見ながら、肇は思うのだった。


 赤道直下のラバウルの港は、十月に入っても暑さに変化はなかった。火山灰で煙る空を貫く容赦ない日射による汗は、慣れでどうにかなるレベルではない。南雲忠一は今日も、汗拭きと火山灰避けの二本の手拭いを持って、港を訪れていた。禿頭には帽子も欠かせない。

 来港した補給艦隊では、先日サイパンを経由して飛来した補充戦闘機に関連するものから受け入れが始まった。最新鋭の戦闘機、烈風のものである。重要なのは補給物資、特に整備用の部品であり、新型機の整備を指導する技術士官であった。

 入港した補給艦のタラップの下で、南雲は帽子を脱いで側近二人と共に彼らを出迎える。

「私がラバウルの基地司令、南雲忠一です。よくぞおいでくださいました」

 一同は目を丸くした。尉官クラスでしかない自分らに、頭を下げる中将など聞いたこともない。

「ここラバウルでは、戦闘以外での未帰還機なしを目標にしております。内地からこれだけ離れれば、補給に時間も労力もかかります。故障や事故で失われる戦力を放置すれば、戦わずして戦力が損耗してしまいます。そんなことでは、兵士の命を預かる陛下に申し訳が立ちません」

 整列した一人一人の手を握りながら、南雲は語り掛けた。迎えの車で彼らが基地に向かうと側近の一人が告げた。

「南雲閣下、この後の予定ですが。先ほどの伝令で、昼に会食予定だった龍驤の艦長が体調不良だとのことです」

「それはいかんな」

 赤道越えの長旅は地味に体力を消耗する。初戦の真珠湾攻撃を除けば南方での作戦ばかりだった南雲には、他人事とは思えなかった。

「夕方にでもお見舞いに伺うことにしよう」

 予定の変更を告げると、側近は懐から予定表を取り出し確認した。昼は側近たちと港で簡単に取ることにしたので、小一時間ほど空きが出来た。

「久しぶりに、港を見回ってみるか」

 要は散策である。忙中閑あり。多忙な基地司令にとっての、ちょっとした贅沢だ。荷卸しの進む輸送船を何隻か、傍らを通り過ぎた時だった。

 波止場の一角、通りの向かいの海側に、椰子の木が何本か生えていた。その木陰に、数名の若い女性たちが身を寄せ合うようにしてうずくまっている。年の頃は二十歳前後、中には十五ぐらいにしか見えない娘もいた。皆、荷物と言えば柳行李一つで、所在無げに不安な面持ちだった。

「慰安婦ですね。内地から着いたばかりなのでしょう」

 側近の一人が南雲に告げた。国に残してきた長女の仙子より年若い娘たちだ。ラバウルへ赴任する前、鎌倉の自宅で久しぶりに家族と過ごした日々が脳裏によみがえる。

「ほら、あんたたち。さっさと立ちなさい。まごついてる暇はないよ」

 南雲の背後から、若い張りのある女の声が響いた。振り向くと、麦藁帽子を被った女が、通りを渡って木陰の娘たちに歩み寄るところだった。

「あたしのことは『おゆき』と呼んで。これから、軍医の先生にあんたらの検査をしてもらうからね。その後で寝場所を決めて食事して、仕事は明日から」

 戸惑いながらも立ち上がる娘たちをせかして、おゆきと名乗る女はラバウルの市街へと歩み去って行った。南雲らの脇を通るとき、女はちらりとこちらを振り向いた。強気な口調とは裏腹に、その面差しは二十歳前後、あの娘たちと大差ないと見て取れた。

 南雲は側近に尋ねた。

「このラバウルに慰安婦は何人くらいおるかな」

 意外な問いかけに、側近は目を丸くした。

「数はさほど居ないはずですが」

 慰安所は市街にかなりの数があるようだった。

「あの娘らの様子が気になるな」

 酒豪で知られる南雲だが、若いころは芸者遊びも盛んだった。基地に十人も押しかけてきて問題になったこともある。そうして知り合った女たちには、貧困から女衒に売られてこの仕事に就いたものも多かった。先ほどの娘たちの寄る辺ない姿は、そんな境遇を思い起こさせた。

「軍医が検査すると言うことは、軍も関与していると言うことだな?」

 戸惑いながらも、側近は同意した。

「利用した兵士が病気になっては困りますし。慰安所の設置許可など管理はしています。慰安婦を載せるのも軍の輸送船です。それに」

 側近はしばし考えて続けた。

「戦闘が激化した拠点では、慰安婦を看護婦として採用する場合もあるようです」

 うむ、と唸って南雲は呟いた。

「洋上の艦隊勤務では把握できない、陸の事情だな」

 あの娘らも、基地司令の南雲の庇護下にあると言うことだ。

「慰安婦の処遇に不備がないか、調査が必要だ。手配を頼む」

 意外な指示に側近は驚いたが、従うしかなかった。


「ここへ来るのは四ヶ月ぶりか」

 肇は横浜の第六船渠を見下ろして呟いた。海水を満たした船渠に浮かぶ「くしなだ」は、今回の改装で大きく外見が変わっていた。司令塔が延長され、艦の中央近くまで達している。

「ようやく、第一次改装が完了です」

 平賀譲が告げた。その後で酷く咳き込んだので、肇は気になった。

「大丈夫ですか?」

「いやなに、喉も歳を取るものですな」

「突貫工事でしたから、疲れがたまったのでは」

 本人は否定しているが、声の張りもなく、健康状態が優れているとは思えなかった。

「これで『くしなだ』も復帰できます。十分に休んで、体調を整えてください」

 肇の気づかいに、平賀は頷いた。

「そうですな、これから第二次改修もあることですし。しばらくは自宅で菊でも愛でておりますわ」

 平賀は菊の愛好家で、自宅の庭には千二百鉢も育てていた。品評会で何度も受賞するなど、評価も高い。

「それが良いですね。今度、拝見しに伺います」

 そう言うと、肇は再び「くしなだ」に目を向けた。拡張された司令塔の後部には、今後の戦略を変えてしまう兵器が搭載される予定だ。それが完成するまではまだ日数がかかるが、まずは海底艦隊の補給母艦として復帰してもらわなければ。

 平賀が言った。

「新型原子炉のおかげで、むしろ速力は増すはずです。今まで以上に活躍するでしょう」

 そうであって欲しいと願う肇だった。


 十月末日の未明、「くしなだ」はパナマ湾の「くろしお」に補給を行うために出航した。同日、「くろしお」級の三、四番艦である、「あさしお」「ゆうしお」も就役した。

 喜ばしい知らせとは別に、その日の夕刻、肇は平賀譲の訃報を受けた。菊を見せてもらうという約束は叶わなかった。

 その夜の定時連絡で、了は言った。

(歴史改変も、病魔には勝てなかったか)

「では、そちらの歴史でも?」

 肇の問いに、了は答えた。

(今年の二月に亡くなるはずだった。むしろ長らえたと言うべきか)

 了の世界の平賀は、晩年、現場を離れ東京帝大の総長に就いたと言う。こちらでは最後まで現場に留まった分、活力が病の進行を抑えたのかもしれない。

 平賀の棺は、彼が育てた菊で満たされた。幼いころから平賀に可愛がられた光代は、献花の際に泣き崩れてしまった。

 そんな娘の悲嘆を前に、故人の冥福を祈りつつも、今後の計画への影響を考えずにはおれない肇であった。第二次改装の設計は終わっていたが、工事の指揮を執る担当者が欠けてしまった。秋津技師長は造船が専門ではないため、荷が重いだろう。

 一方、南海では再び戦火が強まってきた。ポートモレスビーからの空爆にさらされ疲弊していたラエが、米豪連合軍に落されたのだ。フィリピン撤退からひたすら戦力を備蓄してきたダグラス・マッカーサー陸軍大将が、ついに動いたのだった。


登場人物紹介


実在する人物には【実在】としています。


堀越二郎

【実在】三菱の設計課長。

零戦、彩雲、烈風の生みの親。


坂井三郎

【実在】階級は飛曹長。

歴戦の零戦パイロット。通称「大空のサムライ」。


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