第一話 火山と基地
ラバウルの朝は、火山灰との戦いで始まる。
ニューギニア島のラエが風光明媚な南国の町なのに対し、ソロモン海を挟んだニューブリテン島の活火山である花吹山(現地語名:タブルブル火山)に臨むラバウルは、青空も火山灰で霞んでいた。
そのため、滑走路に並ぶ機体は一晩で灰を被って真っ白になってしまう。それをヤシの葉を束ねた簡単な箒で払うのが、ラバウル航空隊の朝の風景だった。
ある朝、大島弥太郎二等整備兵は、整備担当の彩雲の火山灰を払うため、眠い目で滑走路に出た。すると、見慣れぬ老人が翼に何か棒状のものを押し当てているいるではないか。
「誰だ貴様は!」
大声で誰何すると、その老人はヤシの葉の箒を地面に付き、非の打ち所がない敬礼で名乗った。
「南雲忠一であります。朝早くのお勤め、ご苦労であります」
よくよく見れば、そのいかつい顔は先日着任した航空隊司令ではないか。
「し、失礼仕りました!」
敬礼したまま固まる大島二等兵に、南雲中将は歩み寄って小声で問うた。
「ところで、どうも少し箒で掃くたびに喉をやられていかんのだが、貴官は日ごろ、どうしている?」
恐縮しきった二等兵だが、辛うじて何と答えるべきかは見つかった。
「こ、このようなものを口元に巻いてですね……」
何日前に洗ったのかわからない手拭いを口元に巻く。防塵マスクの代わりだった。
「なるほど、こうかな?」
南雲も自ら腰の手拭いを口元に巻く。
「いえ、鼻も塞ぎませんとえらいことに」
と、南雲の手拭いを鼻にも掛ける。
「うむ、ではやろうか」
南雲は目で微笑んだ。日が高くなるまで、二人は滑走路に並ぶ彩雲から灰を払った。
その日の作戦会議で、南雲は告げた。
「本航空隊の戦果を増すには、機体整備の状況改善が必要かと思うが、貴君らの考えを聞きたい」
会議室にどよめきが起こった。整備などは作戦の前の話であり、この会議で取り上げるものではないと考えられていたのだ。しかしこれは、空母で源田航空参謀に常々言われていたことだった。それが、こちらに来た途端、言われなくなった。
一人の参謀が手を上げた。
「機体の整備状況は抜かりないと報告を受けておりますが」
南雲は頷いたが、納得はしていなかった。
「この基地は常に花吹山の火山灰が降り積もっている。これが発動機や動翼の軸受などに入り込めば、致命的な故障となるのは必至」
会議室の面々、一人ひとりの目を見て言う。
「それを防ぐために、毎朝、どれだけの労力を払って火山灰と戦っておるか。貴君らは存じて居るか?」
参謀たちの反応の薄さに、若干の苛立ちを禁じ得ない。草鹿参謀長なら、すぐに察してくれるだろうに。いや、近藤信竹中将にこそ、あの気遣いは必要なはずだ。きっと向こうでうまくやってくれている。
今、自分はそうした役目も自らこなすしかない。そうすべきなのだ。
「六機の彩雲の掃除に、二人がかりで三時間はかかっている。いや、一人と半人前か」
大島整備兵の仕事ぶりを思い、訂正する。
「これは、機体を滑走路に露天で置くのではなく、密閉された格納庫に置けば解決されるのではないか」
南雲の言葉に、列席者からおずおずと手が上がった。
「手持ちの資材で格納庫を作るには、かなり無理があるかと思いますが」
若い参謀の言葉に、南雲は頷いた。
「資材の件は本国に伝える。何より、喫緊の問題は未帰還機である」
南雲が司令官として着任してすぐ、問題として目についたのがこれだった。
ラバウルとラエ、ソロモン海を囲むこの二つの拠点が、日々欠かさず索敵機を繰り出すことで、この海の制海権は保たれている。しかし、ラエに比べてラバウルの未帰還機、戦闘以外と思われる損耗が目立つのだ。目立った戦闘がなくとも、一機、また一機と戦力が消耗していく。その数は月に十機以上に登る。これは、ポートモレスビーからの空襲を毎日のように受け続ける、ラエでの損耗に比べても少なくない数なのだ。
「この未帰還機は、火山灰による機体の故障と考えるべきではないか?」
諄々と諭す南雲の言葉に、異論は出なかった。
「では、これより整備中の環境清浄化を最優先課題とする。密閉格納庫は保留となるが、発動機整備などの問題解決に、貴官らの知恵を仰ぎたい」
何よりも貴重なのは、手練れの搭乗員の命だった。それが、気を付ければ防げるはずの故障で失われるのは耐え難かった。本人の無念を思えば、なおの事である。
気付くのが遅すぎた。兵たるもの、戦において命を落とすのは当然。そんな思いから、自分たち将校は兵士の命を消耗品扱いしていなかったか。生前の山本長官に言われたことが、本人の死の衝撃でようやく身につまされてくる。
これまでの戦闘で、数多くの兵を死に追いやった。これは、せめてもの償いだ。
未帰還機ゼロを目指す、南雲の新たな戦場がここにあった。
「南雲さん、注文が厳しいなぁ」
ソロモン海海戦から帰るや否や、海軍軍令部から回された書面を見て、肇は呟いた。
未帰還機を減らすためには、密閉格納庫などの施策が必須。まさにその通り。
しかし、そのための対策は問題が多い。木材やコンクリートでは建設資材を送らねばならず、そのための輸送船を出すには追加の護衛が必要だ。
だが、度重なる海戦で護衛用の艦艇は不足が目立ち始めている。通常の補給物資に紛れ込む程度の大きさでないと、なかなか許可が出難くなっていた。
そうなると、鉄板などの薄い板で囲う案もあるが、海辺である以上、今度は錆との戦いになるだろう。
無茶な注文だが、未帰還機の問題は確かに重要だった。空母と違い、地上基地はその土地の環境から逃げ出すわけにはいかない。
自宅の書斎で頭を悩ましていると、茶の間ではしゃぐ声が上がった。村雨家の末娘、ミドリが遊びに来ているらしい。襖を開けてみると、光代と向かい合って座り、紙風船で遊んでいた。
「それ!」
ミドリが勢い余って叩くと、風船は潰れてしまった。それを拾い上げ、光代が息を吹き込む。丸く膨らんだその形を見て、肇は閃いた。
九月末。
照り付ける太陽に焼けた滑走路から身体を起こすと、大島弥太郎は口の端を拳で拭った。口の中が切れて血が滲んでいる。
上官である整備兵長は吐き捨てるように命じた。
「さっさと港へ行って、補給物資を受け取ってこい!」
言うなり、彼は整備用の掩体壕の中へと歩み去った。そこには一機の彩雲があった。今日の索敵から方向舵の故障で戻ったのだ。
大島は港に向かって歩き出した。
方向舵の故障は、軸受に火山灰が入り込むのが一番ありふれた原因だった。そこで、毎朝火山灰を払う役目の彼の責任と、整備兵長に決めつけられた。しかし、手順では油を指す前にもう一度洗浄すべしとなっていた。さもありなん、軸受には油で固まった火山灰が詰り、動かなくなっていた。
一体、洗浄の手間を惜しんだのは誰なのか。
言いたいことは山ほどあったが、口にすれば起き上がれないほど殴られるのは身に染みていた。週に一度くらい、こんなことがある。最下級の二等兵には日常だった。
鬱屈する怒りを胸に歩く大島の横を、一台のトラックが追い抜いて行った。視界の隅を過ぎ行く横顔を、思わず目が追っていた。
助手席に座っていたのは、南雲中将であった。大島の視線に気づくと、運転手の方を向いて何か語り掛けた。大島から十メートルほど前方で、トラックは停まった。助手席の窓から南雲が身を乗り出し、手招きする。
大島は駆け寄ると、司令官に敬礼した。
「大島整備兵。港へ行くのかね?」
まさか、名前を憶えられているとは。敬礼したまま、中将の問いに答える。
「はい、物資の受け取りを命じられました」
潤滑油や機体の部品など、毎回送られるものは港の方からまとめて送られる。整備兵が受け取りに向かうのは、例外的なものの場合だった。どうせ、上官宛の慰安品などだろう。
ところが、南雲は意外なことを言った。
「それは大荷物だな。この車の荷台で良ければ、乗って行くと良い」
促されるまま荷台に上がり、大島は港までガタゴトと揺られて行った。
港に着くと、軽空母の龍驤が逆三角形の特異なシルエットで埠頭にそびえ立っていた。一万トン未満と言うロンドン条約の制限下で起工されたため、細身の船体に大きな飛行甲板と格納庫を載せると言う、かなり無茶な設計となった。艦橋も艦首の飛行甲板下にあるため、上部は完全に遮るもののない真っ平となっている。
小柄なため最新の大型艦載機は載せられないものの、鬼のような猛訓練で名をはせ、開戦当初からフィリピン・マレーの南方作戦で活躍した艦である。
しかし、戦局が進むにつれ第一線から外れ、今は補給船団護衛が主な任務となっていた。
その船団からは、食料などに続いて、樽のような円筒形の貨物十二個が降ろされた。
「……これですか?」
大島整備兵は、その貨物を前に呆然とした。台車を使っても、この一つですら基地まで人力で運ぶのは難しい。
意外なのは、南雲中将であった。
「やってくれましたな、石動閣下」
目を細めて、その円筒形貨物の一つを撫でさすっていた。どうやら、南雲もこの貨物が目当てだったらしい。
南雲の命令で人手が集まり、すぐに貨物はトラックの荷台に積まれた。帰り道、大島は揺れる貨物に挟まれて何度も潰されそうになった。
基地に戻ると、上官の兵長は南雲中将に目を丸くし、その場で敬礼して硬直した。他の整備班の仲間も同じだった。
その面前で、南雲は大島に語り掛ける。
「では、大島整備兵、その説明書き通りに頼む」
基地の司令官から親しげに話しかけられ、大島は身が縮む思いであった。仲間の視線が痛い。
「は、はい!」
上ずった声で答えると、手渡された説明書を地面に広げ、風で飛ばないように四隅に小石を置く。
「えーと、まずはこっちの発動機を使えるようにしないとな……」
梱包を解くと、貨物は小型の発動機とポンプ、そして布を巻いた円筒形のものからなっていた。
大島はまず、発動機の燃料タンクにガソリンを入れた。発動機は空気ポンプに繋がり、そこからのホースは巻いた布の円筒に接続するように説明書には記されていた。そして、布を縛っているロープをほどく。良く見ると、布は落下傘に使われている薄くて丈夫な素材だった。
「よし、それじゃ発動機を始動してみるか」
唸りをあげてポンプから円筒に空気が送り込まれると、円筒が勝手にほどけて、膨らみ広がって行く。やがてできたのは、半球形をした大きな中空の椀型の物体だった。膨らみ切った時点で発動機を止める。
椀型は直径は十五メートルほどもあった。その前後左右の四か所には、固定用の紐が付いていた。
「それで、まず後ろ側の紐を地面に固定、か」
椀型の周りの地面に杭を四本打って、その一つ、滑走路と逆側の杭に「後」と書かれた部分からの紐を結んで固定する。
「次に、頂部から垂れている綱を引け、か」
綱は四本あった。その一本を手に取る。
空気で膨らませただけあって、椀型は驚くほど軽い。しかし、中の圧力のため意外としっかりしていた。綱を引くと、巨大な椀型が結んだところを支点に持ちあがっていく。
「で、あれ? この先どうしたら?」
説明書きを読むには手を放す事になる。さらに、風を受けると椀型がひっくり返りそうになり、難儀した。気が付くと、南雲も整備班の仲間もそばに居なかった。
どうしたものかとしばし悩んでいると、声が掛かった。
「おい大島! そのままにしてろ!」
見ると、滑走路の方から仲間たちが彩雲偵察機を押してくるところだった。その後ろから上官と南雲が着いて来る。
彩雲を椀型の下に納めると、機体から離れて上官が言った。
「大島! ゆっくり綱を緩めろ」
言われるまま、そろそろと綱を緩めると、椀型は完全に彩雲を覆い隠す形になった。
「よし、残りの三方も固定しろ!」
上官の指示で椀型の淵の紐を杭に結び、固定する。これで、少々の風ではびくともしなくなった。
南雲は椀型の横に歩み寄ると色の違う円形の布地をめくり上げた。そこには直径一メートルほどの穴が開いており、彼はそこをくぐって中へと入った。上官が後に続いたので、大島も入ろうとしたところ、怒鳴られた。
「大島! 貴様は外で……」
そこに、南雲が割り込んだ。
「大島整備兵、入ってきたまえ。外側の『たれ』を下げて穴を塞ぐように」
穴をくぐり、持ち上げられていた布地を降ろすと、椀型の中は薄手の生地から透けるぼんやりとした光のみとなった。その中に、彩雲の機体が黒々と浮き出ている。
南雲が口を開いた。
「諸君、これが当基地の簡易格納庫である。火山灰から機体を守り、故障による未帰還機をなくすことが目的だ」
ほう、と整備班から声が上がった。
「今後はこの中で発進前の整備を行う。灯りが必要なら取り付けることもできる。さらに」
南雲は椀型の外を指さした。
「発動機の分解整備などは、整備舎の中にさらにこのような場所を設け、完全に清浄な作業場所で行えるようにする」
整備班から声が漏れた。確かに、それなら故障も大幅に減るはずだった。
「では諸君、健闘を祈る」
薄明りの下、南雲が敬礼すると整備班が全員答礼した。
大島は南雲と目が合った。南雲はわずかに頷いた。自分のような一兵卒を気に留めてくれる司令官など、聞いたこともない。そう、この人のためなら、自分は何でもやるだろう。
椀型の簡易格納庫から出ると、南雲は基地を見渡した。そこここで同じような椀型が膨らんでいた。他の整備班も、それぞれの機体のための簡易格納庫を設置している。
今回の補給では、まだ一部の機体しか納められない。しかし、次回では量産体制が整うので、一気に全機分がそろえられると、本国からの暗号電文にはあった。
これで未帰還機がゼロとなれば、戦闘以外での損耗を心配することなく、作戦が組める。
何としてもソロモン海を押さえ、米機動艦隊を珊瑚海から出してはならない。それが、あの海で多くの部下を死なせてしまった自分の、責任の取り方だった。
花吹山からの火山灰に霞む青空に、南雲はそう誓う。
しかし、戦局はさらに変化を遂げようとしていた。
十月、待望されていた零戦の後継機、烈風が完成し、量産化が始まる。それと同時に、修復と大幅な改装を受けた「くしなだ」が、再び就役した。
それらは、この大戦の終盤に向けて、さらなる戦闘の激化をもたらすのだった。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
大島弥太郎
ラバウル航空隊の二等整備兵。
次回 第二話 南海と烈風
12月3日(土)朝8:00に公開予定です。




