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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第一部
6/76

第六話 緑の革命

感想で頂いた指摘で、若干の修正をしました。

ちなみに、このエピソードはかなり重要な伏線でもあります。


 昭和五年の初秋。

 肇の乗る列車は、深夜に九州福岡市の箱崎駅に着いた。この駅は三大八幡宮の一つである筥崎宮はこざきぐうの裏手にあたり、九月半ばの放流会の行事に合わせての臨時列車であった。祭りから駅へと流れる人波をかき分け、肇は筥崎宮の境内に入った。

 本来の放流会は、漁や狩猟で採った魚や獣を放つことで無用な殺生を戒める八幡神の行事である。しかし、この地では「なしも柿も放流会」と呼ばれ、より広く収穫祭の意味合いが強いと言う。「なし」とは土地の言葉で「全部」という意味だった。

 肇は拝殿に向かって柏手を打ち、五穀豊穣を祈った。

 今回の訪問は、故郷の富山が輩出した魚津の三太郎博士の三人目、盛永俊太郎の招きであった。稲の品種改良に成功したとの知らせである。これは日本の、さらには全亜細亜の将来を変える、緑の革命と言えた。

 今夜の宿に向かいながら、肇は初めて九州帝大を訪れたときのことを思い起こすのだった。


 あれは二年前、昭和三年の六月。本州より一足先に梅雨入りしたこの地に降り立ち、そぼ降る雨の中を九州帝大の箱崎区に向かった。

 正門から入ればよかったのだが、なまじ道路から水田越しに建物が見えるため、ついあぜ道に入り込んでしまったのがいけなかった。水田は細かく区分けされており、入り組んだあぜ道はまるで迷路のようになっていた。おまけに、ぬかるみに足を取られて何度も尻餅をつく始末。

「難儀ですなぁ、大丈夫ですか」

 田植えをしていた男が声をかけてくれた。蓑笠をまとい、首からは手拭いを掛けている。歳は三十半ば、良く日焼けしていた。男は水田から上がり、手を差し伸べて起こしてくれた。

「いやどうも、ありがとうございます」

「この道に革靴では無理ですな」

 男は素足だった。

「ひょっとして、帝大に御用ですかな?」

 泥まみれの背広を見て尋ねる男に、肇は頷いた。

「はい、農学部の盛永教授に・・・」

 男は「ほう」と声を上げた。

「盛永は私ですが」

 農民にしか見えなかったその男こそ、盛永俊太郎教授その人だった。


 田植え作業を途中で切り上げ、盛永は肇を連れて研究室まで案内した。

「あちらに汚れを流せる場所があるのでどうぞ。着替えは私のでよければお貸しします。丈が足りないと思いますが」

 肇は頭一つ分、上背があった。

「お手数掛けてすみません」

 農作業の後で使うのであろう。裏手には水場があり、そこで下着一枚になり手足や顔の泥を落とした。そこへ盛永が着替えを持ってきた。汚れた衣服を籠に入れる。

「毎年、都会育ちの新入生が何人かやらかすんですわ。あなたも東京からですか」

「お恥ずかしい限りです。今は東京ですが、出身は富山でして」

「おお、同郷でしたか。それはそれは」

 身体を拭いて盛永の着替えに袖を通す。確かに丈はかなり足りなかった。

 肇と研究室に戻ると、盛永は汚れ物の籠を持って出て行った。大学内に洗濯屋があるという。確かに、学業の一環として農作業があるなら必要だろう。

 しかし、由美を連れずに一人で来たのは正解であった。こんなみっともない姿は、とてもでないが見せられない。

 さほどかからず、盛永は戻ってきた。湯を沸かし、手ずからお茶を入れてくれる。

「さて、御用件は何でしたかな?」

 一口すすると、盛永は話を切り出してきた。肇も茶を頂くと答えた。

「先生は稲の御研究が専門でしたね」

「いかにも。ほかにも手広くやってますが、中心はやはり稲です。先ほどの水田も、何種類かの稲を育てる試験場でして」

 あの迷路のようなあぜ道はそのためだったようだ。

 肇は言った。

「私は、我が国の技術力向上のために色々お手伝いさせてもらってます。それで、このたび窒素肥料の大量生産の目途が立ちまして」

「ほう、それはそれは」

 農学者らしく、盛永は興味を示した。

「空気と水から肥料を作るわけです。これによって食料の増産が出来れば、飢餓は無くなります。ぜひ、その効果の実証にご協力を頂きたく……」

 ところが、盛永は顔を曇らせた。

「うーむ……それには一つ問題が」

 意外な返事であった。

「私のところに来たと言うことは、稲作への応用と言う事ですな」

 盛永は立ち上がると、研究室の壁にある黒板へ歩み寄った。チョークで簡単に稲の絵を描く。

「よく言われますが、実るほどこうべを垂れる稲穂かな。その通りで、稲穂が実ればこのように重さで垂れ下がります」

 その隣にもう一つ絵を描く。

「窒素肥料を加えれば、さらに実りは良くなりますが、穂の重さも増し、ついにはこの通り倒れてしまいます」

 稲の茎が途中で折れ曲がってしまっている絵だった。

「これを倒伏と言います。こうなると栄養が穂に届かなくなったり、水田に浸ったことで品質が悪くなります。このため、単純に肥料を増やしても収穫は比例しないのです」

 了から聞いていた話より、事情は複雑らしい。

「何か対策は無いのでしょうか?」

 肇の問いかけに、盛永はしばし考えた。

「一般に、稲の背丈が高いほど倒伏は起こりやすいので、背丈の低い品種との掛け合わせが有効ではあります。しかし、それで稲穂の部分まで短くなっては意味がありません」

 それは道理であった。

「つまり、稲穂は従来通りで、背丈だけが低くなると」

 自分で言っておいて、そんな都合の良い品種があるのだろうかと肇は訝しんだ。

「そうした形質は半矮性と呼ばれています。例は少ないですが。小麦などでは、そのような種類が見つかってます」

「稲には見当たらないと?」

 肇の言葉に、盛永は頷いた。

「少なくとも、今のところは」

 落胆する肇だったが、衣服が洗濯から戻るまでは帰京することもかなわなかった。結局、盛永の家に一晩泊めてもらうことになった。

 夜、定時連絡で了に盛永の言葉を伝える。

(たしかに、倒伏しない品種を生み出す必要があるな。調べてみるから少し待ってくれ)

 一旦、接続が切れ、しばらくして再開した。

(おかしい)

「何がですか?」

 肇は飛び起きた。

(こちらの史実では、既に倒伏の問題は解決しているはずだ。君のいる時代では、品種改良で半矮性の稲が既に産まれてるはずだ)

「……どこでですか?」

(台湾だ)

 翌朝、朝餉を頂きながら、肇は盛永に言った。

「先生は、磯永吉という方をご存知ですか?」

 しばらく考え込んで、盛永は答えた。

「先輩の農学者ですね、確か台湾に渡られたはず」

 肇は頷いた。

「昨日の話ですが、半矮性の稲が日本に見当たらないなら、海外を探すべきでしょう。台湾は昔から稲作が行なわれていて、土着の種類も豊富です」

 盛永の眼が輝いた。

「なるほど、その磯博士と共同研究すれば道が開けるかもしれませんな」

 些細な切っ掛けから物事が大きく進むことがある。逆に、大きく滞ることもあるのだ。この稲の品種改良もそうだった。了からの情報を盛永教授を通して磯永吉へ流したところ、疑問の答えが明らかになった。

(私が元凶だったとはな)

 了の声に苦みが走る。

 磯永吉博士は、既に半矮性の台湾種、低脚烏尖(ていきゃくうせん)を見つけ出し、日本産の米との掛け合わせにある程度成功していたのだった。しかし、本格的な作付けを準備していた矢先に、本国から待ったがかかった。

 ちょうど、了が文部省で熱弁を振るい、研究予算を確保した時に当たる。しかし、特別予算を組むことに大蔵省が難色を示したため、台湾や朝鮮半島などへの予算が内地に回される形になったらしい。その結果、新種の作付けは大幅に削られ、磯博士も不遇をかこっていたようだ。

「何がどこへ影響するか、見極めるのが難しいですね」

 物事の因果関係は、さながらもつれた糸のように絡み合っており、丁寧にほぐしながら先に進むしかない。単純にオッカムの剃刀で一刀両断とは行かないのだ。

 そう。この時点でもっと深く考えていれば、と後に肇も了も悔やむことになるのだが……。

 それでも、物事には良い面もある。元来、台湾土着の品種には日本のコメのような粘りが少なく、そのままでは日本人の口に合わない。そのため、日本の品種との掛け合わせで、半矮性を持ちつつ日本米の味わいを持つ品種を、磯永吉は追い求めていた。盛永の協力もあり、さらに味も栄養価も高く、病害にも強い品種が生まれようとしていた。

 その第一弾が実ったと連絡があったのが、つい先日であった。盛永と磯の共同研究が始まって、たった二年での成果だ。十年単位で行われる品種改良としては、異例の速度だった。

「なるほど、これがその稲ですね」

 二年ぶりに訪れた九州帝大の盛永研究室。今度は転ぶこともなく無事に着くことが出来た。床の上には何種類かの稲が並べられており、掛け合わせた組み合わせで樹形図のようになっていた。その左端にある稲の一つは、確かに丈が低く、しかも稲穂は大きかった。

「それを炊いてみたのがこれです」

 盛永が一口分の飯を盛った皿と箸を手渡した。早速、賞味してみる。

「なるほど……ちゃんと粘りがありますね」

 箸からこぼれ落ちることもなく、口に運ぶことが出来た。味も悪くない。

「ただ、今のところ寒さにはあまり強くないので、その点の改良がこれからの課題です。味の方も、内地の一級米に劣らぬものにしないと」

 研究はまだまだ続くが、しっかりした手がかりはつかめたようだった。

 了から伝え聞いたような日米戦での餓死者は、この品種と窒素肥料で防げるはずだった。

「この品種、名前はもう決まったのですか?」

 肇の問いかけに、盛永は微笑んで答えた。

「ええ、磯先生とは蓬莱米にしようかと話してます」

 了が知る歴史とは異なり、この時代の蓬莱米は、より日本の味わいが色濃く出ている。

 蓬莱とは仙人が住むと言う伝説の島。日本と台湾は、お互いが相手の蓬莱となるのかも知れなかった。


登場人物紹介


実在する人物には【実在】としています。


盛永俊太郎もりなが しゅんたろう

【実在】農学者。

「魚津の三太郎博士」の三人目。

本編では磯永吉と協力し、窒素肥料に適した「蓬莱米」の品種改良に成功し、食糧の飛躍的な増産を可能とした。


磯永吉いそ えいきち

【実在】農学者。

台湾に在住。史実でも「低脚烏尖ていきゃくうせん」を発見し、「蓬莱米」を生みだす。

本編では盛永との協力で、史実より10年早く蓬莱米を完成させた。


次回 第七話 「巨鯨の夢」

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