第十話 二人の中将
英国東洋艦隊の司令長官、サー・ジェームズ・フォウンズ・サマヴィル中将は、この時はまだ己の不遇を嘆く余裕があった。
海軍に入隊して無線通信の第一人者となり、先の大戦ではガリポリの戦いでDSO勲章を授与された。ところが、戦後に東インド艦隊司令となって一年後、結核を患って退役となってから何かが狂いだした。ドイツとの戦争が始まって現役に復帰し、新編成のH部隊指揮官となったはいいが、その最初の任務はかつての同盟国フランスの艦隊を殲滅することだった。
開戦後まもなく、フランスはドイツに降伏し、その戦力は全てドイツのものとなってしまった。特に問題となったのが北アフリカのメルス・エル・ケビールに在泊中のフランス主力艦隊だ。ドイツがこれを手にすれば、地中海はヒットラーの内海と化してしまう。
チャーチルからの書面にはこうあった。
「君は、かつて他のどのイギリスの提督も直面しなかったような不快な任務の責任を負うことになる。しかし、われわれはこの任務の容赦なき実行について、君を完全に信頼し、また君に頼り切っているのだ」
言われるまでもなく、サマヴィルはこの攻撃命令は誤りであると個人的には感じていたが、彼は命令を実行した。仏戦艦ブルターニュを沈めるなどの大戦果をあげKBE勲章を授与されたが、先日までの戦友千三百人を殺した代償である。
今年の三月に東洋艦隊司令に着任すると、すぐにセイロン島の根拠地に防備の弱点があることに気づいた。東岸にあるトリンコマリー軍港は防空体制が弱く、真珠湾攻撃の二の舞となりかねなかった。西岸の首都コロンボにある基地は、出入りの多い民間の港と接しており、大型艦の運用は困難だった。そこで、退避してきた空母インドミタブルを引き連れ、離島のアッドゥ環礁に建設されたこの基地へ避難してきた。
この戦いも厳しい状況だった。イラストリアス級空母三隻は貴重な戦力だが、搭載機の性能ではゼロ戦の敵ではなかった。旗艦ウォースパイトも四隻のリヴェンジ級も艦齢三十年になろうとする老朽艦で、特にリヴェンジ級は速度が出ず、足手まといだった。重巡ドーセットシャーとコーンウォールなど、改装の途中でこちらに回航されてきている。さすがにアッドゥ環礁の基地では改装などできないので、セイロン西岸のコロンボでドック入りとなっていた。
サマヴィルが取れる戦術は、現存艦隊主義しかありえなかった。常に東洋艦隊の存在感を見せつけ敵の進撃を牽制しながらも、直接の戦闘を回避し戦力を温存する。考えただけで健康を損ねそうな作戦だった。
「もぬけの殻だと?」
セイロン東岸のトリンコマリー軍港空襲の結果を聞き、南雲中将は眉をひそめた。彼もまた、そこに英国東洋艦隊の主力がいると考えていたのだが、実際には小型艦ばかりだった。攻撃隊は軍港と隣接する飛行場、地上の機体を爆撃したが、停泊中の輸送船数十隻には手が回らなかったため、第二次攻撃を具申してきた。
やがて彩雲による哨戒で、西岸のコロンボも小型艦ばかりだと判明した。
「なら、決まりだな」
南雲は即断し、トリンコマリー軍港への第二次攻撃の準備が始められた。
そこへ、セイロン島の西側を南下中の艦隊発見の知らせが飛び込んできた。改装中に日本艦隊接近の知らせを受け、退避を命じられた重巡ドーセットシャーとコーンウォール、そして護衛の軽空母ハーミーズであった。
南雲は悩んだ。
「どちらを討つべきかな、中佐」
こんな時、相談役は常に源田実中佐だ。
「重巡二隻と軽空母なら、決定的な戦力にはなりません。彩雲を張り付けておいて、目の前の敵を始末しましょう」
輸送船はそれ自体戦力ではないが、兵站という重要な役目を担う。特に、ここにいる輸送船団はビルマを通って支那大陸奥地に立てこもる蒋介石に物資を送っている援蒋ルートの一部であるはずだった。インド洋進出は、この援蒋ルートを断つことも重要な目標である。
「よし、なら第二次攻撃の発艦を急ごう」
南雲の決断で、輸送船団の命運は決まった。
「あれ、南雲さんこっちは放置か」
草薙は解読された英国の暗号電文を見て呟いた。トリンコマリーへ二次攻撃が行なわれたことを知らせる電文であった。彩雲からの「重巡と軽空母からなる艦隊を発見」という報告の後で発せられたものだ。
「このままにすれば、アッドゥ環礁基地の存在に南雲中将も気づくのでは?」
海野副長の言葉に、草薙は首を傾げた。
「彩雲を引き連れて秘密基地へか? いや、さすがにそれはないだろう」
英国東洋艦隊の司令官が誰かは知らないが、ここまでの判断は抜かりがない。
やがて、彩雲が敵艦隊の転進を知らせてきた。インド半島の西側、おそらくボンベイあたりに退避するのだろう。秘密基地への退避の線は消えた。
「もらうか」
艦長の言葉に、副長も頷いた。
「そうですね、沈めましょう」
南雲は彩雲からの報告に、またも眉をひそめた。
「三隻とも、突然の轟沈か」
源田に目を向けると、彼も首を捻った。
「やはりこれは、何かいますね」
味方だろうが、正体がしれないというのは不気味だった。
「とはいえ、ここは後続の小沢さんの露払いに専念するべきでしょう」
第一航空艦隊の後ろからは、小沢弥三郎が率いる南遣艦隊がこちらに向かっていた。シンガポール陥落で手の空いた陸軍を、セイロン島の攻略部隊として連れてきているのだ。
セイロン島はベンガル湾の要衝だ。ここを失えば、英国はインド洋の東半分を失うことになり、広大なインド半島も危険に晒されてしまう。英国最大の植民地であるインドを、英国艦隊が見捨てるはずがなかった。必ず打って出てくる。
トリンコマリーの次は、西岸のコロンボ。各地の戦力も、可能な限り削いでいかないと行けない。
「重巡ばかりかハーミーズまで失うとは」
報告を聞いてサマヴィルは暗澹となった。軽空母とはいえ、貴重な戦力である。
「どうもこれは、この大戦を生き抜いたとしても、早死にしそうだな」
朝食のマフィンをテーブルの向こうに押しやる。どうも縁起でもない呟きが湧いて出ていけない。結婚して以来、朝はずっと妻の焼いたマフィンだったが、戦地で食べるものはどうも胸焼けがしていけない。
日本がセイロンを取りに来ているのは明らかだった。それを防ぐだけの力はない。セイロンが落とされたなら、このアッドゥ環礁基地も風前の灯だ。発見されたならひとたまりもないだろう。しかし、東洋艦隊の壊滅だけは防がなければならなかった。特に、虎の子の三隻の正規空母だけは。
時間的な余裕はあまりなかった。まず、艦隊を二つに分けた。近代化改修で速度の上がっている旗艦ウォースパイトと三隻の空母、巡洋艦によるA部隊。そして旧式で鈍足なリヴェンジ級戦艦を中心としたB部隊だ。
まず、アッドゥ環礁基地は引き払うしかない。人員を乗せて避難する船団の護衛が必要だった。そこで、B部隊をつけて南回りで脱出させ、アフリカ東岸モンバサのキリンディニ港に向かわせた。
次にA部隊が基地を出て、あえてセイロン島に近づいて索敵機に気づかせた後、インド半島の南端を回って全速力でインド西岸のボンベイに向かった。
そこには、重巡と軽空母を葬った「わだつみ」がいた。
「鴨がネギ背負って来ましたね」
珍しく海野副長が軽口を飛ばす。
「据え膳喰わねばなんとやら、だな」
軽口では草薙の方が上手……いや、下品である。
「今度は正規空母だな。全門、発射用意」
艦長の号令で、全六門の発射管に魚雷が装填された。
「前方より、魚雷走行音、多数!」
随行する駆逐艦からの発光信号に、旗艦ウォースパイトの艦橋には緊張が走った。
サマヴィルは自分の犯したミスに気付いた。重巡とハーミーズを沈めたのは、日本の空母艦隊ではなかったのだ。プリンス・オブ・ウェールズを仕留めた、海中に潜む悪魔だ。これだけ索敵機を送り出しても、発見できなかったのは当然だ。
「艦長」
ウォースパイトの艦長に声をかけた。
「申し訳ない。女王陛下から預かったあの三隻の空母は、失うわけには行かんのだ」
旗艦に先行する空母を指さし、サマヴィルは告げた。そのまなざしを見て、艦長は悟った。
「機関全速、空母の前に出る!」
サマヴィル自身も指示を出す。
「空母三隻は機関停止、惰性で左右に展開、急げ!」
敵の兵器は音響追尾魚雷に間違いない。サマヴィルはそう結論付けていた。伝え聞くアメリカ海軍の被害も、それを指し示していた。
急に目標の音紋が消えた魚雷は、全て全速力で大音量をまき散らすウォースパイトに引きつけられた。
故郷のサマセットに戻って、静かに余生を過ごすのが夢だった。仏戦艦ブルターニュを沈めなければならなかった苦しさを、静かに聞いてくれた愛妻。彼女の焼いたマフィンは最高だった。もう食べられないのが心残りだ。
足元の海中で六発の魚雷が爆発し、彼の体は粉々になって天へ昇った。
「魚雷、再装填!」
すかさず草薙は指示を出したが、水雷長からの返事に声を失った。
「魚雷の残弾数、十八本です。二十を切りました」
搭載数の三分の二を消費したら帰投すること。それが出航前に出された条件だった。ここから帰るのも、地球を半周する大長征だった。自衛のためにも魚雷は残すべきだった。
深くため息をつく。その肩に、海野副長の手が置かれる。
「戻りましょう、艦長」
艦長は頷いたが、顔を上げると言った。
「帰る前にまだやることがある」
暗号電文を記録した通信筒が海面に打ち出され、「わだつみ」は帰路に着いた。
通信筒は一定時間、電文を送信し続けたのち、自動的に海中に没した。
彩雲からの電文で、東洋艦隊を追撃中だった南雲は、敵艦隊旗艦の最期を知った。
「またもや、例の何者かの仕業か」
源田が疑問を口にした。
「でも、なんで空母に止めを刺さなかったんでしょう?」
南雲はため息をつくと言った。
「わからんよ。魚雷を撃ち尽くしたんだろう」
元水雷屋だけあって、真実に近い。
そこへ、続報が入った。
「東七三度〇六分、南〇度四二分。わだつみ」
「この座標に何がある?」
南雲のところに海図が運ばれてきた。アッドゥ環礁だ。
「いかがします?」
源田の言葉に、南雲は即答した。
「行ってみるしかあるまい」
「わだつみ」の符牒は、山本から聞いていた。
四月十日。日本はセイロンを占領した。しかし、その南西に浮かぶ秘密基地の存在は公表されることはなかった。
その基地を拠点として、インド洋の全域に日本の支配が及ぶことになり、今後の戦局を大きく変えていくことになる。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
サー・ジェームズ・フォウンズ・サマヴィル
【実在】英国東洋艦隊司令長官。階級は中将。
次回 第十一話 「一人の活動家」




