第五話 記憶の檻
昭和三年十一月。
東京電気社の研究室を訪れるのは久しぶりだった。この一年あまり、こうして日本中の各分野の研究を見ていると、一つの分野が壁にぶち当たると別の分野で画期的な進展があることが多い。
仁科芳雄博士の原子力や高柳健次郎のテレビジョン班が悪戦苦闘している裏で、仙台の八木・宇田の電波探針儀は着実に成果を積み重ねていた。
そして、帯式蓄音機と名付けられた録音・再生装置、すなわちテープレコーダーは、目覚ましい発展を見せていた。I資料を元に量産に成功した高性能電磁石と磁性帯のおかげで、小型化と音質の飛躍的な向上が見られたのだ。
石動肇の前に置かれた装置は、かろうじて肩に下げて持ち歩ける大きさと重量に収まっていた。だが、注目すべきは磁性帯の方だ。前回の試作品に比べて幅が半分以下になり、一定時間の録音に必要な磁性帯の長さも減っている。それだけ、音声の記録密度が上がったということだ。にもかかわらず、音質まで大幅に改善されている。
「すごい大進歩ですね」
肇は正直な感想を述べた。同行した由美は、いつものように一歩引いて寄り添っている。案内役の部長は、秋深しにも拘わらず、吹き出た汗を拭いながら答えた。その禿げ上がった頭部が、窓からの夕日に照らされる。
「いや、I資料のおかげです。あれのおかげで、磁性体に最適な材料が見つかりました」
あの砂を噛むような書写が役に立ったのか。
「開発担当者の方に会えますか?」
最近は、開発における苦労話などを聞くのが楽しみになってきた。それがまた、他の開発でのヒントにもなる。
「はい、おりますよ。おーい、芹沢君」
その名前に、肇は季節外れの雷に打たれた。
あいつか? そう、確かにあいつなら……。
「はい、部長。……石動?」
やはりそうだった。振り向くと、学生時代の旧友、芹沢良一がそこにいた。
「貴様だったのか」
感無量という石動を見て、管理職の中年は曇った眼鏡を拭いてかけなおした。
「ほう、芹沢とはお知り合いでしたか。積もる話もあるでしょうから、ごゆっくりどうぞ」
そう言うと部長は退出した。研究室には、石動と由美、そして芹沢の三人だけとなった。由美は芹沢に会釈したが、無言だった。
しばしの沈黙ののち、肇が口を開いた。
「二年ぶりか」
「そうだな、お前が大学に出てこなくなってから」
旧友の言葉に、肇は頭を掻いた。
「いやまぁ……」
肇は言葉を濁し、話題を変えた。
「それより、節っちゃんは元気か? 済まないな、結婚式にも行けなくて」
林節子は、石動と芹沢が通う帝大の図書館で働く女性だった。二人とも彼女に恋し、いつも三人一緒にいたものだった。二年目の夏までは。
夏季休暇、父親が他界し富山の実家に帰省していた石動に届いたのは、芹沢と節子の結婚式の招待状だった。
「もうあれか、子供の一人くらい……」
「節子は死んだ。結婚前に。車にはねられて」
予想外の返事に、肇はしばらく言葉に詰まった。やっと絞り出した一言。
「そうか……済まん」
「こっちこそ済まない。自分のことで手いっぱいで、石動、貴様に連絡することもできなかった」
それはそうだろう、と芹沢の言葉に肇は頷いた。今の自分も、相当混乱している。
田舎の出身で、それまで女性と碌に話したこともなかった肇にとって、節子は初恋の人だった。大学に入って芹沢に連れられ図書館を訪れた時、応対をしてくれた職員が彼女だった。学術書に関する芹沢の質問に、彼女はてきぱきと答えていた。やがて彼女は肇にも、何か質問は、と水を向けてきた。
ただ彼女に見とれていた肇には、何もなかった。切羽詰って、つい聞いてしまったのが、「お歳はいくつですか?」という愚問。それに、彼女は平然と答えた。
「レディに歳を聞くものではありませんよ」
大人びた落ち着きに救われた気がした肇だった。
石動と芹沢は、頻繁に図書館を訪れた。節子の前で読書量を競うくらいだった。自然と、喫茶店で彼女を伴い、読んだ本の内容などを話し合うようになった。やがて、三人で連れだって出歩くことも多くなっていった。
その彼女は、結局、芹沢を伴侶に選んだ。周囲には寡黙な印象を与える芹沢だったが、肇が知るその内面は、世の中の不合理、特に権力の汚職や横暴に熱い怒りを持つ正義漢だった。そうした彼の生真面目さが、聡明な節子の心をとらえたのだろう。
翻って、肇は己の愚かさに恥じ入るばかりだった。単純に、自分の男としての魅力が足りないからだという劣等感にさいなまれ、それを打ち消さんとして、講義にも出ず夜の遊びにふけるようになった。女性が苦手と言う点を克服しようと、手当たり次第に女性を口説き、何時しかそれが楽しみと化していた。石動了に捕まるまでは。
ふと旧友に目をやると、芹沢はうつむいて唇を噛みしめていた。
「すまん、芹沢。つらい事を思い出させちまったな」
石動の言葉に、芹沢は首を振った。
「良いんだ。いつまでたっても吹っ切れない俺が弱いだけだ」
芹沢の言葉は石動の胸に突き刺さった。自分の苦悩など、いかに中途半端だったか。
「今日はもう終わりか? どうだこれから」
芹沢は首を振った。
「ありがたいが、もう少しやりたいことがある」
「相変わらずだな」
生真面目さは、昔から全く変わらないようだ。
芹沢とまた会うことを約束し、肇は由美を伴って東京電機社を後にした。外はすっかり暗くなっていた。陽が落ちるのも早い。
しばらく歩くと、由美が聞いてきた。
「節子さんって、どんな方だったんですか?」
「うーん。インテリな和風美女?」
由美はプイと横を向いた。
「そんな紋切りじゃ、節子さんが可哀想です」
その由美を見て、肇は彼女と節子がよく似ていることに気づいた。顔立ちのような外見ではなく、内面、ものの見方が。自分が上っ面の理解で誤魔化そうとすると、節子はすぐにそれを見抜いた。
だからこそ、自分は由美に惹かれるのだろう。しかし、状況は当時と一緒だった。由美が好意を抱いている相手は、自分でない。
冷たい風が吹き抜け、隣で由美が身をすくめた。
「おや?」
彼女にマフラーを貸そうとして、首にかけていないことに気づく。
「マフラーを置いてきたらしい。東京電気にちょっと戻ろう」
二人で踵を返した。
芹沢は研究室の窓のカーテンを閉めると、作業台の上に資料を並べた。
I資料。政府が特定の国策企業にのみ配布した、門外不出の最高機密。出所は不明だが、そこに記された基礎科学の知識は、どう考えても国際的水準を何年も、いや何十年も引き離している。部長が言ったように、芹沢の開発した磁性帯式蓄音機も、このI資料があってこそ生まれたもの。たった半年で、この成果だ。
この春大学を出て、この会社に入った。そこで耳にした石動の名前。まさか、あいつだったとは。
あいつは全く変わっていない。節子のことも知らずに。
自分の肩掛け鞄から、最近出た小型カメラを取り出す。舶来品のライカより小さく軽い。これもまた、I資料がもとになったに違いないと、仲間内でささやかれていた。
それを、この夏出た俸給で買ったのだから、何やら皮肉なものだ。
作業用の特別明るい卓上灯を点け、開いた資料が閉じないよう、手で押さえて折り目を付ける。そうして一頁ずつ、写真に収めていく。自分の開発した帯式蓄音機の資料は、すでに「彼ら」に手渡してある。あとは、特に持ち出し厳禁なこのI資料だけだった。部長に、今夜中に確認したいところがあると強弁し、特別に閲覧を許されたほどだ。量が多いだけに、そのまま持ち出すのは難しいが、カメラに収めれば問題ない。
何度かフィルムを交換し、あらかた撮り終わったところで、急にドアが開いた。振り向くとそこに、石動がいた。
「芹沢……何を」
長身の石動に隠れるように、結城とかいう女もいた。
社に誰もいないと油断し、鍵をかけなかった。自分の不注意に腹も立ったが、それ以上に高揚している自分に芹沢は気づいた。
平然とフィルムとカメラを鞄にしまい、肩にかける。右手をポケットに入れ、芹沢は口を開いた。
「節子は車にはねられたと言ったな。あれは嘘だ」
「何だって?」
そう。こいつは何も知らない。節子のことも。
「これは復讐だ。節子を殺した奴らへのな」
何もかもぶちまけたくなった。こいつの顔に、叩きつけてやりたかった。
思いがけず饒舌になっていく自分に気づき、ふと、子供のころ読んだ冒険活劇物のクライマックスが思い浮かんだ。なるほど、悪役はこれだから、事の前によく喋るのか。
にやりと笑うと、芹沢は語りだした。
芹沢より一つ年上の彼女は、大正デモクラシーの理想に燃えていた。ある時、たまたま二人で街を歩いていて目にした、道に倒れた浮浪者。無視して通り過ぎようとする自分の腕を掴み、彼女は言った。
「この世から貧困をなくすには、どうしたらいいと思う?」
咄嗟に、芹沢は何も答えられなかった。
「分らないなら……明日の夜、付き合ってくれる?」
思わぬ誘いに驚いたが、実際に連れていかれたのは政治集会だった。語られる内容から、芹沢にはすぐにそれが共産主義のものだと分った。
「共産主義は国家転覆を企ててるんじゃないのか?」
芹沢の問いかけに、節子は笑って言った。
「そんなの大げさ。貧困をなくすには、みんなで働いてみんなが受け取ればいい。それだけよ」
働けるものが働き、その果実はみんなで分け合う。彼女の考えは単純で、それ故に反論の余地もなかった。
何度か彼女と共に集会に出た。そのあとの大人の付き合い。
石動には何も告げなかった。あいつは何も知らない。
屈託がなくよく笑うあいつ。誰とでもすぐ打ち解けるくせに、若い女性の前では固まってしまう。実家は地方の名家で、父親の葬式で一か月以上地元に縛られたという。遺産相続という奴だ。
学資を貯めるために一年浪人した自分とは大違いだ。在学中も、工事現場などで働き続けた。貧困は、常に隣にあった。
生まれによる格差。矛盾。それらは芹沢を共産主義へと駆り立てていった。
石動が不在の夏の間に、芹沢は節子と婚約した。秋になったら結婚するはずだった。
芹沢は夏季休暇の間、結婚資金を稼ぐために日雇いの量を増やした。自然、集会に出かける回数も減った。他方、節子は頻繁に参加し、目立つ存在になっていった。
それが二人の運命を引き裂いた。
昨年の京都学連事件以降、共産主義への弾圧は苛烈になっていた。そうした公安当局の手が、節子たちのグループにも伸びてきていたのだ。
その夜も、節子は集会に行き、芹沢は夜の工事現場で働いていた。深夜、芹沢が帰宅すると戸口の前にうずくまる人影が居た。集会でよく合う仲間の一人だった。一斉検挙があり、仲間のほとんどは捕まったという。節子も。
その後は記憶にない。無我夢中で警察などを回り、最後に通されたのは死体安置所だった。節子は、仲間を逃がすために激しく抵抗したという。女性で目立つということもあり、集中的に暴力を加えられた結果、節子は死んだ。
うそだ。
検視のため、全裸にされて横たわる体は痣だらけだった。両腕は骨折し、骨が飛び出ていた。顔は原型をとどめていなかった。
違う、節子じゃない。
信じたくなかった。こんな現実は否定したかった。だが、折れ曲がった左腕の薬指にはまっているのは、確かに、芹沢が送った婚約指輪だった。安物だったが、何日もきつい日雇いをして、やっと買ったものだった。
貧困をなくしたい、ただそれだけを願っていた節子。
そんな彼女を、虫けらのように捻り潰した、この国が憎い。
「あの時、俺の心は死んだ。そして、復讐を誓って黄泉返ったのさ」
石動は、初めて聞かされた真実に凍り付いていた。
節ちゃんが共産主義者? 芹沢も?
芹沢は追及するように、左手で石動を指さした。
「節子に何の罪があった? 貧困も格差もない社会を目指すことのどこが悪い?」
「……それは」
「俺はこの国を憎む。格差の上に胡坐をかく、全ての国を憎む。だから全部、ぶち壊す。その上で平等な世界を築く」
「芹沢、貴様は……」
左手を石動に差出し、芹沢は続けた。
「このI資料、お前が作ったんだろうが。何があったか知らんが、その才能は人類のために役立てるべきだ。貧困も戦争もない世界を作るために」
肇は凍り付いたままだった。芹沢が言うことは、了とどこが違うのか。
「石動、俺と来い! 世界を作り替えよう。お前が必要なんだ!」
「肇……さん?」
背後で由美の声がした。肇は、はっと気づいた。
「壊すんじゃない。俺は守る」
混乱し砕けたピースが、今、カチリと音を立ててはまった。
「壊せば人が傷つく、人が死ぬ。節ちゃんのような娘が。だから俺は、この国を守る。この国を、世界を変えられるような国にする」
肇の決意。今までどこか、了の言葉に流されて来た気がする。しかし、これは自分の意志だ。この国と、そこに属するすべて。由美もその一部だ。この会社で、日本中で、研究開発や生産をしている人々も。その家族も。
芹沢の顔には歪んだ笑みが浮かんでいた。
「そうか。それがお前の答えか。だったら、邪魔はするなよ」
右手をポケットから出した。そこには拳銃が握られていた。
修練で身に着いた反射で、肇は咄嗟に身体をかわして反撃しようとした。だが、理性がそれを押しとどめた。背後には由美がいる。避ければ彼女に当たってしまう。
凍り付く肇に、芹沢は言った。
「さらばだ」
傍らの椅子にかけてあったコートを取り、もう一つのドアから出る。非常口だ。
「芹沢!」
窓辺に駆け寄り、カーテンを押しのけ下を見る。そこは駐車場だった。芹沢は止めてあった小型バイクに跨ると走り去った。
「肇さん……これって」
背後で由美が呟く。
「そうだ。これは、まずい」
肇は電話に飛びついた。警察へ。
芹沢は日本を出るだろう。行先はあの赤い国しか考えられなかった。
「鋼鉄の人」スターリンと尊称されるソビエト連邦主席、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリは、目の前に直立不動で立つ日本人を凝視した。その眼の光だけで何人の命を奪ったことか。一万や十万では遠く及ばない。
芹沢は戦慄しつつも、気圧されずに見つめ返した。ここで殺されるなら、所詮、自分はそれだけの存在だ。世界を作り替えることなどできるわけがない。
と、スターリンの頬が緩んだ。
「同志、リョーイチ・セリザワ」
「ダー」
ロシア語で芹沢は答えた。
「君は、非常に興味深いものを持ち込んでくれたそうだな」
椅子に座ったまま、執務机の上に並べた品々を手で示す。そこには芹沢の帯式蓄音機を初めとして、I資料による各種の研究の副産物が並んでいた。皆、東京電気で芹沢が入手し、工作員の手でソ連へ送り込んだものだ。スターリンはペーパーブック大の箱を手に取った。石動が作った電子ソロバンの半導体を使った改良版だった。電源を入れると上面に並んだ八桁分の釦電球が点り、加算だけでなく減算もできるようになっている。
しばらく操作した後、スターリンは電子ソロバンを放り出した。
「同志、ベリヤ。これらの価値は?」
スターリンの腹心ラヴレンチー・ベリヤは、特徴的な丸眼鏡をかけなおすと言った。
「驚異としか申し上げようがございません」
GPU、国家政治保安部の長として辣腕をふるって来たベリヤは、科学的素養は無いものの、情報を得るために部下を操る術には長けていた。
「報告を総合するに、これら日本の工業製品は、すでに欧米のものをはるかに凌駕しております」
ふん、とスターリンは鼻を鳴らした。口髭が震える。
「で、その素晴らしい進歩の秘密を、同志セリザワが今回手土産にしてくれたのだな」
芹沢の目を見て言う。芹沢は黙ってうなずいた。
ベリヤが、何枚もの写真を閉じたファイルを執務机の上に置いた。
「これがそうです。彼らはI資料と呼んでいます」
ファイルを開くと、東洋の「漢字」とか言う文様と、数式や記号、グラフがびっしりと書かれた書類が、何枚も写真に撮られていた。
「同志セリザワ。このI資料とは、いったい何かね?」
スターリンの問いかけに、芹沢は答えた。
「端的に申し上げるなら、これは予言書です」
「予言?」
スターリンの眉間のしわが深くなった。無神論の国ソビエトで、神がかりな発言は命とりだった。
しかし、芹沢は構わず続けた。
「この問題について研究せよ、さらば、こうした結果が得られるであろう。その繰り返しです。実際に実験してみると全く同じ成果となります。また、示唆された地点を掘れば、そのとおりの鉱石が産出します。科学研究や技術開発に必要な試行錯誤がその分短縮され、進歩が加速されます」
「ふむ。なるほど」
頷くと、スターリンはベリヤに向かって問いかける。
「今、同志セリザワが言った通りの価値が、I資料にあると思うかね」
ベリヤは頭を垂れた。
「恐れながら同志、その検証を行っている最中であります。さらに……」
言いよどみ、スターリンの目に促されて続ける。
「我がソビエトの科学技術レベルでは、この資料の検証実験だけで、十年はかかるとの報告が」
「十年!」
スターリンの怒気にベリヤは首をすくめた。日露戦争で大国ロシアを下したとはいえ、東洋の小国にそこまで後れを取るとは。
芹沢が口を開いた。
「同志スターリン、私に考えがあります」
スターリンは東洋人の若造に向き直った。
「聞こう」
「ここは、日本を砕氷船として利用すべきです」
「ふむ?」
「日本に技術開発をさせ、彼らが切り開いた成果を我々がものにしていくのです」
スターリンは切り替えした。
「だが、それでは永遠に日本の後塵を拝すことになるではないか」
芹沢はひるまなかった。
「そこで、もう一隻の砕氷船を用意します。アメリカです」
スターリンは目を見開いた。母国ばかりか、今度はアメリカを利用するだと?
「アメリカは日本の満州政策に不満を持っています。ここを突いていけば、早晩、日本と対立するでしょう。このアメリカにI資料を渡せば、日本以上の科学技術の発展が見込めます。そして、二隻の砕氷船が相打てば、眼前には青い海が広がります」
椅子に深く座り直し、前に立つ青年を見つめた。
「そんなことが可能かね?」
「私自身は予言者ではありません」
芹沢は続けた。
「ただ、十年を無駄に過ごすべきでないのは確実です」
芹沢の目に宿る光を、スターリンは見つめなおした。
I資料が持ち出されたと聞いて、石動了は意外にも冷静だった。
(あれは早晩、漏洩すると見込んでいた)
「漏れて大丈夫なんですか」
(問題がなくはない。ただ、科学技術の進歩だけでは、世の中は変わらない)
肇の頭に疑問が浮かんだ。
「いや、未来の科学技術で変えるんじゃなかったんですか? 歴史の流れを」
了は答えた。
(科学技術だけではない。知識だ。最たるものは、歴史に関する知識)
「あ……」
そうだった。肇たちから見れば、未来にいる了は予言者と同じだ。今後起こることが、まさしく年表として彼の目の前にあるのだ。
(それに、状況から見てI資料の最後の数頁は盗まれなかった可能性が高い)
芹沢は写真に納める時にページが戻らないよう、強く折り返していた。その折り目は、最後の数頁には入っていない。そこに記載されていたのは、原子力の発見につながる手がかりとなるものだった。
(この部分が仮に手に入ったとしても、今の仁科君たちに並ぶだけだ)
理研の長岡研究室で、仁科芳雄は先日、ついに中性子を発見した。原子力の鍵となる素粒子だ。
(だが、そこから原子力の実用化までは、まだ何段階も必要だ。そこは直接、ヒントを与える予定だった)
「じゃあ、安心していいんでしょうか?」
(そうとも言えない。何よりも芹沢良一だ。彼は私にとっても全く未知の存在だ。先が読めない)
「あいつが……」
世界を変える。芹沢も同じことを言っていた。
「了さんの時代では、共産主義ってどうなってるんです?」
(壮大な社会実験と言えるかな。結果的に失敗に終わった)
手厳しい。
「じゃあ、ソビエトは?」
(二十世紀の終わりに崩壊した)
愕然とした。
「え、じゃあその時に世界大戦が?」
(なかった)
「……なかった?」
(そう。何もなかった。巨人が脳卒中でも起こしたように、突然自ら倒れたのさ)
アメリカとの核兵器を含む軍事拡張競争が経済を圧迫したのが原因だという。
「ひょっとして、核兵器が無くなったら、歴史の流れが大きく変わりますよね。ソビエトも?」
(あるいは)
肇は考え込んだが、もちろん結論は出なかった。やってみるしかないだろう。相当長生きしないといけなそうだが。
もう一つ、やってみるしかないことがあった。結城由美のことだ。芹沢に向かって、自分は「壊すのではなく守る」と言った。守る対象の第一は、何よりも由美だった。ならば、今のような秘書という関係は違うと思うのだった。
「はい、わかりました。お受けいたします」
肇の一世一代のプロポーズのはずだった。色々考えをめぐらし、言葉も考えた。その答えがこれだった。
「え……でも」
思わぬ進展にうろたえる肇だが、由美はあっけらかんとして言った。
「私、石動了先生をお慕いしておりますが、先生と肇さんはいわば一心同体ですし」
非常に納得がいかないところがあったが、婚約は成立した。
そこへ、了からの助言があった。すぐにでも式を上げたほうがいいという。
「まさか、きな臭いことが?」
了は無言だった。
一応、善は急げという事で、あとは媒酌人だった。I資料がらみの年長者を考えたが、人数が多すぎる上に一人を特別扱いというわけにも行かない。微妙な競争意識が芽生えているようなのだ。
そこで思いついたのは、先日お世話になった高橋是清大蔵大臣だった。現職大臣が相手なら、誰からも文句が来るはずがなかった。
達磨とあだ名される高橋翁は、媒酌人を快諾してくれた。だが石動の立場上、大々的に式を行って注目を集めるわけにも行かない。式はしめやかに密かに行われた。
昭和三年の暮れである。
翌年十月、由美は長女を出産した。時代を照らす光になって欲しいという願いを込めて、光代と名付けた。
了の予言通りに世界恐慌が始まったのは、そのすぐ後だった。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
芹沢良一
石動の元親友。本編のもう一人の主人公。
節子と出会い、共産主義を信奉するようになる。
林節子
芹沢の婚約者。石動の初恋の人でもある。故人。
共産主義の活動家だったため、官憲に殺害される。
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ
【実在】通称、鋼鉄の人「スターリン」。
ソビエト連邦主席。
ラヴレンチー・ベリヤ
【実在】国家政治保安部(GPU)の長。
石動光代
1929年10月17日生まれ。
肇と由美の長女。
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