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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第二部
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第二十二話 三人の代表

 バンコクからシンガポールは民間の空路がまだなかったため、海路で三日間の旅となった。

「ねぇお父さん。なんで旅先なのに勉強しなきゃいけないの?」

 風通しの良い甲板に天幕を張って茣蓙を敷いた上で、光代は文机代わりの椅子に向かいトンビ座りし、教科書とノートを開いて鉛筆の尻を噛みながら訴えた。

 肇は隣の椅子に体を預け読書にふけっていたが、目を上げると娘に言った。

「もう八月も半ばだからね。帰国したらすぐ学校が始まっちゃうぞ。宿題溜まってるのに、いつやるんだい? 今でしょ」

 その反対側では、村雨修が蒼い顔で茣蓙の上に横たわっていた。

 光代が呼びかける。

「だってさ、シュウちゃん。宿題しなきゃ」

 返ってきたのはうめき声だった。

「船酔いなんだからそっとしておいてあげてください」

 冴木が言った。修が日本に来たときも海路だったが、海底軍艦はほとんど揺れないため、船に弱いことも気づかなかったようだ。

「明日には体が慣れるでしょう。そうしたら頑張ればいいですよ」

 冴木は、手に持った盆から琥珀色の液体の注がれたグラスを手渡す。

「わーい、麦茶だ!」

 光代は一気に飲み干した。

「あー、美味しい」

「修君は?」

 冴木の声に、少年は首を振るばかりだった。

 代わりにグラスを受け取った肇は、一口飲んで冴木に聞いた。

「シンガポールも治安は安定しているそうですが、華人系の反日組織はどうなってます?」

 茣蓙(ござ)の上に胡坐をかくと、冴木は答えた。

「捜査と検挙は続いています。おかげで収容所は満杯で増築中ですが、衛生面と栄養面には配慮しています」

 了の世界では、少しでも反日ゲリラの疑いがある中華系住民の大量虐殺が日本軍により行われ、大問題になった。その数は六千人以上とされていた。

 しかしこちらの世界では、反日ゲリラの首謀者が開戦前にI機関の働きで排除されたため、そうした悲劇は免れている。

「ところが、今度は食い詰めた華人がゲリラを自称して収容所に入ろうとするので、手を焼いてます」

 飢えも虐待も心配なければ、そうする者も出るだろう。

 肇は呟いた。

「しかし、どんな人間なんですかね、その辻政信つじ まさのぶって」

 了の世界で大量虐殺の首謀者となったのは、辻政信という陸軍大尉であった。一九三九年、ソ連と満州の国境紛争に端を発するノモンハン事件で、彼は参謀本部からの停戦命令を握り潰し戦闘を拡大した罪で軍籍を剥奪され、獄中にいる。

 I機関による働きかけで、辻正信は了の世界のように釈放されず、結果としてシンガポール華僑の大量虐殺も防がれた。

「確信犯という奴ですね。未だに自分は正しいと言い張っているようです」

 了によると、終戦を迎える直前に姿をくらまし、支那大陸に潜伏して戦犯としての裁きから逃れたという。その結果、何人もの軍人が彼の代わりに戦犯として処刑されることになった。

「なんだか、うすら寒くなるような人物ですねぇ」

 熱帯の青空を見上げながら、肇は呟いた。天気晴朗なれど波高し。水平線の彼方で大きくなりつつある夏雲は、午後のスコールを予想させた。

 今年の春以降に次々と就役した新型海防艦により、この海域の米国の潜水艦がほぼ一掃された。おかげで、台湾からシンガポールまでの南シナ海は、ほとんど日本の、いや大東亜の内海と言っても良かった。そのため、近頃は海路の心配は天候ぐらいになった。

「昼飯の後は、船室に引き上げた方ががいいですね」

 冴木の言葉に、肇は頷いた。水平線の彼方には雨雲が大きくなってきている。船室は蒸し暑くてかなわないが、ずぶ濡れになるよりはましだろう。


 芹沢は手元の資料を見ながら、目の前に座る青年を値踏みしていた。定時後のJM社シカゴ支社にはほとんど人気はないが、エアコンはまだ効いていた。

 ルイス・アレクサンダー・スローティン。ロシア帝国による迫害を逃れたユダヤ人を両親に持つ、現在はカナダ国籍の核化学・物理学者。アメリカでは世界初のシンクロトロンの建設に参加し、炭素の放射性同位体の製造に成功。

「ミスタ・スローティン。立派な経歴だが、いささか異色な部分がありますね」

 経歴の中の一行を指でなぞりながら、芹沢は言った。

「キングス・カレッジで博士号を取った直後に、イギリス空軍の戦闘機乗りとなり、スペイン内戦に参戦とは」

 三十代前半の青年は眼鏡の位置をなおすと、ニヤリと笑って答えた。

「若気の至りです」

 スペイン内戦とは、一九三六年から三年にわたって起こった、フランコ将軍のクーデターによる内乱である。

「政治的信念とかより、学問に飽きてちょっとスリルが欲しくて参加しました。家族なんて、ただ旅行に行っているものだと思ってたようです」

 呆れたものだ。だが、そのくらい血の気があった方が役立ってくれそうだった。自らの可能性を極めたいと言う、どん欲さが感じられる。それは確かに、芹沢自身にも通じるものだった。また、政治的信念へのこだわりがないと言うのも、コミンテルンの工作員である芹沢には都合が良かった。

「ミスタ・スローティン。わが社の核開発部門にぜひ招きたい」

 青年の眼鏡が灯りに光った。

 芹沢にとっては専門外の核物理学で、必ずや片腕となってくれるだろう。


 珊瑚海海戦の後、「くしなだ」は北大西洋でUボート狩りと援ソ艦隊狩りを続行中の「わだつみ」へ補給を行なった。そのまま、今度は喜望峰を回って豪州の南部を通過し、世界一周をしてあと二週間もすると海底軍艦基地に帰投する。大西洋での戦局と、豪州東部に残存する米太平洋艦隊の動向を無線の傍受などで探るのが目的だった。

 結果は、ほぼ予想通りだった。大西洋は依然として膠着状態。豪州東部の米艦隊は、傷を癒すのに手いっぱいと言う状況だった。

 長期にわたる任務から解放され、「くしなだ」の乗員には休暇が与えられることになる。偽造された身分ではあるが、上陸して羽を伸ばすことが許されるのだ。最近は、暇があるとその話題ばかりだった。

「吉野、お前はどうする?」

 機関員の滝沢仁は、同僚の吉野達郎よしの たつろうに声をかけた。休暇中と言っても、機密保護のために団体行動となる。表向きは、とある大企業の社員旅行という形で、いくつかの班に分かれて観光などに行くことになっていた。引率者にはI機関の者が付き、密かに監視も行なわれる。

 例えお目付け役がいるとしても、滝沢たちの組は開戦前からずっと、艦と訓練施設のどちらかで過ごしてきたため、給金もたっぷり貯まっていた。初めての休暇で気分が高揚するのは当然だ。

 機関長の平野平に、何度となく「お調子者」と言われるほど屈託のない滝沢に対して、吉野は物静かな青年だった。中肉中背で特徴のない顔立ちなこともあり、印象が薄い。対照的な二人だが、前回の配置換えで同じ当直班になったせいか、最近は一緒にいることが多かった。

「僕はそうだな、東北の温泉巡りかな」

 吉野の言葉に滝沢は鼻を鳴らした。

「爺臭くねぇか? 夏が終わる前に海だろ、若人なら。江の島に湘南!」

 戦時中とは思えない滝沢の言いぐさだが、それだけ今の日本は好景気に沸いていた。I計画による国力の増強が上手く行った証拠でもある。

「少しでもいいから、故郷の近くに行きたいんだ」

 吉野の故郷は東北の寒村だと、滝沢は以前聞いたことを思い出した。

「ホオムシック、て奴か? でも忘れるなよ」

 念を押そうとする滝沢に、吉野は笑って言った。

「わかってるさ、気を付けるよ」

 故郷を訪れることも、入隊以前の自分を知る者に接触することも禁止されていた。それは十分わかっているつもりだった。


 船から降りると、二十代の女性が一行を出迎えた。

「お久しぶりです、肇さま、光代ちゃん、修くん」

 修はすぐに気付いた。

「美鈴さん!」

 光代は最初、思い出せないようだった。美鈴と暮らしたのは小学校に上がる前だからか。しかし、やがて涙を浮かべ、飛びついた。

「美鈴お姉ちゃん!」

 美鈴も涙をこらえながら、光代を抱きしめた。

「光代ちゃん、大きくなったね」

 六年ぶりの再会だった。

 そこへ、冴木が声をかける。

「積もる話もあるでしょうが、車の中でもできますよ。こちらへ」

 駐車場には美鈴が用意した車があった。

「シンガポールとはシンガプーラの英語読みです」

 港から車で市街に乗り入れると、運転しながら冴木が話し出した。

「マレー語でシンガはライオン、プーラは都市です。昔、マレーの王族がこの地を訪れたときに、ライオンが現れて統治をゆだねた、という故事が由来だとか」

 シンガポールは多民族の都市だ。車窓からの眺めでも、そう見て取れた。地元であるはずのマレー人はむしろ少なくて、華人が多く印度インド系がそれに続くようだった。店の看板や広告にも、多様な言語が使われていた。

「ここでは美鈴の中国語が非常に役立ってます」

 なるほど、と肇は頷いた。

「へぇー、修ちゃんも美鈴さんと知り合いだったんんだ」

「そう、日本に来る前に」

「あんな小さかった光代ちゃんが、もうすっかりお嬢さんだね」

 車の後部座席では、美鈴を挟んで光代と修が、ずっと会話に華を咲かせていた。


 ここでの肇の予定は、かなり過密なものであった。何しろ、マレーとインドネシアの指導者と連続して会談を持つことになっているのだ。

 これらの国々は、現時点で独立できるほどには内部がまとまっていないため、大東亜会議に代表者を送ることはない。そのため、民間レベルでの協力を申し出ることになっていた。

 肇にしてみれば、タイの時のように馬子にも衣裳をされないだけ、気が楽だと言えた。

 その数日後。

「済みません、こうなったら全員を一堂に集めてもらえませんか?」

 ボリボリと頭を掻きながら、肇は冴木に向かって言った。まずもって、マレーの代表者が決まらない。そもそも、イギリスが植民地化する前のマレー半島は、個別にスルタンが支配する小国に分かれていた。そこから代表を選ぶと言っても、まずは選挙という概念から徹底する必要があった。

 これに対して、インドネシアの指導者はスカルノとモハマッド・ハッタの二人にほぼまとまったが、二人とも自分が先に会談をすることを求めたため、こちらも日程が二転三転してしまっているのだ。

「余計、話が混乱するのでは? せめて、マレーの方も一人かそこらに絞らないと」

 冴木の言葉に、肇も渋面で考え込んだ。

「いっその事、くじ引きにしましょう」

「いや、それは流石に」

 苦笑する冴木に、肇は言った。

「彼らの殆どはイスラム教徒なんでしょう。なら、神様の言う通り、と言うことで文句なし。そもそも、これは民間協力の話で、政治色は抜きですから」

 意外にも、これはマレー側に受け入れられた。結果、選ばれたのはクダ王国スルタンの血を引く、トゥンク・アブドゥル・ラーマンであった。

 三人の代表者との会談は深夜にまで及んだが、特に熱がこもったのは教育面であった。スカルノは訴えた。

「私たちもオランダ人向けの学校に入学することは出来ました。人数は限られましたが。しかし、テストで百点を取ることは許されないのです」

 これには肇も面食らった。

「許されないとは、どういうことですか?」

「被支配部族と言うことで、点数が割り引かれるのです。満点でも成績表には八十点とされます」

 つまり、オランダ人の生徒よりも高い点数を取ることは許されないということだ。それまで何かと意見が対立していたハッタも、この点はスカルノに同意した。オランダ本土への留学も、制限が厳しかったらしい。現地人の大学への進学は、年間十人程度しかいなかったという。

 ラーマンが口を開いた。

「イギリスの支配下でも、流石にそれはありませんでした。成績が優秀なら、イギリス本国の学校にも留学できましたし。ただ経済面では苛烈な締め付けがあり、主要な産業は支那やインドから連れてきた労働者に独占させ、イギリスに反抗的だったマレー人を徹底的に排除しましたが」

 同じ西欧列強でも、支配のやり方は国ごとに特色があるようだった。

「そこはオランダの支配も一緒です。さらに、反乱勢力が育たないように、集会そのものも厳しく取り締まられました。三人が集まって世間話をしているだけで逮捕です」

 ハッタの言葉にスカルノも頷いた。人為的に多民族化させて民衆を分断する部分は、どうやら共通なのだろうか。このシンガポールでも、その特徴ははっきりと見て取れた。

 肇は三人に向かって言った。

「教育に関しては、フィリピンなどで行っているように、現地語での授業を重視し、評価の平等も保証しましょう。経済面も、民族による差別の撤廃はお約束します」

 あくまでも肇の助言が通ればの事だが、I計画で築いた学術や産業界とのつながりは活かせるはずだった。しかし、産業面での既得権益を握っている華僑などの反発は予想されたので、微妙な舵取りが必要になることは間違いないだろう。

 また肇はこの三人に、大東亜会議に出席できない代わりに、別途、日本に招いて見分を広めてもらうことを約束した。

 肇がこうして何とか予定の会談をこなしていた間、光代と修は美鈴の手配で観光を楽しんだようだった。ここでも、イギリス人が撤退した分を日本人が埋めていく、フィリピンとよく似た状況となっていると言う。

 最初の計画では、シンガポールからは海路でジャカルタへ向かうつもりだった。そこからなら空路で帰れるためだ。しかし、ジャワ島の南側に米軍の潜水艦が出没し始めているという情報が入り、危険を冒すわけにはいかないため、台湾まで直行で戻ることになった。

 一週間もの船旅と聞いて光代は不満げだったが、船酔いを克服した村雨修の方は、冴木に海釣りを教えてもらえると聞いて喜んだ。結局、光代の方も美鈴と一緒の時間を楽しむことができたようだ。もはや、はた目にも本当の姉妹としか見えなかった程だ。


 そして、一同が帰国した翌月。

 昭和十七年九月に、東京にて大東亜会議が開かれた。了の世界よりも一年早く。

 まさに、日本の影響力が最大となった、その時であった。


登場人物紹介


実在する人物には【実在】としています。


辻政信つじ まさのぶ

【実在】階級は大尉。

名前のみ登場。史実ではノモンハン事件の戦闘を拡大させ、シンガポールでは華人系の反日ゲリラ摘発で大量虐殺を引き起こした。


ルイス・アレクサンダー・スローティン

【実在】ユダヤ人、カナダ国籍の核化学・物理学者。

野心溢れる青年。本作では芹沢の部下となり、原爆開発をリードする。


吉野達郎よしの たつろう

海底軍艦「くしなだ」機関部員。

同僚の滝沢とは対照的に、物静かな文学青年。


スカルノ

【実在】インドネシア国民党の指導者。

後のインドネシア共和国初代大統領。


モハマッド・ハッタ

【実在】インドネシアの民族主義運動家。

後のインドネシア共和国初代副大統領。


トゥンク・アブドゥル・ラーマン

【実在】クダ王国スルタンの血を引く。

後のマラヤ連邦初代首相。


次回 第三部第一話 「二つの宣言」


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