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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第二部
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第十二話 二つの告発

「旧称、竹島晴美さんですね」

 肇が声をかけると、四十がらみの女性は涙ぐみつつも頷いた。

「あなたの証言は、必ずや世界を変えます。もうこんな悲劇は起こしてはいけません」

 女性は涙を流しつつ言った。

「夫と子供たち……その無念を晴らしたい」

「お気持ち、理解しております。必ずや、ナチスの暴虐は明らかになるでしょう」

 晴美・竹島・フリードリッヒ。それが彼女の独逸ドイツにおける名前だった。そのはずだった。しかし、夫がユダヤ人だったことからナチスの魔の手が伸びてきた。

 竹島晴美は一九二〇年、外務省職員だった父の赴任で独逸ドイツに移住した。当時は第一次大戦の賠償金問題でもめており、戦勝国であった日本もその解決のために交渉に参加していたのだ。

 彼女は現地で一人の青年と恋に落ち、駆け落ち同然で結婚。翌年には長男が誕生した。独逸ドイツは経済的に行き詰っていたが、ユダヤ人のコミュニティーによる相互扶助のおかげで、生活はなんとか持っていた。

 しかし一九三〇年代、ナチスが台頭してくると状況は変わってきた。特に、一九三五年のニュルンベルク法制定からはあからさまな迫害が相次ぎ、一九三八年には大規模な反ユダヤ暴動が起こった。多数のユダヤ人のシナゴーグ、住居、商店が打ち壊され、路上に散らばったガラスの破片から「水晶の夜」と呼ばれた。しかし名前とは裏腹に、実際には多数のユダヤ人が虐殺され、血みどろの惨状を呈していたという。この事件で晴美は長男を失うが、他の惨殺事件と同様、加害者は訴訟手続きが打ち切られるか、無罪判決だった。そのため、この暴動はナチスが煽ったものではないかと見られている。

 何よりも理不尽なのは、この暴動の被害の保険金がユダヤ人には一切支払われず、逆に被害者のはずのユダヤ人が何万人も逮捕され、収容所に送られたことだった。彼女と家族はダッハウ強制収容所に送られ虐待を受けた。この収容所は、後に作られるアウシュビッツなどの原型となった。彼女の一家は最終的には国外へ移住するという条件で釈放されたが、移住先の波蘭ポーランドでも迫害が続き、一九四〇年には波蘭ポーランド独逸ドイツに征服された。

 逃げてもナチスが追いかけてくる恐怖。晴美と家族が波蘭ポーランドからさらにソ連の領内に逃げても、一九四一年に独ソ戦が始まると次々にナチスの支配下に落ちた。すると国家保安本部の移動特別部隊アインザッツグルッペンが乗り込んできて、現地人を扇動して計画的なユダヤ人の殺戮を行わせた。

 その惨劇の中、次男に続き最愛の夫まで殺された彼女は、奇跡的に日本大使館と連絡が取れ、保護された。家族に死なれ独り身となったために日本人とみなされたのは、皮肉というべきだろうか。

 彼女の話は艦長室で磁性帯テープに録音された。この証言はナチスが現在も行っている民族絶滅政策の動かぬ証拠となるだろう。I機関が上海で進めているユダヤ人難民からの聞き取り調査と合わせて、後日の御前会議に提出されることとなる。こうした欧州の事情は、了から聞いたあちらの歴史とほぼ一緒だった。

 彼女のためには、右舷側の下士官室が一つあてがわれた。右舷側の艦長室は例のとおり肇に押し付けられ、左舷側の副長室はチャンドラ・ボース夫妻、その側近たちはその下の階の下士官室だった。そのため、いつもの玉突き引っ越しはかなり複雑になっている。

 竹島晴美が自室に戻り、録音担当者が器材をまとめて引き上げると、室内には肇一人となった。すると、了が接続してくるのが感じられた。

「定時連絡にはちょっと早いですね」

(ああ、済まないが、しばらく体を貸してほしい)

「構いませんが、何を?」

 フランス近海の海底で、原爆開発に関係するものは考えにくかった。

(スバス・チャンドラ・ボースと話がしたい)


 スバス・チャンドラ・ボースは、妻と共に副長室にいた。

 了が英語で入室を告げると、ボースは機嫌よく迎えてくれた。

「これから長旅になりますが、ご不満はございませんか?」

 了はボースに尋ねた。間取りは艦長室と同じなので、一人部屋としては十分な広さだが、夫婦二人だと少々きついはずだった。

「何も問題ありません。極めて快適です」

 Uボートなど潜水艦の狭さはドイツでも何度か話に聞いていたので、この艦の居住性が高いことは意外だった。

「日本まではどのくらいかかりますか?」

 ボースの質問に、了は答えた。

「アフリカの喜望峰を回って行きますから、一万五千海里ですね。約一か月半となります」

 これは通常動力の潜水艦の速度での日数だった。「くしなだ」なら北極回りで十日あれば着く。

「結構かかるものですね」

 ボースは顔を曇らせた。彼にすれば、一日も早くインド独立の活動を始めたいに違いない。しかし、「くしなだ」の任務はほかにもあった。英国艦隊をインド洋から駆逐してしまったため、ナチスが力を盛り返しつつあるのだ。そのため、非合法であるがUボートの間引き作戦を行う必要がある。またソ連を弱らせるためにも、英国による北極海経由の援ソ船団を潰す両面作戦となる。そのための一か月だが、当然これはボースに対しても極秘だった。

「この艦は、こうした極めて長期の作戦のために設計されてます。後ほど、娯楽施設もご案内します。ただ、最高機密が満載されてますので、許可のない場所への立ち入りはご遠慮願います」

 了の言葉にボースは頷いた。

「実は、こうして伺ったのは、あなたと一度、深く話したかったからです」

 了の申し出に、ボースは喜んで応じた。ボース夫妻はソファの代わりに寝台に腰かけ、了は文机の椅子に腰かける。

 ボースはインドの独立と東亜解放思想について熱く語った。この弁舌で、了の世界でも彼は東条英機など日本の要人を虜にした。残念ながら、その当時は既に日本の敗色は濃厚となっており、自滅的なインパール作戦としてしか結実しなかった。しかし、こちらの歴史では違う結果を産むはずだ。

 聞き役に徹していた了は、やがて口を開いた。

「おっしゃる通り、全アジアを欧米支配から解放することが重要です。それこそが日本の望みでもあり、このたびの開戦理由であります。しかしながら、そこにもう一つ、考慮しなければならない要素があります」

 ボースは興味を示した。

「それは何でしょうか?」

「ソビエト連邦による謀略です」

 ボースは顔をしかめた。日本が対英戦に勝利するまで、彼はソビエトの協力でインドを独立させようと考えていたのだ。また、彼の政治的な立ち位置は民族社会主義であり、その点からもソビエトに親近感を持っていた。しかし、そうした思想的傾向は、了が危惧する部分でもあった。

「ソビエトはレーニンの死後、大きく方向性が狂いだしています。今のスターリンによる独裁は、もはや共産主義とは呼べないものです」

 了の話にボースはますます苦りきった顔になったが、次の一言で変わった。

「きっかけはゾルゲ事件でした」

「ゾルゲ? リヒャルト・ゾルゲですか?」

 これには了の方が驚いた。

「ご存知でしたか」

 ボースは瞑目して話した。

「何年か前、その記者の取材を受けました。確か、フランクフルター・ツァイトゥング誌の」

「同一人物ですね」

 了は頷いて言葉を継いだ。

「それが彼の隠れ蓑でした。おそらく、ドイツでの経歴を固めるためと、あなたの利用価値を測るための接触だったのでしょう」

 時期的には、ゾルゲが二・二六事件の情報をドイツに報告し、ドイツ大使館と懇意になっていた頃に当たる。一時帰国しての取材だったのだろう。

 ボースも頷いた。

「そのせいでしょうか、妙に気になる取材で、そのため記憶に残っていました。記事そのものは没になったようですが」

 了は話を続けた。

「このゾルゲは、来日する前は上海でスパイ活動を行っていました。そこで出会ったのが尾崎秀実(おざき ほつみ)です。尾崎は後に近衛総理のブレーンとなり、日中戦争を泥沼化させ、ソビエトの危険性を糊塗して日本が南方に進出するように仕向けました」

 言葉を切り、わずかに微笑む。

「南方進出だけは間違っていませんでしたから、その点は利用させてもらいましたが」

 ボースは了の目を見て言った。

「ミスター・イスルギ。あなたは何者なんですか?」

 当然の疑問だった。

「私はただ、他人よりものを多く知っているだけの人間です。その知識の一部を使って、この艦の建造の手助けや、政府への働きかけを行ってきました」

 了は立ち上がった。

「続きはまた今度と言う事で。長い旅になりますから」

 了はボース夫妻のいる副長室を辞すると、艦の反対側にある艦長室に戻り、肇に体を返した。それから話の内容をかいつまんで肇に伝えた。

「尾崎秀実……彼の記事は何度か読みましたよ。結構、いいことを書いてたのになぁ」

 ソ連のスパイをI機関が特高に先駆けて捕らえ、転向させて逆スパイにしている話は出ていた。ゾルゲのことは聞いていたが、その諜報団に尾崎秀実が居ることは、たった今知った事実だった。

 脳内で了が言った。

(真の売国奴は優秀でないと務まらない。あからさまに反日的なことをやるのは単なる馬鹿だ)

 そうかもしれない。


 「くしなだ」はアイスランドの沖合に潜伏していた。英国のソビエト支援船団がそこに集結していたためである。船団が出発すると尾行を開始する。あまり早くに仕留めてしまうと、英国側が警戒してしまう。あくまでもUボートによる撃沈と思わせる必要があった。

「随分、豪勢な護衛ですね」

 副長の小田切が言うとおり、護衛艦隊にはキング・ジョージ五世級戦艦、イラストリアス級空母などが加わっていた。初めのうちは掃海艇ぐらいしか着かなかったというから、格段の扱いだった。

「そろそろ行くか」

 御厨艦長の一言で、戦闘準備が始まった。狙いは輸送船であり、英国戦闘艦はできる限り沈めるな、というのが今回の作戦の肝だった。

 魚雷が全門発射され、護衛艦隊は大混乱となった。

「輸送船六隻、撃沈」

 聴音手が報告を上げた。

「よし、再装填して残りの輸送船を狙う」

 御厨が指示を出した瞬間、聴音手が叫んだ。

「激しい衝突音! 駆逐艦とキング・ジョージ五世級の音紋が消失」

 艦長と副長は顔を見合わせた。続いて、沈む艦船の圧潰音が観測された。どうやら、戦艦と駆逐艦が衝突し、駆逐艦が沈んだらしい。

「うちらのせいでしょうか、これ」

 副長の問いかけに、艦長は首を振った。

「知らん」

 結局、戦艦の位置がわからなくなって間違って撃沈してしまう可能性が生じ、残りの輸送船は捕り逃してしまった。

 次の援ソ船団が出るまでは日数があるので、「くしなだ」はUボート狩りの地点に移動した。


 定期連絡でこの珍事を聞き、了はしばらく考えてから言った。

(やはり、歴史にも慣性の法則が働くようだな)

「そちらの歴史でも、こんなことが起きてるんですね」

(うむ。確かに、キング・ジョージ五世と駆逐艦パンジャビが衝突し、パンジャビが沈んでる)

 この歴史における慣性の法則を、後に痛感することになるとは、まだ了にすらわかっていない。


 了はボース夫妻の船室をほぼ毎晩訪ねた。最初のうちは疑問を感じているようだったが、ボースは次第に了の言うソビエトの陰謀に理解を示し始めた。それと同時に、政治思想としての社会主義も、私有財産まで否定する共産主義ではなく、もっと緩やかなものを考えるようになっていった。

 了は語った。

「日本が他国に先駆けて世界恐慌から脱出できたのは、ある種の社会主義的政策によるものです。国中がお金を失うことを恐れ質素倹約に走ると、需要が失われ物が売れず、売れないから生産が絞られ、失業者が増えてさらに需要が減ってしまいます」

 ボースは答えた。

「堂々巡りですな」

「まさしくそうです」

 ボースの言葉に、了は頷いた。

「そこで、当時の大蔵大臣の高橋是清が、ある意味その社会主義に近い政策を取ったわけです。すなわち、大規模な財政政策です。軍備増強もありましたし、この潜水艦の建造に使われた様々な科学技術の研究開発も含まれます」

「しかし、それでは特定の業種や業界にのみ、国費が費やされるだけなのでは?」

 ボースの指摘に、了は微笑んだ。

「その批判は当時もありました。しかし、お金というのは使ったら消えてしまうわけではありません」

「と言うと?」

「単純化のために、軍人を増やすとしましょう。そうなると、軍服が必要になるので縫製業にお金が流れます。縫製業者は布地が必要なので織物業に発注します。織物業は繊維業に、繊維業は蚕農家や綿花農家などから材料を買い付けないといけません」

 ボースは頷いた。綿花ならインドの主産業だった。

「それぞれの段階で、それぞれの会社の従業員や生産者にお金が落ちます。そうして収入が安定して増えだすと、彼らも少しずつお金を使う量が増えます。古くなった家を建て直したり、服を新調したり、たまの休みには旅行を楽しんだり」

 旅行を楽しむインドの庶民。なかなか想像しにくかったが、イギリスやドイツなら考えられた。

「インドもそうなりますか?」

 ボースの問いに、了は頷いた。

「必ず、そうなります」

 言葉を続ける。

「そうやって、お金は社会をどんどん回って行きます。政府が一億円を正しく使えば、このように巡る先々で多くの国民の所得となります。国民一億人の間でお金が循環すれば、最初の一億円を何人もが受け取り使うことで、何倍にも増えていきます。これを乗数効果と言います」

 しばし考えた末、ボースは言った。

「つまり、お金を使えば使うほど、みんなが豊かになる?」

「まさしくそうです」

 了は頷いた。が、ボースは悲しげな顔になった。

「しかし、インドには妨げとなるものがあります」

「カースト制度ですね」

 了の言葉にボースは頷いた。

 インドの改革は、一筋縄では行かないだろう。これは了もボースも共通の認識だった。


「魚雷、一番発射」

「一番発射、ようそろー」

 ずん、と右舷から鈍い衝撃があり、魚雷が発射された。やがて遠くで爆発音。

「UボートⅦC型、撃沈」

 聴音手からの報告。

「十隻目ですね」

 副長の小田切が言った。

「意外と日数がかかったな」

 御厨艦長が指折り数える。

「二十日間だから、二日に一隻の会敵か」

 作戦行動中の潜水艦同士が遭遇することは極めてまれだ。どちらも隠密行動であるし、偶然ぶつかるには大西洋は広すぎる。しかし、独逸ドイツは本来は同盟国であり、それ故に情報を得やすい面もあった。Uボートの基地は仏蘭西フランス西部に集中しており、ブレスト、ロリアン、ラ・ロシェルなどすべてビスケー湾岸にあった。そのため、湾の中心部で待ち構えていれば、出入りするUボートを狙い撃ちするのは楽な仕事ではあるが、やはり汚れ仕事と言えた。

「そろそろ『わだつみ』が来るころだ。そうしたら交替だな」

 御厨はつぶやいた。

「草薙さんなら、この手の任務も喜んでやるんでしょうね」

 小田切の言葉に、御厨は首を横に振った。

「あの人なら怒りながらするね。喜んで」

 日本語として矛盾しているようだが、実際にこの任務を引き継ぐと、「わだつみ」の発令所ではその通りのことになっていた。

 交替して十日後、「くしなだ」は帰投するが、そこでは厄介な問題が起きていた。


登場人物紹介


実在する人物には【実在】としています。


晴美・竹島・フリードリッヒ

在ドイツ日本大使館職員の娘。ユダヤ人青年と結婚し、ナチスの迫害で夫と子供を失う。

彼女の肉声による告発は、この後の世界を大きく変えていく。


リヒャルト・ゾルゲ

【実在】ソ連のスパイ。表の肩書きはフランクフルター・ツァイトゥング誌の記者。

なお、チャンドラ・ボースと面識があるというのは、本編の独自設定です。

名前のみ登場。


尾崎秀実おざき ほつみ

【実在】ゾルゲへの協力者。元、朝日新聞社記者。

名前のみ登場。


次回 第十三話 「七隻の戦艦」


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