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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第二部
36/76

第八話 十六機の悪魔

 サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジの外側、ファラロンズ湾。今そこを、昇る朝日に向けて全力で進む艦影があった。今やアメリカ海軍にたった二隻となった正規空母の一隻、サラトガである。その飛行甲板には大型の機体十六機が、翼を互い違いに重ねるようにして二列に並んでいた。B―25ミッチェル爆撃機である。

 飛行指揮所に仁王立ちするハルゼーは上機嫌だった。吹き寄せる風は三十ノット以上、疾走するトラックの荷台に立つようなものだが、ものともしない。憎っくきジャップをこの手で叩きのめすチャンスを得たからだ。

 ハルゼーは空母エンタープライズを失ったことにより降格された。全米空母戦隊司令官の任は解かれ、今は第十八任務部隊の指揮官に過ぎないが、むしろその方がありがたかった。最前線で辣腕をふるうことこそ、性に合っている。ましてや、空母サラトガは彼が艦長を務めた最初の空母だった。

「全機、発進せよ!」

 マイクに向けて叫ぶ。その号令と共に、二列の先頭から左右交互に機体が飛び立っていく。飛行甲板の半分以上を二列に並んだ機体が埋め尽くしているため、先頭の機体が滑走できる距離は百メートルほどしかない。そのため、甲板の先端から飛び立った機体は、そのまますとんと落下し視界から消える。そののち、海面すれすれからじりじりと上昇してくるのが指揮所から見えた。

「何度見ても心臓に悪いですねぇ」

 冷や汗を拭う副官を、ハルゼーはどやしつける。

「馬鹿もん! あれは腹に爆弾を抱えとるからだ。何のための爆弾か考えろ! 目的は三つしかない!」

 副官は唖然として繰り返した。

「目的は三つ、ですか……」

「そうだ。ジャップを殺せ! ジャップを殺せ! ジャップをもっと殺して猿肉を積み上げろ! これが全てだ」

 やがて全機が離陸し、射爆場で模擬弾を投下し、陸上の基地に帰投した。そこから、陸路をトレーラーで運ばれ、アラメダ軍港にてクレーンで再びサラトガに積まれた。これが何度も繰り返され、やがて季節は三月を迎える。


 三月一日、米西海岸北部方面の索敵配置についている空母龍驤から、夜明けとともに彩雲が数機飛び立った。その一機はアラメダ軍港を強行偵察し、追いすがる敵戦闘機を振り切りながら、重大な報告を送信した。

「米空母、いずこかへ移動せり」

 この一報は海軍に激震をもたらした。了の歴史から見て、敵艦隊の出港は一か月先と思われていたからだ。即座にハワイ近海の赤城からは敵空母追跡隊の彩雲が飛び立ち、予想進路上をくまなく捜索した。日本本土からは改装が終った「くしなだ」が迎撃に向かうが、索敵が成功しなければ会敵はおぼつかない。

 肇は未明の電話で叩き起こされた。電話の相手は山本五十六だった。

「現在、うちの受験生は志望校を見失っている」

 時期がらに合わせて、あらかじめ決められた符牒だ。受験生は索敵部隊、志望校は敵艦隊。

「受験生には進路の見直しを。志望校は模擬試験次第ですね」

 肇の返事は、索敵部隊は敵進路を見直すこと、そのあとは敵艦隊の発見はハワイからの索敵が当たる、という意味だ。

 だが、日没までに敵艦隊発見の知らせはなかった。朝になれば敵艦隊の予想移動範囲は極めて広範囲となり、空母龍驤から発艦可能な彩雲を総動員しても見つかることはなかった。ハワイからも連日、南北へ広範囲に索敵が行われたが発見はできなかった。

 肇は光代を疎開させるかどうか悩んだ。爆撃を受ける可能性が高いのは帝都東京だ。しかし、了の世界での爆撃は本州の広い範囲で行われたという。絶対確実に安全なところはない。

 もう一つ不安なのは、横浜で建造中の次の海底軍艦だ。もし、ここが被害を受けたら、戦略を大きく見直さなければならない。しかも、こちらは避難のしようがない。

「うちの受験生は滑り止めにかけるしかない」

 数日後の山本からの電話は、本土で迎え撃つしかないことを意味した。

 電探を強化した新型海防艦の就役には、まだ一か月かかる状態だった。


 三月半ば。ハルゼーの率いる第十八任務部隊は、太平洋を北側に大きく迂回して日本を目指していた。日本の占領下にあるハワイからの索敵と迎撃を避けるためである。

 春先の北太平洋は波が荒い。その中を進むサラトガは何度も波をかぶり、海水が飛行甲板を洗う。B―25爆撃機は大きすぎて格納庫に入らないため、全機飛行甲板に駐機されている。激しく揺れる甲板から投げ出されないよう、しっかりとロープで固定されていたが、海水を被るのは避けられない。

 ハルゼーは艦橋の下にある露天の飛行指揮所から、ようやく昇った朝日が横から照らす飛行甲板を見渡した。海が荒れているため速度は二十ノットを切る。最短距離ならとっくに日本へ着いているはずだが、迂回したため五割増しの日数がかかっている。だが、もうじきのはずだった。全ては予定通り。

 いや、予定通りでない点があった。随伴するはずの第十六任務部隊だ。盟友スプルーアンスが率いる、通称シーウルフ艦隊。これが、今はいない。

 開戦当日に空母エンタープライズを一撃で沈めた、仮にシーゴーストと呼ばれている日本の潜水艦隊。これに対抗できる、現状唯一の艦隊だ。アメリカ海軍の空母を全滅させた海の悪魔から、何度もサラトガとレキシントンを救った実績を買われ、正式に米海軍の任務部隊として編成されたのは良いが、旧式艦船で構成されていることが仇になった。いざ出港という時になって、旗艦セーラムが機関トラブルとなったのだ。

 第十六任務部隊ことシーウルフ艦隊は、現在半日遅れの後方にいる。停止して合流することも考えたが、この荒波では速度を落とすことは危険だった。さらに、日本の索敵機に発見される危険性が増す。それはすなわち、シーゴーストに狙われる可能性が高いと言う事だ。発進中に合流できれば良し、最悪でも帰路に合流できれば十分だろう。

 ハルゼーは飛行甲板を歩いてくる一人の男に気が付いた。陸軍飛行士の制服を着て、B―25の係留索を確認しているようだった。

「精が出るな、ドゥーリットル」

 名を呼ばれた中尉はハルゼーに手を振り、やがて全機の点検を終えると指揮所に駆けあがってきた。船酔いもどうやら克服したようだ。

「ハルゼー司令こそ、発進は明日ですよ」

 爆撃隊の指揮官にして、隊長機の機長、ジミー・ドゥーリットル中佐だ。

「風が強い日は外にいるのが好みでな」

 ハルゼーの言葉にドゥーリットルも頷く。

「自分もです。心が沸き立つ気がします。あ、そういえば」

 ドゥーリットルは懐から記念賞を取り出した。

「開戦前に引き上げてきた、駐日武官補佐官からもらったものです。ジャップの建国二千六百年記念だそうで」

 ハルゼーはふん、と鼻を鳴らした。

「猿どもの歴史など、糞喰らえだ」

 ドゥーリットルはニヤリと笑った。

「ですから、奴らにお見舞いする爆弾に括りつけてやろうと思いまして」

 ハルゼーは哄笑した。

「それはいい。セレモニーにしてやれ。ばっちり、写真も撮ってな」

 その時、警報音と共にスピーカーから艦長の声が流れた。

「索敵機より敵艦発見の報あり。全員、戦闘態勢」


 第二十三日東丸は排水量百トン未満の漁船だったが、新型海防艦の配備が遅れたため、開戦の直前に特設監視艇として徴用された船だ。電探などの近代装備はなく、無線機と機銃が兵装の全てだった。

 夜明けとともに、日東丸は敵攻撃機の空襲を受ける。艦上偵察爆撃機SDBドーントレス、不撓不屈という愛称を持つ機体だったが、日東丸の乗員たちはそこまで知らない。機銃で果敢に応戦するが、逆に空から機銃掃射を受けて負傷者が出るばかりだった。その間に、本国へ打電する。

「敵艦上機ラシキ機体三機発見」

 悪いことに、駆逐艦と思われる敵艦も現れた。盛んに砲撃してくるが、荒波のせいでなかなか狙いが定まらないらしい。その向こうには、頂上が平らな巨大な船が見えた。さらに打電する。

「敵空母一隻ミユ」

 艦載機による爆撃も始まり、一発が至近弾となって死傷者が多数出た。最後の打電。

「敵大部隊ミユ」

 なおも敵艦への体当たりを試みるが、ついに機関部に命中弾を喰らい、燃料に引火して炎上する。反撃が止んだため敵駆逐艦が近寄ってきたが、生き残った乗員は救助を拒み全員自決した。


 日東丸の打電を受け、陸海軍は迎撃態勢となった。

「サクラチル」

 肇は夜明けとともに電報で叩き起こされた。海上での敵艦隊補足が失敗したのだ。

「どうしたの、お父さん」

 目をこすりながら、光代も起きてきた。まだ寝間着だった。

「何でもないよ」

 答えながら、肇は悩んだ。光代を登校させたものかどうか。

 空襲があったとして自分に出来ることはほとんど何もないが、次の海底軍艦を建造中の横浜船渠に行くつもりだった。光代を一人家に残すことはできないから、一緒に連れて行くか学校に行かせるかの二択だ。ならば、学校の方が狙われにくいはずだ。空襲で火災などがあっても、教師が責任を持って引率してくれる。

 結局、普段通りに光代は学校へ、肇は横浜船渠へと家を出た。


 光代たちの尋常小学校は、卒業と進級の年度末を迎えて慌ただしかった。光代や修の学級担任も、この日は最初の授業で教え子たちを屋上に上げて、この学校から見える街並みを覚えておこう、と呼びかけた。春からは町の反対側にある高等小学校(了の時代の中学校)に通うから、ここからの眺めは見納めだ。屋上の片隅にある防空監視櫓がなければ、もっと良く見えたろう。

「見て、修ちゃん。ほら、お化け煙突が見えるわよ」

 光代も少々、はしゃいでいた。指さす先には東京市名物の背の高い数本の煙突が見えた。見る方向によって本数が変わるので、お化け煙突の愛称がある。

 屋上の手すりまで寄って校庭を見下ろすと、体育で行進を練習している下級生が見えた。

「あ、アキちゃんだ」

 修の妹、アキの学級だった。体操服姿も可愛い。光代が手を振ると、気が付いたのかこちらに手を振り返している。村雨家の子供たちは、皆、非常に視力が良かった。

 修も光代の横で微笑んでいる。


 村雨アキの学級は、体育で行進の練習の最中だった。ふと、校舎を見上げると、屋上に見知った顔が並んでいた。兄の修と、姉のように慕っている光代だった。光代がこちらへ手を振り、アキも手を振り返した。

 お父さんとお母さんみたい。

 二人が並んでいると、そんな感じがする。そうなれば光代は義姉となるわけで、大人になってもずっと一緒に暮らせる。

 日本に来て、本当に良かった。心底、そう思うアキだった。


「ゼロ戦だ!」

 誰かの声がした。今日はなぜか何度も見る。一機がこちらに近寄り、ぐるりと旋回して飛び去った。

「操縦士さん、手を振ってたよ」

 修が光代に言った。にこやかに笑っている。光代も微笑み返す。

「また飛行機だ!」

 同級の男子たちが声を上げる。西の空に低く、ほとんど地を這うくらいの高度に機影が見えた。

「あの飛行機……」

 修の眼は釘付けになった。同年代の男子同様、彼も飛行機には憧れがあった。雑誌などで主な機種は見分けがつく。しかし、双発で水平尾翼の両端に垂直尾翼がある機体は、日本にはなかったはずだ。

 その時、町中のあちこちから警報のサイレンが鳴りだした。


 ドゥーリットル攻撃隊の発進は今夜の予定だった。夜明けとともに日本上空に達し、爆撃を開始する計画だった。しかし、日東丸に発見されたことにより、急遽、発進が決まった。謎の潜水艦隊、シーゴーストに襲われることを懸念してのことだ。

 出撃前に、ハルゼーから手短な訓示があった。

 本当に短かった。

「ジャップを殺せ! ジャップを殺せ! ジャップをもっと殺せ!」

 最早、彼の口癖と言ってもいいくらいだ。

 最後に離陸した十六番機の爆撃手ジェイコブ・ディシェイザー軍曹は、眼下を流れる異国の街並みを見て興奮を抑えられなかった。真珠湾の卑怯なだまし討ちで、何千人もの仲間を殺したジャップ。その仇を討つのが自分の役目だと信じ、この作戦に志願したのだ。厳しい訓練の成果を見せる時が来た。

 洋上では高度を取って速度を稼ぎ、上陸してからは急降下して地表すれすれを飛び続けた。東京を担当するはずだった一番機がエンジン不調で離脱したため、しんがりの十六番機が進路を変更して代行することになったのだ。搭載している爆弾には、その一番機機長のドゥーリットル中佐の手で、日本の建国二千六百年記念章が括りつけてある。

 攻撃目標は日本陸軍の第一造兵廠となっていたが、直前にこちらの担当となったため、投下した爆弾が正しい目標に命中したのかはっきりしなかった。爆弾を投下し終わると、機首の下部にある機銃座に移り、地上の機銃掃射を担当した。

 やがて、前方に高い塔を持つ大きな建物が見えてきた。対空監視楼があるなら、軍事施設に間違いがない。

 ディシェイザー軍曹は機銃の引き金に指をかけた。建物の手前の広場には整列して行進する姿が多数あった。練兵場も兼ねているのか。

「みんな殺してやる」

 軍曹は引き金を引いた。


 突然、サイレンが鳴り響いた。行進の笛を吹いていた教師が凍り付く。

 アキには何が起こったかわからなかった。

「飛行機だ!」

 列の後ろで男子が声を上げた。飛行機の爆音が近づいてくる。学級で一番背の高い男子が、空に向かって手を振った。

 次の瞬間、その子の姿が見えなくなった。同時に、もの凄い音が鳴り響き、アキも地面に叩きつけられた。

 周囲は悲鳴が渦を巻く。体が動かない。


「アキちゃん!」

 光代は悲鳴を上げた。飛来した飛行機が、校庭にいる子供たちに機銃を掃射したのだ。

 修はその隣で飛行機を睨み付けていた。いや、視線が離せなくなっていたのだ。

 機首下面の機銃座に、白人の兵士が見えた。修の鋭い視力は、その顔の表情まではっきりと捉えていた。

 笑っている。歯をむき出し、眼を見開いて、哄笑しながら殺戮の銃弾をまき散らしている。

 二人のすぐそばにも弾着があった。悲鳴の飛び交う中、機体は頭上を飛び越えて行ったが、その機影にようやく追いついたゼロ戦が攻撃を仕掛ける。

「修ちゃん! アキちゃんが!」

 光代の声にはっとする。屋上から下を見ると、既に校庭は血の海となっていた。階段へと走り出そうとすると、その手に光代がしがみつく。

「あたしも行く!」

 修は頷くと、光代の手を取って校庭へ向かった。


 遠くで、自分を呼ぶ声が聞こえた。兄、修の声だ。今朝、一緒に登校したのに、なぜかすごく懐かしい。光代の声も聞こえた。

 私はここにいるよ。返事をしようとしたが声が出ない。目も良く見えなかった。起き上がろうとしたが、手足が動かない。

 ふと、視力が戻った。目の前に修と光代の顔が並んでいる。声も出せた。

「仲良しさんだね」

 なぜだろう、急に眠くなった。兄も光代も必死に声をかけているが、意識が遠のく。深い闇に、アキは呑まれていった。


 東京が空襲されたとの連絡は、太平洋岸の沖合を哨戒中の「くしなだ」にも伝わった。即刻、通信ブイを格納し、日東丸の伝えた海域に急行したが、既に敵艦隊は引き上げた後だった。

「何もできなかった」

 御厨艦長が珍しく怒りをあらわにし、発令所の手すりに拳を打ち付けた。

「次に会った時が百年目ですよ」

 副長の言葉にも悔しさが滲み出ている。改良した新兵器が威力を発揮するのはその時だ。

 同じように、山本五十六も呉の司令部で歯ぎしりしていた。石動から事前に警告を受け、万全の準備をして迎えたはずだったのに、多数の被害を防ぐことができなかった。了の知る歴史より、攻撃が一か月も早まったというのもある。しかし、配置した彩雲による哨戒が空振りとなり、迎撃に出た零戦による補足が爆撃後になったことには言い訳のしようもない。

「石動君、やられたよ。これは人的なミスだ」

 被害と敵機撃墜の報告を受け、山本は横浜の石動に電話で話した。事後なので、もはや符牒を使う必要はなかった。

「沿岸での監視塔から、敵機は高空から高速で進入中、という報告があった。これに惑わされて、低空で侵入する敵機の補足が遅れた」

 横浜船渠の事務所で、肇は体の震えが止まらなかった。先ほど、光代の通う学校に電話し、空襲で多数の児童が殺されたことを聞いたばかりだった。光代の声が聞けたのは救いだったが、泣きじゃくりながら村雨アキの死を知らせてきた。

 一歩間違えば、光代も死んでいたかもしれない。それは、世界が亡ぶことより恐ろしい想像だった。

「陸軍は、どうしてたんですか?」

 迎撃に成功したのは海軍の零戦だけだった。山本の要請にも関わらず、陸軍の戦闘機、隼は内地への移動がほとんどなかったという。防空体制の強化も行われなかった。海軍からの報告にもかかわらず、空襲警報すら遅れた。

「どうやら、空母から陸軍爆撃機を発艦させる、という戦術が理解されなかったらしい。非現実的だということで、真面目に受け取られていなかったようだ」

 肇は壁に拳を打ち付けた。

「そんな馬鹿な!」

 I計画で技術は向上しても、それを使う人間が変わらなければ意味がない。

 そうした事実に打ちのめされる思いだった。

「そちらはどうだったかね」

 山本は話題を変えた。肇は報告した。

「横須賀の方には爆撃があった模様で、改装中の艦艇が一隻、被害を受けました。こちら、横浜では被害が出てません」

 建造中の海底軍艦に被害はなかった。この分なら秋には進水し、来年の今頃には就役となるだろう。戦略面での唯一の救いだった。

 それでも肇は、一言付け加えずにはいられなかった。

「これは、ひと揉め来ますね」

 陸軍出身の東条英機総理のことだ。陸軍の不始末は大きな失点となる。

 山本も同意した。連合艦隊司令長官として政治に直接口出しはできないが、海軍の発言力が増すことは確かだった。


 十六機からなるドゥーリットル攻撃隊は、隊長機が故障で離脱し、ウラジオストックに不時着した。隊長以下、乗員はソビエトに抑留された模様だ。

 それ以外の全機が、迎撃に出た零式戦闘機によって撃墜された。パラシュートで脱出した乗員は全員捕虜となった。その中には、十六番機の爆撃手、ディシェイザー軍曹もいた。

「諸君らは戦争犯罪人として裁判にかけられる」

 彼らを拘束した憲兵の隊長の言葉に、米航空兵らは皆、異論を唱えた。自分たちが狙ったのは軍事目標だけだ、と。戦争犯罪となるのは、非戦闘員を故意に殺傷した場合だ。

「ならば、その目で見るがいい。自分たちが何をしたのか」

 隊長は、護送車を東京市内に走らせた。学校らしき建物に横付けする。敷地内には白と黒の布がいたるところにかけられ、奇妙な飾りのついた黒塗りの車が何台も、門からゆっくりと走り出てきた。そのあとを、黒い服を着た子供たちが列をなして歩いてくる。

 ディシェイザーはそのうちの一人の少女から目が離せなくなった。泣きはらした目で、胸に抱える写真は、その子よりも幼い。

 と、その少女の傍らにいた少年がこちらを向き、目が合った。次の瞬間、憤怒の形相で少年がこちらに向かって突進してきた。窓に取り付き、はっきりとした英語で怒鳴る。

「この人殺しめ! 妹を返せ! 人でなし!」

 周りの大人たちが抱きすくめて引きはがすが、少年はずっとこちらを睨み付けたまま叫び続けた。

 車中の米航空兵たちは皆、言葉も出なかった。

 数日後、裁判で全員に死刑判決が下されたが、執行は延期された。

「天皇陛下の計らいだ」

 憲兵の言うには、天皇は下記の希望を述べたという。

一、日本武士道に反せざるよう。

二、国際関係に悪影響を及ぼさざるよう。

三、帝国臣民にして敵側に抑留せらある者(将来も起り得べし)に対する敵側の報復を誘わざるよう、穏便に行うこと。

 その夜、どういう経緯か収容所に聖書の差し入れがあった。最初、ディシェイザーは手に取ることも恐ろしかった。あの少年の怒りに満ちた目と声が、何度も蘇る。

 自分が殺すのは黄色い猿のはずだった。憎むべき敵のはずだった。しかし、実際に殺したのは罪もない子供ばかりだった。神の御前に出ようものなら、瞬時に滅ぼされて然るべき重罪人。それが自分だ。

 その時、隣の房から誰かが聖書の一句を朗読する声が聞こえた。

「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているか自分でわからないのです」

 体中に電撃が走った。そうだ、自分は知らなかった。自分が喜び勇んで殺そうとしていたのが、あどけない子供だったとは。

「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」

 ああ、そうであるならば。ディシェイザーは聖書を手に取り、貪るように読み始めた。


 日本は、この空襲の非人道性を大々的に世界に訴えた。犠牲者は顔写真つきで新聞に載り、世界中に広まった。

 サンディエゴに帰投してからハルゼーもその新聞を見たが、ふん、と鼻を鳴らしてこう言った。

「これは戦争だ。人が死ぬのが当たり前だ。女子供なら、銃弾が避けてくれるとでもいうのか?」

 ブル・ハルゼーは、何があってもブル・ハルゼーだった。


登場人物紹介


実在する人物には【実在】としています。


ジミー・ドゥーリットル

【実在】B―25爆撃隊の隊長。階級は中佐。


ジェイコブ・ディシェイザー

【実在】十六番機の爆撃手。階級は軍曹。

史実では、戦後はキリスト教の宣教師となり、日本人に伝道を行ったという。


次回 第九話 「六隻の空母」

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