第七話 二つの謀略
アメリカ大統領の執務室は、世界でも最も厳重に警護された場所であるはずであった。
そこに通されて最上級の紅茶を供されている自分が、アメリカを日本との戦いで弱体化させようとしているコミンテルンの工作員である事実に、芹沢は込み上げる笑いを押さえるのに苦労した。
この事実は、傍らで緊張の余り硬直している、秘書のジョージすら知らない。
とはいえ、ここに通されたコミンテルンの工作員は自分が最初ではないし、おそらく最後でもない。アメリカ政府内には多数の工作員が入り込んでおり、国家機密をソビエトに流し、ソビエトに都合の良い政策をアメリカが取るよう、働きかけてもいた。
その筆頭はハリー・デクスター・ホワイトである。ルーズベルト政権のモーゲンソー財務長官の下で働く財務次官補であったが、日米開戦直前に「日米間の緊張除去に関する提案」を提出し、これが事実上の最後通牒「ハル・ノート」の原案となった。
しかし、芹沢自身は他の工作員との接触は避けていた。誰かがヘマをやって芋蔓式に逮捕されたのではかなわない。その点に関してはソビエトも信用していなかった。彼が渡したI資料を使いこなすこともできず、いまだに杜撰な暗号の運用を行っているくらいなのだ。この調子では、いずれソビエトの暗号は解読されてしまうだろう。
今、ルーズベルトは彼が持参した書類に目を通しているところだ。やがて書類を置くと、読書用の眼鏡を外して顔を上げた。
「シカゴ大学冶金研究所への協力の具申」
書類のタイトルだった。
「御社に協力して頂くのはありがたいが……この研究所についてどの程度ご存知かな?」
芹沢の口元が歪んだ。
「研究所の名称と研究内容に関係がないことは存じています」
ルーズベルトの顔がこわばったが、芹沢は構わず続けた。
「弊社としては、今後とも軍事産業は重視していきたいと考えています。これまでは電子機器が中心でしたが、電子部品の製造を通して化学方面にも対象範囲を伸ばしております」
ブリーフケースから、もう一枚の書類を出す。
「そこで、新しく設立された冶金研究所にも注目したわけです。とくにここ」
書類に示された研究所員のリストを指す。
「グレン・シーボーグ、ユージン・ウィグナー、ジョン・ホイラー。そして、エンリコ・フェルミ」
にこやかに微笑むと、芹沢は言った。
「共通する研究分野が核物理学とは興味深いですね」
ルーズベルトの表情は益々険しくなり、芹沢は愛想が良くなる。
ジョージは、後者の方がむしろ恐ろしかった。今回の謁見の目的は知らなかったが、相当、やばいビジネスであることは明らかだ。
「人類最強の武器を作るのならば、これは是非とも協力させていただかなければ」
芹沢の爽やかな笑顔に、ジョージは震え上がった。
山本五十六と別れ東京に向かう寝台特急の中で、肇は了からの定時連絡を受けた。
(そろそろ、計画の最終段階に取り掛からなければならない)
寝台の中で、肇は壁に向かって寝返りを打った。
「原子爆弾ですか」
了が頷くのが感じられる。
核兵器のない世界を築く。それが了の大目的である。それには、よその誰よりも早く、自分の手で原子爆弾を作る必要があった。核兵器の恐ろしさを知ってこそ、廃絶の道は拓ける。
「矛盾ですね」
(その通りだ。だからこそ、これは私が自分の手でやらねばならない)
そのために、月に何度か身体を貸してほしいという。
「それは構いませんが」
肇は訝しんだ。
「いつものように私が間に入ると何か問題が?」
御前会議のような重要な場面でも肇は任されていた。原爆開発には力不足と言う事なのか。
(原子爆弾作成のノウハウは、人類に不要なものだ。これは私が背負うべき重荷だ。冥途までね)
了の言葉には時折英語が混ざる。ノウ・ハウとは知識とやり方だ。二度と核兵器を作らせないためには、これらをこの世に残さないことだ。
了の言葉に一応納得したものの、肇はどことなく釈然としないものを感じた。
一九四二年元旦。
石動家と村雨家と河合千代子は、連れだって明治神宮へ初詣に行った。
村雨恭二と妻のエニ、三人の子供たちは和服だった。光代も含めて全員一緒に、千代子が着付けをしてくれたのだ。こうなると、普段着の肇は肩身が狭い。
「日本男児たるもの、和服の一着ぐらい持つものですよ」
千代子の言葉に、反論の余地がなかった。とは言え、まさか軍服を着るわけにも行かない。晴れ着を着た一同の後を、とぼとぼとついて行く羽目になった。
しかしこうしてみると、光代の成長に驚かされる。春には高等小学校だ。親の贔屓目は別としても、母親の由美そっくりに育ってきている。以前のお転婆な面が落ち着いてきているのは、村雨家の下の二人の子を妹のように面倒を見るようになったのが大きい。
また、村雨家の三人の兄妹も大きくなった。特に、春には五年生になる真ん中のアキは、光代に劣らず器量良しになりそうだった。
前を歩いていた村雨エニが立ち止まり、振り返ると肇に手招きした。肇が近づくと深々とお辞儀する。
「どうしたんです、何を改まって」
戸惑う肇だったが、エニは歩きながら語った。
「日本に来て、本当に良かったです。日本はこんなに豊かで、落ち着いていて、平和です。この国で子供を育てられるなんて、なんて幸運なんでしょう」
確かに、戦時下とは思えないくらいだった。開戦直前は英米による禁輸措置で石油や鉄などの物資不足に陥ったが、開戦後一か月して南方資源が入るようになると安定してきた。I計画で化学肥料と品種改良が進んだ結果、食料はむしろ余るぐらいだった。その分は新たに支配下に置いた地域に送られている。
「向こうでは羊の放牧をしていましたが、毎年何頭も殺さなければなりませんでした」
「羊を食べるためでなく?」
エニが何を言おうとしているのか、肇には分らなかった。
「私たちが豊かにならないよう、白人が殺させるのです」
それは一方的な見方なのかもしれない。限られた面積の保留地での放牧は、無制限に行えば土地の砂漠化を引き起こし、大規模な災害を引き起こす。
しかし結果的に言えば、エニが言うようにインディアンの所得向上を阻んでいることにもなっている。そもそも、保留地を制限しているのは、完全に白人の身勝手である。
「お母さん、石動のおじさん、早く!」
アキが声をかけてきた。
明治神宮は多くの人で混んでおり、昼近くまで並んでようやく参拝できた。
肇の願いはもちろん、日本の平和と子供たちの幸せだった。
正月の松の内が過ぎると、一気に忙しさが増してきた。まず、了から見せられた設計図を二揃い、描き上げる。
「随分、複雑な装置ですね」
久しぶりの製図で凝った首筋を揉みほぐしながら、肇は言った。一つ目の装置は大きさは人の頭くらいで、電極とコイルの塊だった。
(これが君の脳みその代わりになる)
了と肇の脳内通信は、了の脳波を電磁場として読出し、それを肇の脳に作用させて行われる。ならば、未来の電算機から出る信号をそのまま受信できる装置があれば、数値や文字の情報を直接こちらの砥論に送り込めるはずだ。
「最初からこれがあれば、I資料の書き写しが要らなかったでしょうに」
何日も延々と図表を手で書き写していた日々を思い出す。文章は由美の口述筆記だった。
(受信側の装置に使う部品が、そちらの世界でようやく揃うようになったのだから、仕方がない)
確かに、これを真空管で作っていたらとんでもない大きさになっただろう。
この装置は、仮に「I端末」と呼ぶことになった。
二つ目の装置は、製図版に電動機で上下左右に動くペンが付いたものだ。これを砥論につなげば、そこから出る信号で作図ができる。
「最初からこれがあれば……って、砥論がないと意味ないですね」
(君の時代からこの発想が出てなかったのは、ちょっと意外だったな)
了の時代ではXYプロッターと呼ばれる機器だというが、これもこちらでは仮に「電動製図機」と呼ぶことになった。
二つの装置の設計図は東京芝浦電気に送られ、早速、製作が始まった。
ちなみに、この会社は東京電気と芝浦電気が二年前に合併してできたものだ。了の世界では戦後に東芝という社名になる。
翌週、肇は仁科博士に連絡を取った。
日立町の工場の一角に作られた零号機原子炉の前で落ち合った。零号炉の点火燃料ウラン235を濃縮した遠心分離機は、すべて撤去され、がらんとした通路が延々と続いた。
「もう必要ないと言う事なので、トリウム熔融塩炉の三号炉が出来た時点でウラン濃縮設備は解体し、売却しました」
それからずっと、天然ウランを燃料とする原子炉は無かったことになる。原爆材料になるというプルトニウムは、日本の持つ原子炉では発生していない。
零号機炉は九年前に最初に見た時と同じ外観だった。ただ、動作は停止し、燃料もすべて搬出されて空になっている。当然ながら、作業員もいない。
「作業員の方々は、どうしています?」
微量とは言え、放射線を浴びながら作業する彼らが気になったので、仁科に聞いた。
仁科は、微笑んで答えた。
「初号機炉以降で働いています。むしろ元気なくらいですよ」
よかった。心底そう思う。
そこへ、了が接続してきた。
(肇、いいかな?)
「あ、ちょっと待って。はい、どうぞ」
手近な椅子に体を預け、了と替わる。一瞬、全身の力が抜けたあと、眼を開き立ち上がる。
「仁科博士。具体的な作業ですが」
「はい。やはり原子爆弾ですね」
仁科も予期していたようだ。了は言った。
「博士には、原爆材料のプルトニウム製造をお願いします」
禁断の天然ウランを燃料にした原子炉が、再稼働することになった。初号機炉以降から小分けされた熔融塩燃料に、天然ウランを徐々に追加しながら反応させるのだ。この天然ウランの主成分であるウラン238が、プルトニウムに変換される。ウラン燃料にトリウムを追加していった前回とは逆に。
零号機炉には一つだけ小さな装置が追加されたていた。熔融塩燃料が循環する配管につけられた、電解槽である。塩の仲間である溶融塩は電気を通す。すると、メッキと同じ原理で、融け込んでいる物質が電極に析出するのだ。どの物質が析出するかは、電極の材質で変わる。適切な材質を選べば、プルトニウムが溶融塩燃料から抽出できる。
これをさらに何段階かの工程で不純物を取り除くことで、核兵器に使える高純度のプルトニウムが得られるのだ。
これが原爆製造の第一段階であった。
二月、東京芝浦電気からI端末と電動製図機の試作品が完成したとの連絡が入った。早速、尋ねてみる。
了が勧めてくれたので、学校帰りの光代を連れてきた。
「おお、光代ちゃんお久しぶり。すっかりお姉さんになったね」
開発部の部長は光代を見ると愛想を崩した。部長に案内されて研究室に入ると、実験机の上にI端末と電動製図機が置かれていた。その背後には中型の砥論電算機。試作機なので、電動製図機が描ける図面のサイズは大学ノート程度だった。
「電源は既に入ってます。準備完了です」
部長の言葉に続けて、了が告げる。
(こちらも準備できた。一旦、接続を切る)
肇の脳内から、了の気配が消えた。と、I端末の頂部にあるランプが点った。やがて点滅を始めると、背後の砥論計算機のランプも点滅を開始する。
「お父さん、なにが始まるの?」
光代は不思議そうに機械を眺めている。
「良いから、見ててごらん」
突然、電動製図機が動き出した。十字型に組まれた腕木が前後左右に動き、その交点に設置された製図ペンが上下する。紙の上に滑らかな曲線が描かれていく。直線も。
最終的に描かれたのは、初老の男の顔の線画だった。
「このおじさん、誰?」
光代にとっては初めて見る顔だった。肇は答えた。
「よく見てごらん」
ふと見ると、I端末のランプは消えていた。そして、了が接続してくる感覚。
部長が電動製図機から紙を外し、渡してくれた。光代は描かれた顔をしげしげと眺める。
「なんとなく、お父さんに似てるかな」
鼻筋や眉のあたりを指で辿る。
了の世界の電算機には、テレビジョン撮像管で撮った画像を線画にする算譜があるのだそうだ。それを最初に転送する作図にしたわけだ。
「その絵を胸のあたりで持って、こっちを見てくれるかな」
光代は肇の言うとおりにしてこちらを見た。
(ありがとう、肇)
自分の似顔絵を手にする、幼いころの祖母。奇妙な感動を了は感じた。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
ハリー・デクスター・ホワイト
【実在】米国財務次官補にしてコミンテルンの工作員。
ハル・ノートの原案を作成し、日本を開戦へ追い込んだ。
次回 第八話 「十六機の悪魔」




