第十八話 九百の雷鳴
2016/10/8 誤字訂正しました。
「酷いもんですね」
大和の戦闘情報室で、肇は加賀の被害状況を撮影した写真を見ていた。
格納庫の火災が納まった加賀だが、被害は甚大であった。上部格納庫の天井でもある飛行甲板はいたるところがめくれ上がりねじ曲がり、まさに「焼け落ちた」としか言いようがなかった。上下二段の格納庫内は舷側のあちこちに大穴が開き、特に大和の砲火が吹き抜けた左舷後方から右舷前方までは、上段格納庫の床が抉れるなど酷いありさまだった。
それでも何とか浮いていて、自力で航行も可能なのは不思議なくらいだった。魚雷で浸水した分、一時は吃水が深くなったが、格納庫の中身と飛行甲板のほとんどを失ったため、むしろ浅くなっていた。
火災に脱出路を塞がれていた機関員も救出されたのは幸いだった。自決を覚悟していた岡田艦長も無事だった。敵襲と同時に格納庫から搭乗員や作業員を撤収させたことが幸いし、人的な被害も比較的少なくて済んだ。
それでも、艦載機を失ったことは大きな痛手である。飛行甲板と格納庫にあった約六十機が失われた。特に、新たに配備された夜光雲が全て焼失となったたことは、夜間における敵艦隊の動きを追えないと言う事になる。
加賀は三隻の駆逐艦に警護されながら、一足先に帰国の途に就いた。
また、赤城の飛行甲板に不発弾が開けた大穴は、鉄板でふさぐ応急修理が進んでおり、何とか離発着が可能となりそうだった。
問題はこの後どうするかだ。
一九四二年六月二十五日、〇七三〇時。
第一航空艦隊は、大和を中心とし、前方左右に飛龍と蒼龍、後方に赤城を配置した輪形陣を編成し、なおも警戒体制であった。珊瑚海は敵の陸上爆撃機の航続距離内にある。
戦闘糧食での朝食後、肇は戦闘情報室に戻った。
電光掲示板には、「くしなだ情報」でレキシントン級一隻撃沈の情報が流れている。残りは一隻ということだ。彩雲が一機、つかず離れず敵空母を追跡しているが、南方へ迂回しつつ豪州に帰投するように見て取れた。
腕組みをしてそれらの表示を眺めつつも、肇の心はそこに無かった。もうじき赤城の作戦室で行なわれるはずの会議が気になっていたのだ。
椅子を蹴って立ち上がり、艦橋に上がる。中甲板から十三階を駆けあがって、昇降機があることを思い出してがっくりと膝をついた。何とか立ち上がり、笑う膝を押さえながら高柳艦長に告げる。
「赤城に……行きたいんですが」
高柳艦長は答えた。
「飛んでいきますか?」
「……はい?」
怪訝な顔の肇が阿鼻叫喚となったのは、その十五分後である。
カタパルトから打ち出される衝撃は、主砲発射の時より大きかった。クラクラする頭を振り、改めて帯や留め具を手で確かめる。生まれて初めての飛行は、御前会議の軍服に次いで、もう一つのトラウマになりそうだった。
零式水上偵察機、略して零式水偵は三座式で、操縦士と吉岡忠一航空参謀、そして肇が乗りこんでいた。操縦士は陽気な青年で、「楽しんでください」などと言っていたが、とんでもなかった。
肇は高所恐怖症の自覚は無かったのだが、たった今発病したに違いない。これまで搭乗した乗り物は、少なくとも足の下には大地か水があった。急にエンジンが止まっても、降りて歩くか泳ぐかすれば何とかなった。しかし、飛行機では落ちるしかないのだ。
にもかかわらず、吉岡と操縦士はさっきから冗談を言い合っている。だめだ、空の住人とは同じになれない。
「こちら」の大和は、後部甲板には副砲のみで主砲がない。その分の容積が艦載機と搭載艇に割かれていた。零式水偵なら十機、加えて数隻の内火艇が搭載されており、搭載数が増えている。これらが全て後部甲板下の格納庫に収納されており、甲板に露天継嗣されることはない。
副砲と言っても巡洋艦の主砲並みの口径があり、なおかつ前部甲板の主砲は二百七十度旋回する。つまり、後方にも四十五度の角度で砲撃できるのだ。これらの砲塔が火を吹けば、後部甲板にある航空機も内火艇も粉砕されてしまう。
「石動閣下、もうじき着水です」
操縦士が話しかけてくる。一キロそこそこの距離にある赤城までは、ほんの束の間の空の旅だったが、肇にとっては永劫にすら思えた。
そして、巨大な赤城が蹴立てる波は高かった。小さな零式水上偵察機は、それを乗り越えるたびに激しく揺れた。空母の搭乗員の手を借りて何とか乗り移れた肇だったが、手すりにしがみついて胃の中身を全部ぶちまけるまでは動けなかった。
思えば、海底軍艦はほとんど揺れなかった。どんなに時化ようとも、海面下は常に静かだった。
「あー、帰りたい」
肇の魂の叫びだった。
そんなわけで、赤城での作戦会議に参加した肇は、もはや幽鬼にしか見えない有様だった。
「大丈夫ですか、石動閣下」
南雲長官自身が駆け寄り、抱きかかえるように席に着かせた。
「すみません、大丈夫です」
そうでないのは全員に見て取れた。それでも会議は無慈悲に始まった。
体力的には卓上に突っ伏していたが、肇の耳と脳髄は活発に働き、会議の内容を分析していた。
「はい、石動閣下」
議長役の吉岡参謀が指名する。突っ伏したまま掲げていた右手を降ろし、体を持ち上げて肇は喋った。
「既に作戦開始時の航空戦力が半減しています。これ以上の消耗を避けるためにも、作戦中止を具申します」
これだけ言うのも精いっぱいだった。激しいえずきをこらえ、肩を震わせる。
航空支援が乏しい中での上陸作戦は危険だった。ハワイ攻略の時のように、艦載機で陸上の軍事施設を叩くべきだ。なにより、上陸となれば米豪陸軍機が参戦する可能性が高い。
だが、そこへ反論が出た。山口多聞少将だ。
「しかしながら、敵主力のレキシントン級一隻が健在であり、第二目標のポートモレスビーも手付かずです。事前の作戦会議から見ても、まだ引くべき時点ではありません」
突っ伏したままの肇が手を上げた。指名を受けて、突っ伏したまま喋る。
「航空隊のない空母は抜け殻同然です。敵も味方も同じです。しかし、一隻に減った敵空母は、そうやすやすと沈められません。防御の集中が容易ですから」
何とか体を起こし、卓上に置かれた図表の中で、加賀の航空機を受け入れた飛龍・蒼龍を指し示す。沈んだ空母の戦闘機を受け入れれば、自然に防御力は増していく。「くしなだ」がレキシントン級を沈めたのは、時間的に見て帰還する攻撃隊を収容する前だったはずだ。また、大和の二式榴散弾が落としたのは攻撃機や爆撃機が多かった。
つまり、こちらと同様に、敵も残存戦闘機を残りの空母に集中させ、迎撃力が増しているはずなのだ。
「ここはむしろ、正規空母三隻を屠ったことを良しとして、矛を収める時点かと愚考します」
南雲は腕を組んで考え込んでいたが、ここで口を開いた。
「やはり、事前の作戦会議で出ていたように、ポートモレスビーの攻略は断念し、夜間の艦砲射撃のみにとどめるべきと思う」
ありがたい言葉だ。自分も何か言おうと、肇は体を起こした。
その時、卓上の図表にある数字が目に飛び込んできた。
「あの、これ……」
飛龍の搭載機数の表だ。
「夜光雲、一機残ってます?」
山口が答えた。
「はい。今朝帰投した時、加賀がごった返していたので、うちの方に降ろさせました」
ということは。肇は南雲に向かって言った。
「これ、夜間砲撃の弾着観測に使えますね」
ポートモレスビーは名前の通りの港町だが、一番の狙いは十キロほど内陸に建設中のセブンマイル飛行場だった。これを徹底的に叩けば、数か月は完成を遅らせられるはずだ。それには、夜間の着弾観測があった方が望ましい。大和の電探の優秀さは証明済みだが、近くまで寄っての目視にはかなわない。
加えて、夜間の航空攻撃を警戒することもできる。可能性は低いが、ないとは言い切れない。夜光雲の電探は大和のものより遥かに非力だが、高所にある分、遠くまで見渡せられる。
会議は夜間砲撃でまとまった。早速、暗号無線でこの作戦を山本五十六司令長官に具申。一時間後に裁可がくだった。
帰りの飛行に関しては、誰にも聞かれたくない肇であった。
大和の艦内では夜間砲撃の準備が始まった。だが、その中で一番忙しかったのは、弾薬係でも機関員でもなく、主計課であった。
普段は事務や経理、糧食の準備などの雑務を引き受ける主計課だったが、今回は艦内の謄写版を総動員して大量のビラを印刷している。砲撃を行うポートモレスビーの市民への警告のビラである。夕方までに彩雲で散布することになっていた。
民間人の被害を最低限にするためのものだが、当然ながら奇襲効果は薄れる。それでも敢えて行うというのは、開戦直後に行われた大東亜宣言に沿うためのものだった。
一三〇〇時。
ラバウルを飛び立った二式飛行艇が、ニューブリテン島の南側のソロモン海に待機する主力艦隊に到着。ここで山本五十六と幕僚たちを拾い、ポートモレスビーの南東八十海里に待機する南雲艦隊に向かった。山本の強い意向で、作戦に立ち会うことになったのだった。
山本たちを送り返した連合艦隊の第一戦隊、護衛の空母隊、第三水雷戦隊、そしてポートモレスビー攻略部隊は、一足先に内地へ帰還となった。攻略部隊にとっては、今回はただ船に乗り続けただけの作戦だったことになる。
一五〇〇時。
二式飛行艇が南雲艦隊に到着。山本と幕僚たちは大和に移り、再び連合艦隊旗艦とした。大和にてもう一度作戦会議があり、夜間砲撃作戦の細部が詰められた。
一六〇〇時。
ポートモレスビーの偵察のために彩雲六機が飛龍・蒼龍から離陸。敵地の市内に砲撃を警告するビラをまいた。
一八〇〇時。
大和と榛名、霧島からなる第三戦隊は、第一・第二航空戦隊を切り離し、第十戦隊の駆逐艦数隻を引き連れてポートモレスビーに進撃した。
切り離した空母に、偵察から戻った彩雲が着艦。
二〇〇〇時。
切り離した第二航空戦隊の飛龍から、たった一機残った夜光雲が発艦。
二〇三〇時。
夜光雲によりポートモレスビー周辺に敵艦影なしの報告。
二一三〇時。
大和を旗艦とする第三戦隊は、ポートモレスビーに到着する。その報告を、山本五十六は大和の戦闘情報室で受け取った。
ピシ。山本の指が駒を進めた。
「王手だよ、石動君」
肇は頭を掻いた。
「……ありません」
肇の将棋は下手の横好きだが、それが山本には不思議らしい。
「君の智略には似つかわしくないなぁ」
肇は答えた。
「どうも、ルールから外れたことに考えが行っちゃうんですよね」
海底艦隊は、ある意味常識から外れた戦力だから、仕方ないのかもしれない。
「ところで、作戦開始の時刻ですが」
時計を見上げた肇が言う。山本も見上げ、艦内通話機を取り上げると艦橋につないだ。
「山本だ。高柳艦長を。ああ、艦長。滑走路を耕してくれ」
肇はあたりを見回した。ここ、戦闘情報室では、前回の砲撃の際にもの凄い衝撃が来た。
「今回は大丈夫ですよ。あの隔壁の扉はきちんと閉まってますから」
宇垣纒参謀長が言う。前回の砲撃では、第一主砲塔のある区画との扉が開いていて、そこからの衝撃波がこの部屋を直撃したらしい。設計ミスと言えるかもしれない。確かに、加賀の火災を吹き消した第三砲塔の砲撃では、ほとんど衝撃は無かった。
ずん、と鈍い衝撃があった。
「始まったな」
山本がつぶやいた。
二二〇〇時。
夜間砲撃の開始である。
ポートモレスビー北部にあるセブンマイル米軍航空基地の司令は、市内で遅い夕食を取りながら部下と談笑していた。
「マッカーサーにも困ったものだな。基地の建設を急ぐにも程がある」
上官の愚痴につき合わされる部下も哀れなものだ。もっとも、そのマッカーサーの要請に応えるために、超過勤務が発生しているのは確かだった。
しかし、気になるのは今日の午後に市内に空から撒かれたビラだった。部下の一人がそれを取り出した。
「ところで司令、この砲撃、行われるんでしょうか」
司令は鼻を鳴らすとワインを煽った。
「敵は空母艦隊だぞ。夜間爆撃ならまだしも、砲撃なんて駆逐艦の豆鉄砲で何ができる。脅して工事を遅らせようとしているだけだ」
顔を赤らめて強弁するのは、苛立ちからだけではないようだった。ワインのデカンタはほとんど空である。
その時、遠くで雷の音が聞こえた。南、海の方向だ。
「うん? 雷雨でも来るのか。 では、そろそろ引上げよう」
そう言って席を立った時、今度は北、基地のある方向で雷鳴が聞こえた。雷鳴は南と北、交互に聞こえる。しかも規則的に。
何事かと外に飛び出すと、空は満天の星だった。雷などではない。
「司令、あれを!」
部下が指をさす北の方を見ると、空が赤く染まっていた。航空基地が燃えている。背後の海側でまた雷鳴、いや砲撃の音がした。そして、航空基地に上がる火柱。
山本が「滑走路を耕せ」と言ったのは冗談ではなかった。九門の四十六センチ砲から放たれる重量一・四トンの徹甲弾が滑走路にめり込み、地中で爆発する。これが数秒に一発ずつ起こり、半径も深さも数メートルの穴が次々と穿たれていく。
基地は既に恐慌状態だった。砲弾は滑走路だけではなく、周辺施設にも着弾した。燃料タンクや武器庫も被弾し、大規模な火災となった。
また、地上数十メートルで爆発する榴弾も混ざっており、広範囲に灼熱の鉄片をまき散らして、航空機や車両、そして人を粉砕していく。
まさに、地獄絵図だ。
砲撃の成果は、夜光雲が刻々と打電してきた。戦闘情報室の電光掲示板に流れるその情報を見て、肇は段々気分が悪くなってきた。これは戦闘ではない。一方的な殺戮だ。砲弾が逸れて市街地に落ち、何か所かで火災も起きている。
「全員避難していればいいんですが」
肇が呟くと、山本が言った。
「反撃が皆無だと言う事は、警告ビラが無視されたということだろう」
肇の表情を見て、脇に立っていた宇垣参謀長が言葉をかけた。
「石動君、これは戦争ですよ。人の死を嘆いているだけでは、戦いは終わりません」
肇は頷くと言った。
「それはわかります。でも、私は軍人じゃないので」
自分でも言い訳じみていると思う。これだけ作戦に口を出し、今回の砲撃も自分の発案だ。並みの将兵以上に軍事に関わっている。
それでも、自分は軍人以外の視点で、この戦いを見つめていたい。
肇はそう思った。
二三三〇時。
各砲門百発の砲弾を撃ち終え、夜間砲撃は終了した。
合計九百発の砲撃で、米航空基地は壊滅した。夜光雲の報告では、もはやどこが滑走路で、どこが司令部かもわからない有様だった。
二四〇〇時。
連合艦隊は作戦を終了し、帰国の途に就いた。
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