第十一話 一人の活動家
(困ったことになった)
定期連絡でセイロン島占領を聞かされると、了は言った。肇は戸惑いを隠せなかった。
「何が不味いんですか?」
了の言葉は意外だった。
(勝ちすぎてしまった)
「そんな。戦争なんだから、勝たなくちゃ」
(それはそうだが、あまり英国を追い詰めすぎると、ナチスがのさばり続ける)
「なるほど。確かに、ナチスが欧州を支配し続ける未来はあまり見たくないですね」
(ナチスにも原爆開発の動きはあった。連合国との戦争で疲弊したから失敗したが)
「じゃあ、どうします? いっその事、イギリスと講和しますか?」
(まだだ。アメリカの原爆開発を壊滅させてからでないと。戦う口実が無くなる)
あくまでも、了の目的はそこだった。
「そうなると、ナチスをどうするかに戻りますが」
(「くしなだ」を大西洋に派遣して、Uボートを沈める)
これには肇も驚いた。
「あの……一応同盟国なんですけど、破棄するんですか?」
(まだ破棄しなくて良い。口実が揃ってからだ)
「同盟を破棄しないで攻撃するんですか」
(そうだ。そもそも、海底艦隊は日本の正規軍ではないから、同盟や条約は関係ない)
さすがに、そこまで過激な考えは肇にもなかった。
(ついでに、イギリスのソビエト支援ルートも破壊する)
「英国がソ連を支援しているんですか」
(そうだ。反ファシストという形で手を組んでいる)
イギリスから北極海を回ってソ連北部の白海へと至るルートだった。砕氷艦が必要となる。
(ちなみに、アメリカも行なっていた)
西海岸から北太平洋経由でウラジオストックというルートだった。こちらは日米開戦で使えなくなった。
(ところで、そのついでに欧州から連れてきてほしい男がいる)
了は話題を変えた。
「コードトーカーみたいな?」
(インドの独立運動家だ。名前はスバス・チャンドラ・ボース。今はドイツにいるはずだ)
一週間後。帰投した「わだつみ」は東海村にある海底艦隊の船渠で魚雷発射管の改装中だった。追い出された「くしなだ」は沖合の海中で待機である。パナマ運河の監視は続けられているが、高速の空母が出てくる可能性が低いため、通常動力の伊号潜水艦に任せてあるのだ。
海底艦隊司令部の会議室には作戦会議中の札がかけられているが、実際は中に酒とつまみが持ち込まれ、酒宴が始まっていた。
「腐ることないんじゃありませんか」
「くしなだ」の御厨艦長が言った。
「戦艦二隻、巡洋戦艦一隻、軽空母一隻、巡洋艦、駆逐艦多数。目覚ましい戦果ですよ」
確かに、単艦で数か月の戦果としては常識外れと言えよう。
「空母がない! 正規空母が!」
顔の赤らみを見るに、既に草薙艦長はかなり飲んでいるようだ。
「そっちはいいよ、正規空母四隻、軽空母一隻。目論見の通りの成績だ」
草薙は、かつての副長、御厨に絡む。
「だがこっちは、狙った正規空母は全部逃してるんだ。まったくもう!」
「まぁまぁ。あ、お猪口が空ですよ」
基地のどこで熱燗にしてきたのか、徳利を手に御厨。酒癖が悪い奴は、酔い潰してしまうに限る。
会議室の隅では、両艦の副長同士が酒を酌み交わしていた。
「あれですな、割れ鍋に綴じ蓋」
地蔵の海野にしては手厳しい。「くしなだ」副長の小田切昭一は抑えた笑いだ。
海野に尋ねてみる。
「草薙さんって、どんな方なんですか?」
「御厨艦長から聞いてませんか?」
海野は意外そうな顔だった。
「いやぁ、ちっとも話題に出ません」
小田切は真顔だった。海野は少し考えてから言った。
「まぁ、勇猛果敢と言えばその通りですが、興に乗ると無茶をしますね」
海野は遠い目で話し始めた。
「戦闘中に敢えて危険を冒すべき場面があるのは仕方ないですが、それ以外の時のはさすがに困りますな」
「それ以外というと?」
小田切の質問。海野は苦笑いしながら答えた。
「今回、魚雷を使いすぎて帰投となりましたが、その航路を豪州の南を回っていくと言い出しまして」
「ほう。そりゃまたなんで?」
盃を干して、海野は言った。
「東京空襲をやった艦隊が、どうも米西海岸の拠点に居ないらしいと分かりましてね」
一度はサンディエゴに戻ったことが分かったが、しばらくすると夜のうちに姿を消したという。この暗号通信はインド洋の艦隊にも伝えられ、「わだつみ」も傍受した。
「なので、どこかに残存勢力を集めているに違いない、可能性が高いのは豪州の東側だと」
「それは今、海軍軍令部でも言われているみたいですね」
草薙の分析力が高いのは確かだ。
「なら、自分で確かめてやると言い出すんですわ」
相変わらず遠い目の海野の盃を満たして、小田切は促す。
「で、行ったんですか?」
海野は一口飲むと答えた。
「まさか。全力で止めましたよ。偵察だけで済むはずがなくて、魚雷を残らずぶち込むに決まってますから」
さすがに、それでは偵察にならない。
二人はくすくす笑った。
翌日、未明に海底軍艦基地の港から一隻の船が出た。第三曙丸、漁船に擬装した海中観測船である。だが今回の任務は人員輸送だった。乗客は、「くしなだ」の御厨艦長と副長の小田切、そして石動肇である。肇は昨夜遅くにこちらに着いた。
舵輪を握るのは秋津技師長だった。
「技師長に運転手をやらせてしまって、済みません」
恐縮する肇だったが、秋津はにこやかに答えた。
「いやいや、たまに海に出るのも良いもんですよ。今日は休暇なんで、この後沖釣りを楽しませてもらいますわ」
小型船は機関音が大きいので、つい大声になる。秋津によれば、「わだつみ」の改装は基本的に「くしなだ」と同じ内容なので、部下に任せて大丈夫だという。
御厨艦長がそばにより、肇の耳に顔を寄せてささやいた。
「しかし、今度の任務は少々抵抗がありますな」
Uボートの数減らしだ。この任務は海底艦隊の内でも極秘だった。
「三国同盟も日ソ中立条約も、破棄は時間の問題ですけどね」
肇も御厨の耳にささやく。
「何か情報が?」
御厨の問いに、肇は曖昧に微笑むしかなかった。
対独、対ソ連の諜報活動は、主に欧州と満州でI機関の人間によって行われている。了からの事前情報であたりをつけ、現地で裏を取っていくやり方だ。これにより驚くほどの情報が得られ、特に対ソ連では多数のスパイを寝返らせることに成功している。これによって、日中戦争を起こすためにソ連が行った工作が明らかになってきた。最終的にはその証拠を叩きつけて、日ソ中立条約を破棄することになるはずだ。ただ、日本の軍部や政治家にも影響が大きいため、時期は慎重に決める必要がある。
また、対独では信じられないような国家による犯罪が明らかになりつつある。これに関する証拠も、今回の航海で得られるはずであった。
「とにかく、北極越えの長旅になりますから、よろしくお願いします」
肇は御厨に頭を下げ、その場を取り繕った。
「そろそろ会合海域です」
秋津が声をかけてきた。機関を止めると、舷側に当たる波の音だけとなり、機関音の残響が耳鳴りとなって唸る。秋津は小さな金属の箱を懐から取り出すと、覆いを開けて中の釦を押した。暗号化された信号電波が発信され、遠からぬ海面を漂う通信ブイがキャッチした。
しばらくすると、右舷の方に点滅する光が見えた。モールス信号だ。
「来ましたね」
灯りが近づいてきた。一艘のゴムボートだ。小型の発動機でやって来る。第三曙丸の舷側に取り付くと、降ろされた縄梯子から一人の水兵が昇ってきた。御厨、小田切と肇に敬礼する。
「お帰りなさいませ、艦長、副長、そして石動閣下」
また閣下だ。最近は、否定するのも面倒になってきた。
秋津を残して全員ゴムボートに乗り移ると、水兵が発動機を回し、曙丸から離れた。しばらく点滅する光に向かって進むと、人員昇降ブイにたどり着いた。ゴムボートごとブイの平らな背面に引き上げられ、全員が降りて昇降筒から内部に入る。その間にゴムボートは空気が抜かれ、畳んでブイの背面に収納された。
人員昇降ブイに入るのは、コードトーカーとしての村雨一家を米本土から移送した時以来だが、実際に利用するのは初めてだった。円筒形の耐圧殻の両脇にある座席に座ると、ブイの上で作業していた水兵が降りてきて、昇降筒が格納された。がくん、と小さな衝撃の後、人員昇降ブイは底部に繋がれた二本のケーブルで、海中深くで待機する「くしなだ」へと引き下ろされていく。やがて「くしなだ」の甲板に格納されると、耐圧殻後部の水密扉が開いた。
四か月ぶりの「くしなだ」艦内だが、ほとんど変わりはないように見えた。改修は兵装面だけなので当然だが、実際には下士官以下の乗員は半数が入れ替わっている。訓練施設「すのまた」の卒業生が入れ替わるためだ。
実際には「すのまた」も、来年就役予定の新型海底軍艦に合わせて改造されるため、上陸した乗員は久方ぶりの休暇となる。架空の身分が用意され、久しぶりに娑婆へ出られるわけだ。不公平があってはいけないため、今後は上陸後一か月ずつ休暇が出るようになるらしい。
艦長と発令所に出てみると、もうすっかり出航の用意が整っていた。珍しく、平野平機関長もいた。
「おお、石動閣下。お戻りですな」
肇は頭を掻いた。
「おやっさんまで、閣下はやめてくださいよ」
すっかり定着してしまった感がある。
「おやっさんの方はどうですか?」
逆に水を向けてみます。
「どうって、原子炉の方なら両舷とも絶好調です。わしの健康も問題なし。部下のことなら、これからですな」
「これから、とは?」
訓練に問題があるなら聞かないと。
「いや、模擬原子炉しか触ったことがない奴らには、放射線の危険性がちゃんと伝わっとらん、というだけですわ。無頓着なものもおれば、過剰に怖がるものもおります。この辺だけは、実際に現物を前にして感じ取るしかないので」
そんなものなのだろうか。
やがて、御厨艦長の指揮で「くしなだ」は出航した。北極越えで欧州へ向かう。
チャンドラ・ボースは、ドイツで物憂い日々を送っていた。
ベンガルで生まれたチャンドラ・ボースは、インド国内でガンジーと共に独立運動を行い、何度も投獄された。イギリスとドイツが開戦した事を知ると、独立のチャンス到来と見て欧州に亡命し、ドイツに身を寄せる。しかし現地を訪れてみると、白人国家であるナチス・ドイツはイギリスと同じくらい鼻持ちならない人種差別国だった。大英帝国を崩壊させるには、インドの独立が最も重要なはずだ。しかし、内心ではイギリスとの早期講和を望んでいるヒトラーにしてみれば、そこまでダメージを与えることは考えていなかった。むしろ著書の「我が闘争」には、「大英帝国の支配がなければインドは崩壊する」などとすら書かれていた。
そのため、ドイツ政府はチャンドラ・ボースにベルリン中央部の広大な邸宅を与え、自動車や生活資金も供与したものの、実際的なインド独立運動への援助はまるでなかった。事実上、飼い殺しに等しい。
そこへ、日英開戦のニュースが飛び込んできた。イギリス海軍の象徴ともいえる戦艦プリンス・オブ・ウェールズが撃沈されたと知った時、チャンドラ・ボースは狂喜した。
欧州滞在中に結婚した、元秘書のエミーリエ・シェンクルに彼は語った。
「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りだ」
早速、日本へ行きたいとの意向を在独日本大使館に伝えたが、なかなか良い返事がもらえなかった。これは、日本政府がインド情勢に疎く、対イギリス戦争におけるインド独立の影響もよく分っていなかったためだ。
しかしシンガポールに続きセイロン島まで占領し、インド洋を日本が支配するようになると事情が変わってきた。大量に投降したインド人兵士たちから、インド独立の声が強く上がり始めたのだ。
ここで、インドから日本に亡命し帰化していた独立運動家、もう一人のボースであるラース・ビハーリー・ボースを中心にインド独立連盟が結成された。だが、程なくラースが病魔に侵されたことから、彼に替わる指導者が求められ、ドイツにいるチャンドラ・ボースに白羽の矢が立った。
この時点で、八紘一宇を旗印とする日本政府も無視することができなくなったのである。そこで、ようやく日本大使館からチャンドラ・ボースへ来日の許可が下りることになった。
問題は移動手段だ。弱体化したとはいえ、大西洋は英米の支配下にあった。北アフリカでは独英の激戦が繰り広げられており、スエズ運河の通航も難しかった。中東をイギリスに抑えられているため、陸路も無理となった。空路も、イギリスの支配下の土地を避けて飛ぶのは難しかった。
結局、潜水艦しかないという結論になったが、Uボートを提供しようというドイツ側に、日本大使館は丁重に断わりの返事を送ったという。
数日後、一人の日本人がチャンドラ・ボースの元を訪れた。
「私のことはサエキとお呼びください」
村雨一家を西海岸まで脱出させた冴木である。
「日本の潜水艦がフランスの西海岸まで迎えに来ます。旅行の準備をしてください」
「フランスですか?」
ここ、ベルリンから百マイルも北上すればバルト海だ。フランス西部はその何倍も離れている。
「残念ですが、潜水艦は浅い海が苦手です。バルト海では浮上しなければ近寄れません。最新型なので、友邦ドイツにも見られたくないのです。フランス西部のビスケー湾なら、かなり近くまで水深が深いので、適しています」
納得するしかなかった。早速、妻と側近に指示し、荷物をまとめる。
冴木は大型の乗用車を手配した。また、初対面の日本人の中年女性も連れてきた。彼女は名乗らず、ただ冴木によって、事情によってドイツにいられなくなった、とだけ紹介された。
四月の末、彼らはベルリンを出発した。
旅の目的地は、フランス西部のボルドーとなっていた。ワインの産地であり、観光目的なら比較的通行証も降り易かったからである。
ドイツの誇るアウトバーンで国境近くまで進み、そこからでこぼこの石畳の道を走り続け、途中で宿を取って休むと、再び走り始める。二日目の夕刻にボルドーへ着いた。
車中で日本人女性は一言も喋らなかった。
ボルドーで一泊した後、アルカションという海沿いの別荘地まで行く。ヴィクトリア朝様式の建築の別荘が立ち並ぶ街であり、ナポレオン三世のゆかりの地でもあるという。ビスケー湾からさらに内陸へ入り込んだ北側の海はアルカション湾と呼ばれ、中州や島が複雑に入り組んだ形をしていた。
そこでヨットを一隻チャーターし、アルカション湾の外、ビスケー湾に出る。冴木はヨットの操船もうまかった。
日の暮れるまで帆走を続け、夕闇の中をなおも西へ進む。何度か六分儀を出し天測を行ない、帆を降ろした。背後から満月が昇り、洋上は意外と明るくなった。
「このあたりですね」
冴木はポケットから金属の箱を取り出した。蓋を開けてボタンを押す。何度かランプが明滅し、やがてしばらく光り続けると消えた。
「じきに来るでしょう。船を降りる用意をしてください」
しばらくすると、かすかなエンジン音が聞こえてきた。やがて黒い制服の水兵が乗るゴムボートが近づいてきて、ヨットに横付けした。
冴木が皆に向けて言った。
「あちらに乗り移ってください」
「サエキ、君は?」
ボースの問いに、冴木は微笑んだ。
「私はここまでです。ヨットも車も返さないといけませんから」
いつぞやと同じ会話が繰り返された。
冴木を除く全員がゴムボートに乗り込むと、エンジンがかかりヨットから離れた。ヨットは再び帆を上げて、冴木に操られて岸へと戻っていく。
しばらくゴムボートで進むと、前方に点滅する光が見えた。「くしなだ」の人員昇降ブイだ。数名の乗員が彼らをゴムボートごと引き上げた。水兵らに促されて、彼らはブイの前方にある昇降筒から入る。ボースは思わずつぶやいた。
「なんだ、狭いな」
これが日本の誇る最新型の潜水艦か? 円筒形の両側に座席が並んでいるだけだった。
昇降筒から外にいた乗員が降りてきた。
「狭いですが、どうぞお座りください」
士官らしい乗員に英語で促され、全員が座った。
降り立った反対側にはハッチがあるが、あの向こうにもっと広い艦内が広がっているのか。そう訝しんでると、がくんと軽い衝撃があり、エレベーターが降るときの感覚が始まった。
「潜水しているのかね?」
先ほどの士官に聞く。
「潜水艦に降りていくところです」
微妙に意味が分からない。言葉の問題だろう、とボースは考えた。
やがて再び軽い衝撃があり、かすかにポンプの音が聞こえてきた。それが終ると例のハッチが開き、一人の日本人男性が入ってきた。年のころは三十半ば、なぜか彼だけが私服姿で、背が高い。英語で彼は話しかけてきた。
「ようこそ、スバス・チャンドラ・ボース。私のことはイスルギと呼んでください」
次に、彼は例の日本人女性に日本語で話しかけた。女性も日本語で答え、涙ぐみながら何かを告げていた。彼は女性の肩に手を置き、ハッチの向こうへ消えた。
「皆さんもこちらへ」
水兵に案内されて、ボースは艦内の狭い通路を歩き出した。ここから、日本への長い海底の旅が始まるのだ。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
スバス・チャンドラ・ボース
【実在】インド独立運動家。
エミーリエ・シェンクル
【実在】ボースの妻。元秘書。
ラース・ビハーリー・ボース
【実在】インド独立連盟の首班。
次回 第十二話 「二つの告発」




