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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第二部
49/76

第二十一話 二つのタイ

 マニラからタイ王国の首都バンコクへは、これも空路一日、約八時間の旅だった。

 例によって機上で爆睡した肇には、陽光が目の裏側に突き刺さる。定時連絡の際、了に「二十一世紀には飛行機恐怖症の薬は無いのか」と聞いたが、一笑に付されてしまった。意識を時間遡行させる技術があっても、大脳の神秘はほとんど解明されていないらしい。

 緯度はほとんど変わらないため、マニラの時のような気候の大きな違いは気にならなかった。違いはむしろ、街並みや道行く人の服装だろうか。

 その時、一同の前にオープンカーが止まった。運転していた男がサングラスを外し、肇たちに声をかける。目が細く、いつも微笑んでいるように見える顔だった。

「石動閣下の御一行ですね。私は菊池と申します。どうぞお乗りください」

 冴木が言った。

「私の同僚です。ここ、バンコクの担当者です」

 皆が乗り込むと車は走り出した。冴木がマニラでやったように、菊池もホテルに向かう前に市街を回ってくれた。

「お坊さんがいっぱいいるね」

 光代が道行く人並みを見て言った。橙色の袈裟を着て剃髪した姿があちこちに見られ、列をなして歩む一団もいた。

「光代ちゃん、あまりお坊さんを見つめちゃだめですよ」

 運転しながら菊池が言った。

「お坊さんは俗世から離れて修行している身ですからね。特に、女性は絶対に、お坊さんに触っちゃいけないんですよ」

 仏教を国教とするタイでは、国王に次いで僧職者が尊敬されていている。むしろ、全国民の男子が生涯に一度は出家すると言ってよい。奇跡的な外交の巧みさにより、欧米列強の支配を一度も受けなかったことと、この仏教とを合わせて、タイには独自の文化が育っていた。

 この点は、先に訪れたフィリピンが、何百年もの間スペインや米国により植民地支配を受け、キリスト教と欧米の文化に染められていったのとは逆と言える。

 日本の寺社仏閣が色調を抑えた「侘・寂」なのに対し、こちらは金色や朱塗りの絢爛豪華という違いはあるが、郊外に広がる田園風景はとても親近感を覚えるものだった。ここでも日本からの「緑の革命」は進行中らしく、実りは上々に見えた。

「でも、日本の寺社仏閣も、建設当初はこちら並みに原色系だったそうですよ」

 菊池の解説に、光代が返した。

「東照宮! 日光の!」

 去年、修学旅行で訪れた時の記憶のようだ。なるほど、あの色彩の鮮やかさには通じるのかもしれない、と肇は納得した。


 ホテルの部屋に着くと、肇を待ち受けていたのは第二種礼装の軍服だった。

「あの、冴木さん、これは……」

 熱暑にも拘わらず、冴木は涼しい顔だった。子供たちはロビーで待たせてあり、菊池はその相手をしている。

「勝手ながら、ご自宅から運ばせていただきました」

 それは窃盗とどう違うのだろうか、と肇は訝しんだ。

「ピブーンソンクラーム首相が石動閣下とお会いになるそうです」

「ワンワイ殿下じゃなかったんですか」

 タイは日本と同じ立憲君主制で、年若い国王ラーマ八世はスイスに留学中だった。肇は王族のワンワイタヤーコーン親王殿下との会談を希望していた。了の世界で首相の名代として大東亜会議に出席したのがこの殿下だったからだ。実際、ほんの数日前まではその方向でまとまりつつあった。

 今回タイを訪れたのは、首相も共に来日するよう、親王殿下を説得することが第一の目的だった。

「その件なんですが」

 軍服を抱えて、冴木が歩み寄ってきた。

「ピブーン首相が、このところ急に大東亜会議に関心を示しておられまして」

 肇は次第に部屋の隅に追い詰められていく。

「軍人でもある首相閣下の位が元帥なので、こちらもそれなりの格式がないと」

 壁を背にして、肇も観念した。

「分りました。着ますから。一人で着れますから」

 フィリピンでは私服で問題なかった。型式張らないという一点だけは、米国文化を認めて良いかもしれない。

 肇が軍服を受け取ると冴木は部屋を出たが、見ると軍服の上にメモがピン止めされていた。ピンを外してメモを読むと、肇は目を見張った。


 肇が着替えて部屋を出ると、ロビーで待っていた光代が口元を押さえ目を丸くして見つめた。思えば、この姿を見られるのは初めてだった。裏口からでも出るのだった。

「お父さん……なにそれ……やだ」

 慌てて肇は駆け寄り、いつものように光代の視線に合わせて身をかがめた。

「いや、光代、これには事情があって」

「……かっこいい」

 光代は瞳を輝かせて呟いた。それに気づかず、肇は言い訳を続ける。

「これから会う予定の、この国の偉い人が軍人なので、それでね」

 光代は父親の手を掴むとぴょんぴょんと飛び跳ねた。

「お父さんかっこいい! 素敵!」

 突然の反応に、肇はうろたえた。

「えーと、光代?」

 そんな肇に、背後から冴木も言った。

「とてもよくお似合いですよ、閣下」

 どんどん、既成事実化されていくような気がした。

「……というわけで、お父さんはこれから人と会うから、光代たちは今夜は冴木さんとお留守番だ」

 菊池も光代たちに頭を下げた。

「私も今夜は仕事がありますので」

 光代は不満げだった。冴木はその前にかがみこむと、ポン、と両手を顔の前で合わせた。その手を開くと、一輪の花が現れた。

「うわ、すごい!」

 たちまち機嫌が良くなる。

「もっといろいろ出来ますよ。お部屋に戻ったら見せてあげます」

 肇は頭を下げた。

「よろしくお願いします、冴木さん」

 肇は村雨修にも言った。

「よろしく頼むよ、村雨君」

「はい、石動さん」

 直立不動で、少年は答えた。

「ホテルの車寄せまで送りましょう」

 菊池が肇について、出口へ向かった。


 やがてホテルの車寄せから一台の乗用車が出て、大通りを走り出した。後部座席に座る人物は日本海軍の第二種礼装をまとい、軍帽を深くかぶっていた。街灯の光が照らすたびに、純白の生地が夜目にくっきりと映える。

 バンコクの市内をしばらく走ると、車の前に一人の老人がよろめき出てきた。急停止の後、運転手が窓から首を出して叫ぶ。

「危ないじゃないか! さっさとどけ!」

 すると、倒れていた老人は驚くほど身軽に跳ね起き、車を回り込むと運転手の首筋に冷たいものを押し付けた。

「出ろ。さもないと二度と叫べなくなるぞ」

 運転手は引きずり出され、みぞおちを一発蹴られてうずくまった。代わりに老人を装っていた男が運転席に座る。ドアのロックを外すと、同時に周囲の暗がりから黒装束の男二人が現れ、後部座席に乗り込んで両側に座った。そして、左右から軍服の腰のあたりに拳銃を押し当てた。

 運転席の男が言う。

「では、ドライブに参りましょうか。イスルギ閣下」

 後部座席からは返事はなく、軍装の男は身じろぎもしなかった。

 車はやがて港近くの倉庫街へ入り、一つの建物前で停まった。

「降りろ。手を頭の後ろで組め」

 言われるままに車を降り、背中に銃を押し付けられたまま建物の中へと歩まされる。

 中は真っ暗で、高い天井から一つだけの電灯が身の丈よりやや上までぶら下げられ、その下に置かれた粗末な腰掛を照らし出していた。

「そこに座れ」

 良くできたもので、そこに座ると自分は明りで眩しく、周囲は真っ暗で何も見えない。

「ようこそいらっしゃった、イスルギ閣下」

 前方の暗闇から声が響いた。

「残念ながら、こちらは名乗ることは出来ないが、無礼を許してくれたまえ。ちなみに、周囲から何丁もの銃が狙っている。おとなしくしたほうが良いだろう」

 クスクスと笑う声が響いた。

 闇の中の声がうろたえた響きを帯びる。

「何がおかしい!」

 照明に照らされた白い礼装の肩が小刻みに揺れている。俯いていた顔が挙げられ、細い目の笑った顔が光を浴びた。

「だってそりゃ、吹き出しもしますよ。人違いも甚だしいんですから」

 そう言いながら、菊池は細い目をより一層きつく閉じ、両耳をしっかりと指で塞いだ。

 次の瞬間、建物の四方の窓からガラスを破り何かが投げ込まれた。床に落ちた瞬間に爆発し、耳をつんざく大音響と目を射る強烈な光を建物の中にまき散らした。

 それらが治まるや否や、黒い戦闘服の男たちが一気に駆け込んできて、目と耳を押さえてうずくまる者たちを次々に縛り上げて言った。

「やれやれ、まだ耳がガンガン鳴ってますよ」

 耳の後ろを手刀で叩きながら、菊池が立ち上がった。そこへ入り口から肇が現れた。服装は先ほどまで菊池が来ていたものである。

「えらいことになってますね、菊池さん」

 何度も海の戦いに身を置いてきた肇だが、目の前でこうした荒事が起こるのは初めてだった。

「彼らは『自由タイ運動』の構成員です」

 菊池は片手で軍服の皺を伸ばしながら、縛られている男たちをもう一方の片手で示した。

「タイが日本に倣って英米に宣戦布告した時、その伝達を拒否したタイの駐米大使セーニー・プラーモートが中心となって起こした反日組織です。英米の支援で諜報活動の訓練などを受け、ここ本国でもスパイやゲリラ活動を行っていたようです」

 肇は渋面を作った。

「バンコクの治安は非常に良いと聞いてましたが」

 子供連れで呑気にこの地を訪れた、自分の迂闊さを悔いる。

「治安そのものは良いんですよ、本当に」

 確かに、フィリピンのマニラと同様、了の世界に比べると格段に治安が良くなっていた。最大の違いは、日本軍の兵士への訓告にある。これまでの「死して虜囚の辱めを受けず」に替わり、「皇軍の兵は陛下の名代」という考えが強調された。兵士一人ひとりが、外地にあっては天皇陛下の名代として行動すべし、ということだ。そこから粗暴なふるまいは厳罰に処せられるようになり、軍規は非常に高く保たれている。

「今回の事件は、タイ政府が日本に接近し、英国が印度インド、アメリカが豪州に押し込められて、すっかり弱体化した挙句の足掻きでしょう」

 その時、床に転がされた男の一人が叫んだ。

「タイは日帝の支配など受けん! 自由タイ万歳!」

 そのまま目を閉じたまま立ち上がり、肇の方へと盲滅法に突進してくる。肇は一歩下がりながら男の腕を引き、相手の体勢を崩して背後に回り込むと、取った腕を背後に捩じりあげて抑え込んだ。

 菊池は一層目を細めて言った。

「お見事です、閣下」

 肇に抑え込まれたまま、男は黒い戦闘服の一人にみぞおちを蹴られ、悶絶した。

「あまり手荒なことはしないでください」

 立ち上がると肇は菊池に懇願した。菊池は頷いた。

「はい。ゾルゲ事件と同じ方針で臨みますから」

 開戦の直前、I機関が尾崎秀実などゾルゲ諜報団のスパイを捕らえ、転向させて逆にソビエトの情報を引き出していたという。それと同じことをするというわけだ。

「英米が亜細亜に対して行って来たことを考えれば、彼らがタイに自由をもたらすはずがないんですけどね。愚かなことです」

 笑顔にしか見えぬ表情で辛辣な批判をする菊池を見て、肇は複雑な思いだった。

 肇は呟いた。

「日本も、日支戦争では偉そうな事は言えませんけどね」

 一時期、日本軍の規律が落ちたことは否定できない。先の大戦までは、士官クラスのほとんどは士族の家系が多く、規律は高く保たれていた。その後は平民出身の将兵が増え、日支戦争では一部で略奪などの不祥事も起きた。その部分だけを見れば、嫌忌されても仕方がない。その反省から軍規が見直されたのだが、現在でも内地以外で教育された部隊の規律を維持することが重要な課題となっている。

「ところで、タイ首相との会談をすっぽかしてしまった形ですが」

 肇の言葉に、菊池は相変わらずの笑顔で答えた。

「大丈夫です。襲撃があった時点で、首相へは冴木から連絡が入っているはずです。石動閣下は旅の疲れで体調を崩したため、今夜の会談はキャンセルしますと」

 光代たちと別れてホテルから出る前、ロビーから車寄せに移動する途中でトイレに立ち寄り、そこで二人は服を交換した。そして、肇は別な車に乗り、軍装の菊池が乗る車の後ろをI機関の実行部隊と共に尾行したのだった。何事もなければ、着いた後で再び入れ替わる予定であった。わざわざ人目のあるロビーで軍服を見せつけることで、餌を撒いたわけだ。

「なので、公式には今日の事件は無かったことになります。明日にでも会談は持たれるでしょうから、問題ありませんよ」

 笑顔を張り付けたまま、菊池は語った。

 この日、親日と反日に分裂していた二つのタイの一方が消滅したこととなる。


 その夜の定時連絡で、肇は了に疑問をぶつけた。

「一体、『自由タイ』の連中の目的は何だったのでしょう」

(状況から見て、日本の要人を人質に取り、日本政府との交渉の駒にするつもりだったのだろう。そこをI機関が逆手に取ったわけだが)

 了はしばし考え込んだ。

(肇、君の正体を探ることだった可能性もある)

 肇にとって、これは意外だった。

「正体も何も、自分は自分ですよ」

(はたから見ればそうは行かない。日本の驚異的な科学技術の発展に貢献しているのは明らかだ)

 確かに、原子力の仁科博士をはじめ、各分野の要人とは直に接して来ている。

(芹沢がI資料の一部を持ち出したことで、石動肇という特異な人物が存在することが、他国に広まっている可能性は否定できない)

「嬉しくない状況ですね」

 そんな形で注目されても困る。

(君が表舞台でマークされることは避けたい。この旅を続けるのなら、人目を惹かないように注意が必要だな)

 それは願ってもないことだったが、I機関が放っておいてくれるかどうか。


 翌日、繰り延べられたピブーンソンクラーム首相との会談は、首相府で行われる晩餐会を挟んで行われた。表向きはタイ北方のビルマが英国植民地から解放されたことを祝う催しだったが、実はビルマ関係者は招待されていなかった。

 首相府はバンコクの中心部にあり、歴代の国王が建設したいくつもの宮殿に取り囲まれていた。東側には広場があり、西側には瀟洒な洋館がいくつも建てられている。建物自体は洋風だが、茜色の屋根にはタイ独特の装飾がなされていた。

 肇の乗った車は、それらの一つ、迎賓館と思しき建物に横付けされた。車から出ると、玄関に人だかりがあった。そこが二つに分かれると、やはり軍服に身を包んだ痩身の初老の男が降りてきた。

「ようこそおいでいただきました、イスルギ元帥閣下」

 通訳の声に、肇は眩暈を感じた。またもや、階級が勝手に上がっている。元帥となると、日露戦争に勝利した東郷平八郎のような、陸海軍で頂点に立つ立場だ。連合艦隊司令長官の山本五十六より上となってしまう。

 じっとりと首から下に汗が滲んだ。こんな調子で晩餐会というのは、悪い冗談としか思えない。昨日に続いて、体調不良でキャンセルできるものならしたかったが、さすがに無理だ。

「ピブーンソンクラーム首相閣下、お会いできて光栄です」

 長い名前がよどみなく言えて助かった。その後もいくつか通訳を挟んだ挨拶の応酬があった。首相は若いころフランスに留学しており、フランス語には堪能だが英語は苦手と言う事だった。逆に肇は英語が何とか使える程度。通訳がいるのはありがたかった。

 ちなみに、昨夜の襲撃のことは双方とも完全になかったことにされている。外交的配慮というものだ。

 首相自らに案内され、肇は迎賓館に入って行った。

 晩餐会は戦時中にもかかわらず豪華なもので、供された料理も申し分のないものだった……はずだ。残念ながら、肇には料理を味わう余裕など皆無だった。しかも、昨夜はこれと同等な料理が、すべて無駄になったわけだ。無下に断ることもできず、胃腸を酷使することになった。

 晩餐会が終ると、肇は首相に誘われてテラスに出た。二脚の籐で編まれた安楽椅子が置かれ、二人がそこに腰かけると給仕がやってきた。英語で注文を聞かれ、肇は珈琲を頼んだ。首相はワインのようだ。

 しばし沈黙の後、給仕が珈琲とワインを二人の間の卓に置いて行った。肇が珈琲を一口すすると、首相がフランス訛りの強い英語で聞いてきた。

「ところで、イスルギ閣下。昨夜の件ですが……」

 さすがに、本人を目の前にしてまで、無かったことには出来ないようだ。

「ご安心を。あらかじめこちらが予期していたことですから」

 正確には、菊池をはじめタイで活動するI機関が仕組んだことだが。

「この件が日本とタイの関係に影を落とすことは、いささかもありません」

 肇の英語が通じると、首相の顔には安堵が広がった。

 実際、首相は「自由タイ運動」を黙認していたというのが、I機関の見立てだった。日本が英米に敗れた場合の保険と言う事だろう。その一方が消えた今、タイは日本にすがるしかなくなる。

 それが問題だった。

 肇は珈琲のカップを卓に戻すと、首相に向かって言った。

「そこで、この秋に予定されている大東亜会議ですが、首相閣下が自ら参加されると言う事で、大変嬉しく思います。ただ……」

 首相の表情が曇った。

「ただ、何でしょうか」

 促す首相に、肇は言葉を続けた。

「もう一つ、可能であればワンワイタヤーコーン殿下にもお越しいただきたい」

 首相は目を細めて言った。

「可能とは思いますが、何ゆえに?」

 肇は珈琲のカップを掲げ、陶器に描かれた文様を眺めた。金と緑からなる、蓮の花をモチーフにした幾何学模様だ。

「これはタイ独特の意匠ですね。この国の伝統的なデザインです」

 カップを卓に戻し、言葉を続ける。

「これ一つからも明らかなように、タイは古来から独自の文化と伝統を持つ国です。この国の指導者としての首相閣下と、この国の歴史と伝統を体現する殿下。お二人が揃ってこそ、この国の代表としてふさわしいと思います」

 ピブーンソンクラーム首相は、椅子から乗り出すと満面の笑みで肇の両手を握りしめた。

「必ずや、殿下と共に参加させていただきます」

 頷くと、肇は続けた。

「さらに、その上で思うことは全てお語りください。事前の草稿の検閲などは、全て排除します」

 首相の眼は大きく見開かれた。

「それは……なんでも好きに語れ、と言う事ですか?」

 肇は頷いた。

「まさしくその通りです。今回の会議では、建前だけでなく本音で、戦後の亜細亜を考えることが重要なテーマとなります」

 意外な成り行きに、首相の目は再び見開かれた。この時点で亜細亜各国代表を呼び集めると言う事は、日本による支配を確立するというのが目的だと考えることが自然だ。だから、各国は日本への恭順の証として参加する。首相としてもそのつもりだったに違いない。

「日本は……亜細亜に何を望んでいるんでしょうか」

 首相の呟きは、戸惑いを隠せなかった。

「今上陛下の御心としては、日本は亜細亜の覇権国家になってはならないのです」

「覇を唱えないと?」

 括目したまま、首相は言葉を失った。放心したようにワインを口にし、一息ついてから思いを口にする。

「それだけの国力、軍事力を持ちつつ、覇者とならぬとは」

 問いかけというより呟きに近かった。

 肇は言葉を継いだ。

「このたびの開戦は、欧米列強による植民地支配から亜細亜を開放するためでした。そこで日本が覇者となっては、欧米が日本に替わっただけです」

 言葉を切り、首相の目を見て続ける。

「日本は亜細亜の各国を支配しない。各国は日本に依存しない。すべての国が自立し、その上で協力し合う。そうした仕組みが出来上がって、初めて亜細亜は解放されるのです」

 首相の目に、新たな光が広がる。

 肇は言葉を締めくくった。

「タイにはぜひ、その手本となっていただきたいのです」

 再び、首相は肇の両手を握りしめた。力強く。

 タイでの目的は、見事に果たされたと言えるだろう。


登場人物紹介


実在する人物には【実在】としています。


菊池 下の名前は不明

I機関工作員、タイ担当。


プレーク・ピブーンソンクラーム

【実在】タイ王国首相。軍人でもあり、階級は元帥。


次回 第二十二話 「三人の代表」


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