第二十話 一つの野心
ルイス・スローティンは高台で車を止め、丘陵地帯に広がる町全体を見渡した。夏の昼下がり、強い日差しが照り付ける中、緑の山々の中にその町はあった。
「これがサイトX、クリントン・エンジニア・ワークスか。本当に柵に囲われているやがる」
付近の住民から「柵の向こうの都市」と揶揄される通り、その周囲は背の高い鉄条網の柵で囲われていた。中心にある丘の名前を取って、後にオークリッジと呼ばれることになる研究都市である。
ここはテネシー州の大都市ノックスビルから、西へ四十キロ離れた土地だ。大恐慌の時代、現大統領のルーズベルトがニューディール政策でテネシー川流域開発公社を作るまでは、殆ど無人の土地であった。そのわずかな住民を強制的に追い出して作られたのがこの町だ。
スローティンの新しい職場である。
車に戻ると、スローティンは柵の所にある検問所まで進んだ。身分証など煩雑な手続きの後、ようやくサイトXへ、「柵の向こう」へ入ることを許された。
しばらく車を走らせる。手前の東側の地域は居住区となっており、見た目はごく普通の田舎町という風情だった。一つだけ違うのは、家も商店も真新しいと言う点。一年前には、それらは影も形もなかったのだ。
さらに車を進める。町の西側は研究区画となっていた。
研究所の区画全体は、十二の尾根に隔てられた谷に分かれていて、その一つ一つに重要な施設が置かれている。一つの施設で重大事故が起きても、他に影響しないように、ということなのだろう。
研究区画のさらに西側に、彼が設計に関わった原子炉、X―10があった。外見は倉庫を思わせるような窓の無い建物だ。しかし、一方には近くを流れる川から水をくみ上げるパイプが入り、反対側には塔が建っていた。根元が太く、上部に行くほど細くなる、双曲線を描くカーブ。その筒状の先端からは、絶えず白い蒸気が立ち上っていた。
車を降りると、建物の前に立っていた男が歩み寄ってきた。四十代、黒髪で額が広い。
「ようこそ、スローティン博士。ユージン・ウィグナーです」
ユージン・ポール・ウィグナー博士はハンガリー出身でユダヤ系の物理学者であり、ナチスによる迫害で十年ほど前にアメリカに亡命した。アインシュタインの名前で大統領宛に出された、原爆開発を求める書簡の起草にも名を連ねており、マンハッタン計画の重鎮の一人だ。
「読ませてもらいましたよ、貴方の報告書。プルトニウム方式の優位性についての」
昨年の暮れに、芹沢に対して語った内容をまとめたものだった。
「あれで流れがプルトニウムに大きく傾きましたね」
国立銀行から導線用の銀を借りてまで作ろうとした、ウラン濃縮施設カルトロンだが、費用対効果が悪すぎると言うことで計画は破棄され、プルトニウム型原爆にリソースを集中することに決まった。
「お役に立てて何よりです」
スローティンはウィグナーと握手すると、原子炉X―10を見上げた。
「これが上手くいったのは何よりでしたが、次に進む時期ですね」
ウィグナーは頷いた。
「燃やしたウランから純粋なプルトニウムを抽出する工程ですな。まさに、今取り組んでいるところです。貴方の化学系の知識、大いに活かしてください」
若く野心的な才能に期待がかかっていた。
スローティンの最新の報告書を、芹沢はシカゴにあるJM社のオフィスで読んだ。
「ウランの濃縮は不要という事か」
原爆の製造法が一つに絞られた分、開発が早まるのはありがたい。その決断にスローティンが関与したと言うことは、今後JM社の立場が強まることにもなる。
「本格的なプルトニウム製造はハンフォードに決まりか」
サイトXは大都市ノックスビルに近すぎるため、大型の原子炉を多数建設するには危険すぎた。
ハンフォードは西海岸のワシントン州東南部、コロラド川の流域の乾燥した土地だった。スローティンの報告書にある地図を見て、芹沢は呟いた。
「見事なまでに、合衆国全土に散らばっているな」
マンハッタン計画の拠点は担当分野ごとに分散している。その分、まとまった情報が漏えいすることもない。ソビエトの工作員である芹沢としては、それが課題でもあった。
芹沢はいつものように報告書を「極秘」の引き出しに入れ、鍵を掛けた。時計を見ると午後四時過ぎだった。いつもの掃除婦が来るまで、まだ一時間ある。
このソビエトへの情報伝達ルートも、今後は替えざるを得ないだろう。英領インドのゴア飛行場からソ連援助物資に紛れ込ませるルートは、ナチスが崩壊して援助が打ち切られたため、すぐに使えなくなった。インド自体も、日本の支援で独立運動が激化しており、もはや時間の問題だ。
今後はカナダルートなどに分散すべきだが、情報が一方通行なのは不便でもある。一体、あのベリヤに、どの程度活用できているのやら。
十五年前、スターリンの執務室で会った、神経質な国家政治保安部長を思い出す。
こちらはここまで成し遂げた。さあ、ソビエトはどうだ?
インターホンが鳴り、ジョージが告げた。
「奥様が見えられましたが」
即座に答える。
「今日は早上がりにする。後を頼む」
立ち上がり、上着を取る。
この国では表面上、良い家柄の妻を持ち、夫婦円満が尊ばれる。精々、その利点を活かさなければ。
原爆開発の中心は、既にシカゴから移った。そろそろ、ニューヨークの本社に戻ってもいい時期だ。
「アビーにとっては、良い知らせだろう」
そうつぶやくと、芹沢はオフィスを後にした。
しかし、芹沢の知らない情報ルートが、思わぬところに繋がっていたのだった。
「米国の核開発が加速しているようです」
定時連絡で肇が告げた。
「満州へユダヤ人を広く受け入れたのが功を奏しましたね」
ナチスから逃れたユダヤ人は、アメリカだけでなく満州にも移住している。彼らの情報網は強力で、交戦国という日米の境界を超えて機能していた。
(I機関の撤退を補って余りあるな)
ヒットラー暗殺に成功したハンス工作員を起点として、欧州と米国のユダヤ人のかなりが日本に協力するようになってきている。さらに、カティンの森事件から、反共・反ソビエトの運動も巻き込む形になった。
この活動の中で、米国のマンハッタン計画の状況が、徐々に浮き彫りになってきた。
「了、あなたの知るマンハッタン計画に比べて、どう変わってきてますか?」
(ウラン原爆を放棄したと言うのが大きい。これで少なくとも半年は早まるだろう)
肇は眉をひそめた。
「それってやばくないですか?」
こちらは技術的には完成しているが、プルトニウムの製造は今以上に早めることは困難だった。熔融塩炉は核燃料の燃焼効率が良い反面、大型化には向かない。小型高性能が身上なのだ。
米国が大型の固体燃料原子炉を建設し、大量のウランを一気に燃やして量産するようになれば、今の優位性は揺らいでしまう。
(反面、良い点もある)
肇には意外だったが、了は続けた。
(敵がプルトニウムに一本化するなら、その製造を阻止すれば原爆開発を挫くことが出来る。多面的にやられたら、そのすべてを潰すことは不可能だ)
なるほど、と肇は思った。
「ところで、山本長官のことですが」
肇は話題を変えた。
「あれは謀殺だったのでしょうか?」
軍令部総長の永野修身によれば、山本長官の日程を新聞各社に流したのは海軍省だという。軍事作戦を担当する軍令部に対して、人事や兵站、軍艦の建造など行政面を担うのが海軍省だ。
(軍令部の制服組が役人の背広組と対立するのは良くある話だが……もはや私の知る歴史とは大きく違っているので、正直分らない)
「単純に、実質的敗北だった第二次珊瑚海海戦を覆い隠す、戦意高揚の動きだったのでしょうか」
(そうであって欲しいところだが。I機関を使うしかないか)
「敵の謀略の可能性があると?」
了が頷くのが感じられた。
(こちらがユダヤ人を味方につけたように、あちらには日系人がいる)
開戦前、相当数の日系人が米国に移住し、市民権を取っていた。彼らは開戦と同時に酷い人種差別を受けたが、その差別をはねのけるため、軍に志願して欧州などで激戦の中に飛び込むものも多かった。
「日本に、米国のスパイが?」
了は指摘した。
(米国だけとは限らない)
八月。ハルゼーは再び意気軒昂であった。
「これで攻勢に打って出なかったら、武人の名折れだろうが」
露天の航空指揮所で両手を広げ、傍らに立つ副官にアッピールする。背後には併走する三隻のエセックス級空母、バンカーヒル、フランクリン、ホーネットが白波を蹴立てていた。残る一隻のワスプは、後方のフレッチャーが指揮する別働隊にいた。
前回の戦闘で旗艦サラトガの飛行甲板に空いた大穴も、既に塞がっている。
折しも、そこへ一機のF6Fが着艦してきた。機体の重量を感じさせぬ鮮やかさで着艦フックを制動ワイヤーにひっかけ、ふわりと着艦する。
「よし! いいぞ!」
ハルゼーはガッツポーズをとった。航空隊の技量も十分高まっている。確かに、これでも戦意高揚しないとしたら、どこかに問題があるはずだった。
たとえば、フレッチャー少将のように。
飛行訓練中の空母ワスプは、南国の太陽の下、まさに輝いていた。何機もの戦闘機や攻撃機が、着艦してはまた飛び立っていく。
旗艦の重巡ボルチモアの艦橋で、その光景を眺めながら、フレッチャーは物思いに沈んでいた。受領前と受領後の新旧ヨークタウンを失ったことは、彼の心に影を落としていた。
「戦争で味方に損害が出ることは仕方がない。それ以上の損害を相手に与える事で、戦争そのものを一刻も早く終わらせるべきだ」
呟きながら、その空疎さに気がめいる。三千人の乗組員もろとも、巨大な空母を一撃で沈められる海の悪魔。こんなものを相手に、どう戦えば良いと言うのか。
もちろん、相手は本物の悪魔ではない。強力な魚雷を装備した高性能の潜水艦に過ぎない。その証拠に、パナマでは手傷を負わせることが出来たと言う。
しかし、スプルーアンスに詳しく聞いたところでは、それすらも相手の事故か故障が原因だと言う。そして、前回のパナマ海戦では、水中速力三十ノット以上という恐るべき性能を見せつけてくれた。道理で、高速が売り物の空母機動艦隊を手玉にとれるわけだ。
「スプルーアンスのシーウルフ艦隊でも、シーゴーストから空母を完全に守りきることはできない。だとしたら、こちらが沈められる前に敵空母を沈めるしかない」
戦略としてはそれでいい。空母も飛行機もどんどん作れば良い。だが、人はそうはいかない。
本国ではすでに、軍人の遺族会を中心に厭戦気分が出始めているという。これ以上の戦死者が出ると、戦争の継続が難しくなる。
開戦以来、十一隻もの空母がシーゴーストに沈められている。死者は三万人以上だ。この上さらに何隻が沈められるのだろうか。
アメリカは、自分は、どこまで痛みに耐えられるだろうか?
瀬戸内海に面した軍港の呉には、南を倉敷島、西を江田島に囲まれた大型艦の停泊地があった。その波穏やかな海面を、今、黒鋼の巨艦が進みだす。
連合艦隊旗艦、戦艦大和の作戦室。戦死した山本五十六の後を継いだ小沢治三郎司令長官が、作戦会議の冒頭、口を開いた。
「このたびの戦いは、山本長官の弔い合戦でもある。各位の一層の奮励努力に期待したい」
連合艦隊の陣容も、大きく変わった。
連合艦隊 司令長官:小沢治三郎大将
第一戦隊 司令長官直率
戦艦 大和 艦長:山口多聞大佐
軽巡二、駆逐艦八
空母隊 司令:伊沢石之助大佐(出雲艦長を兼務)
出雲、石狩、甲斐
駆逐艦八
第一航空艦隊 司令長官:近藤信竹中将
第一航空戦隊 司令長官直率
装甲空母 武蔵 艦長:加来止男大佐
空母 加賀 艦長:岡田次作大佐
駆逐艦八
第五航空戦隊 司令:原忠一少将
空母 翔鶴、瑞鶴
駆逐艦八
第六航空戦隊 司令:高柳儀八少将
空母 隼鷹、飛鷹、大鷹、雲鷹、沖鷹
駆逐艦八
特徴は新設された第六航空戦隊である。商船などから改装された空母であり、どれも低速で搭載機数も多くはない。これまではパナマ監視や護送船団の任についていた艦だった。
戦艦大和艦長から移った高柳儀八は、当初戸惑いを隠せなかった。
「このような寄せ集めの雑兵で、一体何が出来ましょうか?」
小沢長官に問うと、彼は答えた。
「これは、亡くなられた山本長官の案なのだ」
驚く高柳に、小沢は続けて言った。
「改装空母とは言え、隼鷹・飛鷹などの搭載機数は飛龍型に次ぐ四十八機だ。計百六十五機の戦力は、正規空母二隻分に当たるし、中型や小型ということは万が一沈められた時の被害も分散できる」
まだ釈然としない高柳だが、小沢は言った。
「戦艦大和の艦長だった君ならわかるだろう。これの設計思想は、アウトレンジ戦法だ」
敵艦の射程距離外から砲撃し、相手に反撃の機会を与えずに撃沈する。そのための巨砲であり、「ぼんぼり」電探であった。水平線の彼方まで見渡せる電探で敵を捕らえ、精密な砲撃を加える。
「空母も本来、そうであるべきだった。飛行機はいわば、射程千キロを超える砲弾だ。しかも、帰って来てまた打ち出せる。その基本に立ち返るのが、この作戦だ」
大和の作戦会議では、小沢が高柳に語った内容が再度確認された。
肇は、この作戦を立案した山本を想った。作戦そのものは宇垣参謀長が若手の具申を基にまとめ上げたものだが、そのきっかけは山本の発案だったと言う。
小沢の隣で作戦内容を話す宇垣は、右腕を包帯で巻き三角巾で吊っていた。彼が乗っていた方の一式陸攻も敵襲で被弾して海上に不時着し、重傷を負ったのだ。本来なら療養しているべき身だが、負傷を押しての出陣である。
第一次珊瑚海海戦で築かれた山本との信頼関係は、その死によって宇垣の中に不滅のものとして刻まれたのだろう。そう、肇は思った。
一方、山本に重用されていた黒島亀人参謀は、腹を下して次の飛行機に乗る予定となり、難を逃れた。帰国してからは現場を離れ、軍令部第二部長に就任した。
人事は本人の希望ばかりではないと思うものの、何か違いを感じずにはおれない肇であった。
昭和十八年の夏。こうして、戦いの様相はまたもや変わりつつあった。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
ユージン・ポール・ウィグナー
【実在】ユダヤ系の物理学者。ハンガリー出身。
秘匿研究都市オークリッジの研究所長。史実では戦後、ここが熔融塩炉を開発しています。
次回 第二十一話 「十七発の弔砲」
11月5日(土)朝8:00に公開予定です。




