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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第三部
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第十九話 三人の涙

 そぼ降る雨の中、肇は霞が関に並び立つ建物の一つの前に立っていた。大理石と赤煉瓦の重厚な建物は、鉄策に囲まれ、門柱には「海軍省」との銘が刻まれている。建物の設計者は、確か英国人。今はその母国と戦争の真っ最中と言うのは、何か皮肉めいていた。

 門衛に名前と来意を伝えたのは半刻前。胡乱気な目で見られることには慣れているが、雨に濡れるのは少々辛い。せめて雨具くらい持って出るべきだと思い出した頃、正面玄関の扉から若い尉官が傘を手にまろび出てきた。

「どうぞ、石動閣下! 永野総長がお待ちです!」

 言うなり、傘をさして掲げる。

「いいですよ、玄関はすぐそこですから」

 手を振りそう言いつつも、背後で門衛が直立不動で敬礼しているのを感じて溜飲が下がるのは、やはりどこか毒されている気がした。

 帝国海軍の最高司令部である軍令部は、海軍省の建物の一角にあった。その最高責任者は総長と呼ばれ、現在その任についているのは永野修身大将である。

 永野は口元に意志の強さを感じさせる禿頭の男だった。連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長の海軍三長官を歴任した、これまでに唯一の人物である。

「石動君、今日はまたどうしたね?」

 日米開戦の折には東条と丁々発止やり合っていた永野だが、この日の急な来訪は戸惑っている様子だった。

「永野総長、これは一体どうなっているのでしょうか?」

 肇は懐から今朝の新聞を出し、執務机の上に広げた。そこには大きな見出しでこう書かれていた。

「軍神山本五十六、決戦を前に南方を視察」

 内容は、山本に先月会った時に語った通り、南方の最前線であるラエやラバウルを視察し、将兵を激励するというものであった。

「山本は確かに、軍神などと祭り上げられるのをたいそう嫌っているが……」

 永野の見当はずれな言葉への苛立ちを抑え、肇は文章を指さした。

「連合艦隊司令長官の詳細な日程は、軍事機密ではないのですか?」

 そこには日本を発ってからの日程と移動手段が克明に記されていた。ちなみに、出発は昨日の正午となっている。既に呉から飛行艇で飛び立った後だった。トラック泊地で一泊した後、今朝ラエへ向かうとある。

「もちろん軍務ならそうだが、これは現地の民間人も参加する行事であって……」

 バン、と肇は机を叩いた。

「ラエもラバウルも最前線です。最悪の事態を想定すべきです」

 苦悶に歪む肇の顔を見て、永野の表情も変わってきた。

「石動君、君の言ってるのはつまり」

「暗殺です」

 端的な言葉は、短刀のように永野の臓腑を抉った。

「まさか、工作員が侵入していると?」

「移動手段は主に空路です。つまり」

 肇は永野の目を見て続けた。

「戦闘機で撃ち落とすことが出来ます」

「そんな……」

 永野は絶句し、がっくりと椅子に腰を落とした。

 山本とは性格的にそりが合わないと周囲からは見られていたが、永野は彼の手腕を高く評価していた。以前の役職である海軍次官、海軍大臣に次ぐ地位に山本を抜擢したのも永野だった。

「いや……しかし、警護の戦闘機は付くだろうし」

「零戦の優位性は既に失われてます。先の珊瑚海で明らかなように」

 たとえ十機の零戦が付いたとしても、二十機のF6Fに襲われたら守り切れない。陸軍機も強力な機体が出てきていた。

 肇は永野に詰め寄った。

「今からでも予定を取り消してください。」

 永野はこめかみに手を当てて、眉間に皺を深く刻んで答えた。

「ラエやラバウルでの式典には、新聞記者なども大勢来る。各紙は特集まで組むという。ここにきて行事の中止となると……」

 煮え切らない態度に、肇はやるせなさを感じた。これも、老いというものがもたらす変化なのか。

「今すぐ、ラエに伝えてください。中止が無理なら、搭乗機を変えるとか……彩雲なら三座ですし、十分、敵機を振りきれます」

 はっと顔を上げた永野は、卓上の電話機を取り上げ、早口で指示を伝えた。

 間に合ってくれ、と肇は祈る思いだった。

 しばらくして電話が鳴り、永野が出た。黙って受話器を耳に当てていたが、「そうか」と一言答えると電話を切った。肇を見上げるその顔は、一気に数十年分老けたように見えた。

 どうやら、祈りに耳を傾けるのは神仏だけではなく、人の弱みに付け込む鬼もいるようだった。

「昨夜、トラック泊地の予報では、夜から今朝にかけて天気が悪化するとのことだった。それで、山本はトラックで一泊せず、二式大艇の給油が済み次第、ラエに向かったと言う」

「……ということは?」

 肇が促すと、永野は続けた。

「昨夜のうちにラエについて一泊し、予定を早めて今日の午前中にラエの視察を終え、昼にはラバウルへ向かうと……」

 肇は壁の時計を見上げた。十二時三十分。

「ということは……」

 変更された予定の通りなら、既に山本は機上の人だった。

 その時、執務室の扉がノックされた。激しく、何度も。力の抜けた永野が立ち上がり、扉を開くと、年若い尉官が敬礼し、手にしたメモを読み上げた。

「本日、日本時間ヒトフタニイマル時、山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗された一式陸攻が、ラエからラバウルに向かう途中に米陸軍機P―38の奇襲を受け、撃墜された模様、との事であります」

 永野は答礼することも出来ず、一言「わかった」と告げて扉を閉じた。

 肇はその場にがっくりとくずおれた。床に突いた両掌に、何か熱い液体がしたたり落ちている。それが涙だと気づくのに、しばらくかかった。

 頭の中が痺れたように考えがまとまらない。奇襲を受けた? 撃墜された? だから……だから何がどうなった?

 肩に手が置かれた。震えているのは、その手か。それとも、肩の方か。

「すまない、遅かった」

 今のは、永野の言葉か。それとも、自分の心の声か? 世界の全ては歪み、融け込み、混ざり合っていた。

「遅かった……すべて遅かった!」

 だが、認めない。

 肇は立ち上がった。

「こんな現実は、認めない」

 歴史改変の揺り返しなど認めない。光代の陰残な未来などあってはならない。

 永野の制止も聞かず、肇は飛び出して行った。相変わらずそぼ降る小雨の中を。

 自宅に戻ると、美鈴に一人にしてくれと頼み、ずぶ濡れのまま軽砥論端末を立ち上げる。そこから海底艦隊基地の重砥論につなぎ、I端末に接続し、緊急時のために用意されていた算譜を起動する。

 程なく、了が脳内に接続してきた感触があった。肇は告げる。

「山本長官が、撃墜されました」

 しばしの沈黙。

(そうか)

 肇の感情が爆発した。

「そうか、じゃないでしょう! 山本長官が死んだんです。これって、歴史改変の揺り戻しでしょう?」

(恐らくは、そうだろう)

「そうじゃなくて!」

 文机を拳で叩く。

「そちらは時代を遡れるのでしょう? だったら、昨日とか一昨日に戻って」

(それはできない)

 肇は目を見開いた。

「……できない?」

(一日や二日遡っただけでは、大きな歴史の流れを変えることは出来ない。この計画が百年を遡行しているのもそのためだ)

 了の冷静な物言いが、一々、肇の神経を逆なでした。こんなことは、由美が死んで以来だ。

「だったら構いません。十年でも二十年でも遡って……」

(それもできない)

「そんな!」

 何度も机を叩く。

「出来ないわけないでしょう、だって」

(私の命が持たない)

 横っ面を張り倒された気がした。

「今、何て……」

 相変わらず、了の声は冷静だった。

(原爆のために時間を使いすぎた。もう、やり直す時間は残っていない)

「時間、て」

 了は言った。

(肇、目を閉じてくれ)

 目を閉じる。すると了の世界の光景が脳裏に移った。

「これが、今の私だ」

 鏡に映った顔。それは了の顔のはずだったが、頬はこけ、驚くほどやせていた。同時に、耳から入るのは了の声だった。それもひどくしわがれている。

(一体、なにが?)

 代わりに、肇の声が脳内で響く。

「私のいる世界は、既に滅ぶことが決定している」

 暴発した核戦争で。知識としては、肇も判っているはずだった。

「既に食料は尽きた。最後にものを食べたのは三日前だ。こちらの時間でだが」

 あまりのことに、肇は考えがまとまらなかった。

「今、まともに動けるのは、こちらでは私一人だ。皆、私に食料を残すため……」

 感覚を一部共有している肇の胸が、締め付けられた。

(そんな……)

「最初は、こちらの陛下だった。既に役目は終えたとおっしゃってた」

 頬に熱い感触がある。泣いているのは了か。それとも、こちらの時代の肇か。

「次に、清美が。最後に太が」

 二人とも、時間遡行機を作り上げた科学者夫婦だ。

「頼む……私もいつまで意識を保てるか分らない。このまま進むしかないのだ」

 このまま進む。

 それは、揺り戻しの危険性を孕んだまま、進み続けると言うことだった。

 目を開くと、そこはいつもの書斎だ。目の前の文机には軽砥論端末。赤いネオン管の電光板には、最後に打ち込んだ算譜の名前が表示されている。

「このまま進んで、望んだ未来は得られますか?」

 核兵器の無い世界。光代が幸せになれる世界。

(確率は五分五分だ)

 脳内に響く了の声。

(だが、立ち止まれば、間違いなく最悪の未来になるだろう)

 日本が負け、海底軍艦も原爆もアメリカに奪われる未来。亜細亜は再び植民地化され、日本も占領される。その挙句は、おそらく了の世界と同じ破滅だ。

 その未来に、光代の幸福は微塵もない。

「わかりました」

 返事をすると、了の接続が切れる感触があった。

「お父さん」

 背後から、光代の声がした。いつの間にか夕方で、帰宅していたらしい。

「お父さん、何があったの?」

 そばに来て、膝をつく。心配そうな顔。

 肇は、告げるしかなかった。

「山本のおじさん、死んじゃったんだ」

 光代の目が丸くなった。そこに、見る見るうちに涙があふれる。

 ああ、由美が、アキが亡くなった時以来だ。こんな光代を見るのは。この子が悲しみ嘆くのは、二度と観たくなかった。そうさせないと誓ったはずだ。

 それなのに。

 肇の背中にしがみつき、激しく嗚咽する光代に、肇は同じ言葉を繰り返すしかなかった。

「ごめんよ……ごめんよ……」

 光代の声を聞きつけ、美鈴も部屋に入ってきた。事の次第を聞いて、三人で涙にくれるのだった。


 珊瑚海は、今日も快晴だった。海原も空も、どこまでも青く澄み渡っていた。

 しかし、ハルゼーの周囲三メートルだけは、猛烈なタイフーンが吹き荒れていた。

「マッカーサーめ!」

 空母サラトガの艦橋の壁に、また一つ、へこみが生じた。右の拳がそこに埋まっている。

「お前には武人の魂は無いのか!」

 左のストレートで、もう一つへこみが出来た。

「正面からぶつかり合ってこその勝利だろうが!」

 両手でガンガンと壁を叩く。

「やめてください、艦が沈みます!」

 たまりかねた副官が止めに入る。冷静になればそんなはずはないのだが、ハルゼーの怒りは鬼気迫るものがあった。

「暗殺だぞ!? 誇り高きアメリカの軍人がやることか? 俺たちはいつからギャングになったんだ!」

 ぜいぜいと息を切らせる。

「くそっ! これでもう、ヤマモトを打ち負かす機会はないのか!」

 そこへ、副官が指摘した。

「日本も、すぐに後任の司令長官を指名するでしょう」

 それだけは、確かな事だった。


 日本の翌日の朝刊では、山本五十六の死が大々的に報じられた。夕刊には、国葬が行われると発表があった。葬儀委員長は渡辺安次参謀。奇襲を受けた時、幕僚は宇垣纒参謀長以下、全員が別の一式陸攻に乗り、不時着で負傷者は出たものの全員命はとりとめた。

 翌日、海軍省は、海軍人事の変更を発表した。凍結されていた第二次珊瑚海海戦の結果も踏まえたものだった。

 後任の連合艦隊司令長官は小沢治三郎。階級は大将に昇進。

 はじめは南雲中将が抜擢されるはずだったが、本人が断固として固辞し、昇進も断ったため、一航戦の司令長官の任も解かれ、ラバウルの指揮官の任に就いた。

 代わりに、第一航空戦隊の司令長官には、近藤信竹中将が就いた。

 また、第六航空戦隊が新設され、司令官には少将に昇進した高柳儀八が就いた。元の大和艦長である。

 空母飛龍と蒼龍を失った第二航空戦隊は解体され、乗員は第一航空戦隊に吸収された。

 その指揮官だった山口多聞は一階級降格され、大佐となった。

 そして、空席となった大和艦長を拝命したのは、その山口大佐であった。

 海軍省からは、これらの人事には、生前の山本五十六の意向が反映されたとの発表があった。


登場人物紹介


実在する人物には【実在】としています。


永野修身ながの おさみ

【実在】海軍軍令部総長。階級は大将。 


次回 第二十話 「一つの野心」


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