第三話 二匹の虎
時は四か月ほどさかのぼる。
一九四一年八月、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズの艦上にいた。場所はカナダ東部のニューファウンドランド島の沖合。セント・ロレンス湾に接する島で、イギリスの海外統治領の一つだった。夏の盛りも冷涼なこの島だが、海岸を覆う森林は緑に彩られていた。
この島は、昔ノルウェーのヴァイキングが到達したという伝説の土地、ヴィンランドだとする説もある。島の先住民族は一度はヴァイキングたちをこの島から追い払ったが、その子孫たちが大航海時代を迎えると圧倒され、やがて入植者たちに土地も命も奪われて滅んだ。
「ようこそ、大統領」
アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトを出迎えるチャーチルは満面の笑みであった。ナチスドイツと交戦中でもあり、ずんぐりとした体躯に軍装をまとっている。
しかし、ルーズベルトは渋い顔だった。付きの者に渡り板の上を車いすを押されて進まねばならないのだ。二十年前にポリオを患い下半身まひとなったが、その姿を人に見られることは耐えられない屈辱だった。写真のアングルなども工夫し、米国人の大半からは隠しおおせているが、直接会談する相手となるとそうした工夫もできない。
ルーズベルトをこの島まで運んだアメリカの駆逐艦マクダガエルは、巨大な英国戦艦に横付けされるとあまりにも小さく貧弱に見えた。それはヨーロッパからの入植者に駆逐されたこの島の原住民を連想させ、さらにルーズベルトを不愉快にさせた。
形どおりの挨拶の後、甲板上にあつらえられたテントの下で会談ははじめられた。
大西洋憲章。
今回、英米両国が締結することになった憲章である。先の世界大戦の時にアメリカ大統領ウィルソンが発表した十四カ条を真似たもので、事実上、この大戦が終結したのちの両国による世界構想と言えた。その内容は下記の八項目からなる。
一、合衆国と英国の領土拡大意図の否定
二、領土変更における関係国の人民の意思の尊重
三、政府形態を選択する人民の権利
四、自由貿易の拡大
五、経済協力の発展
六、恐怖と欠乏からの自由の必要性
七、航海の自由の必要性
八、一般的安全保障のための仕組みの必要性
一見、美辞麗句の連なりに見える。実際、石動了の知る歴史では、後の国連憲章の基盤ともなっていた。
しかし、各項目に関しては意外に強硬なやり取りがあった。
たとえば第三項。ルーズベルトは確認した。
「これは世界中の民族が自分の政府を持つ、民族自決の権利と解釈してよろしいかな」
だが、チャーチルは否定した。
「この憲章の適用範囲は、ナチス支配下にあるヨーロッパ諸国のみであります。大英帝国が広がるアジアやアフリカは除外されるべきで、憲章の条文にもそのことを明記すべきです」
ルーズベルトの眉間の皺は深くなった。彼にしても植民地支配を否定するつもりはない。しかし、イギリスがこの戦争後にも広大な植民地を擁していては、アメリカが勢力を伸ばす余地がない。
「こうした憲章が力を持つためには、崇高な理想を掲げる必要があります。ヨーロッパに限定したのでは、この憲章の影響範囲も限られてしまうでしょう」
激論の結果、この部分の条文は曖昧な表現で終わった。
さらに第四項も激論となった。
「この大戦後の世界に恒久平和を築くには、世界規模の自由貿易こそが必要です。人や物が国境を越えて行き交い、国同士がお互いを必要とすることで、初めて世界は一つとなれるでしょう」
ルーズベルトの言葉は美しかったが、実際には形を変えた植民地主義である。ただし、その従属関係は武力ではなく、経済力で決まる。今や世界有数の生産力を誇るアメリカの産業は、その力を持て余していた。彼が就任直後に行ったニューディール政策は、一時は国内の景気を押し上げた。しかしそれも今や下火となり、国内需要は伸び悩んでいた。このままでは大恐慌の再来である。
そこで今後の人口増加が期待されるアジア、特に支那に目を付けた。アメリカの生産物を消費する市場、原材料などの産地。まさにそれは、北米大陸から消滅したフロンティアだ。
その妨げとなるのが日本である。
だが、チャーチルはこの案にも反対した。
「大英帝国内の関税特恵制度を変更するつもりはない!」
関税特恵制度は、イギリスを中心としたカナダやオーストラリア、インドなどの自治国家や植民地を束ねるブロック経済であり、大英帝国の生命線でもあった。これが無くなればイギリス本国が連邦の各国を経済的に束ねることができなくなり、新興の工業国であるアメリカに市場を奪われかねなかった。
しかし、ルーズベルトも食い下がった。
「ファシストどもの奴隷制と闘いながら、同時に自分たちの前近代的な植民地支配体制から全世界を解放する気がないというのは、いかがなものか」
これはチャーチルの臓腑をえぐった。顔を真っ赤にして反論しようとするが、激昂のあまり言葉にならない。終いには椅子から転げ落ちそうになって、そばにいた士官に助け起こされる有様だった。
自分たちは二匹の虎だ。
ルーズベルトは思った。老いたる虎と若き虎が、全世界という獲物を前にして、どちらがより多くを喰らうか狙っている。ヒトラーとの戦いも、日本への締め付けや恫喝も、そのための手段にすぎない。
チャーチルが最新鋭戦艦で乗り付けたのも、大英海軍の威容を見せつけたかったからだろう。
しかし、激論を繰り返した二人だが、日本への対応だけは一致した。支那から手を引け、手に入れた全てを差し出せ、と。それをどちらが喰らうのかは、そのあとだった。
十二月八日、日本の真珠湾奇襲の知らせを聞いたとき、チャーチルは狂喜した。早速、ルーズベルトに電話すると、大統領は「ついに我々は同じ船に乗った」とチャーチルに語ったという。この時、チャーチルは勝利を確信した。日独伊三国同盟がある以上、日本と交戦すればドイツとも戦争状態となる。大国アメリカがイギリスの友軍として戦うことになるのだ。
今ここに、二匹の虎は獲物を仕留めるために手を結んだのだ。
「ああ、神よ感謝します。大英帝国は滅亡を免れました。ヒットラーもムッソリーニも運命は決まりました。日本に至っては木端微塵です」
何よりもシンガポールには、あのプリンス・オブ・ウェールズがいる。大英海軍の最新鋭艦がいる以上は、東洋の黄色いサルなど一ひねりに違いない。
そのプリンス・オブ・ウェールズを送り込むにあたり、チャーチルは熱弁をふるった。
「この最新鋭艦の存在が日本に対する抑止力になるはずです」
記者会見の席で、トレードマークでもある葉巻を振り回しながら続ける。
「これは過剰な期待でしょうか? そうは言い切れないはずです。ドイツが相次いで投入した戦艦ビスマルクとティルピッツを思い起こしてください。これらの戦艦が、それぞれただ一隻でどれほどイギリス海軍を翻弄したことか」
ビスマルクとティルピッツ。時期をずらして就任した姉妹艦は、それぞれ一艦で大西洋の戦局を大きく動かした。この両艦が存在している間、イギリスの艦隊はその撃沈を最大の目標として動かざるを得なかった。他の全てを犠牲にしてである。
「ならば、日本もこの艦と戦うために多大な戦力を投入し、それらは消耗されるでありましょう。生意気な小僧の鼻っ柱をへし折るには、充分な戦力であります」
しかし、自信満々のチャーチルが自分自身の鼻っ柱をへし折られたのは、二日後の十二月十日であった。
「あの艦がー!」
プリンス・オブ・ウェールズ撃沈の知らせに、そう叫ぶとチャーチルは頽れた。大英帝国の象徴ともいえる艦が、何の反撃をする機会もなく、一方的に屠られたのだ。これはすなわち、大英海軍の凋落を意味する。
その十二月十日、プリンス・オブ・ウェールズの撃沈の後。
追い打ちをかけるかのように、日本からは「大東亜宣言」が発布された。米英の大西洋憲章より明確に「民族自決」を謳ったものである。すなわち、日本が欧米列強から解放した植民地は、十年後を目途に独立させる。そのための教育や上下水道、交通、発電などのインフラは日本が支援して整える、と条文に明記されていた。これはすなわち、日本が台湾や朝鮮半島、満州でまさに行って来た政策である。
石動肇が開戦直前の御前会議でねじ込んだ宣言であった。東南亜細亜の植民地化による利権を期待してた向きには不評ではあったが、「八紘一宇」というスローガンを掲げた以上は反対のしようがなかった。
この時点で、すでに大西洋憲章は陳腐化していたと言える。
とは言え、「わだつみ」の方も戦勝気分とは言えなかった。空母インドミタブルの存在である。一同、発令所で海図を広げた卓を囲み、対策を考えているところだ。
「結局、こちらの魚雷はそこまで届いていないんですね」
海野副長が通信士に確認する。相手は頷いた。
近藤中将の第二艦隊からの戦闘結果を伝える電文には、撃沈は戦艦二隻のみとある。この通りなら、インドミタブルは無傷だ。
草薙艦長がつぶやく。
「空母は基本、艦隊の前衛という考えだからな」
大鑑巨砲主義が色濃く残る英国海軍らしい配置だった。「わだつみ」は艦隊の後方から発射したため、魚雷は手前の大きな目標の戦艦二隻、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスに集中してしまったようだ。
「次はこいつを何とかしなければ、今後の戦況に影響しかねん」
艦長の指摘に、一同頷く。石動予言によれば「存在しないはず」の空母は、本来の戦力以上に不気味だった。
空母の存在は、すでに第一次マレー沖海戦の様相を変えてしまっている。日本の攻撃機部隊は、空母から発進した迎撃機に次々と落とされ、ほとんど戦果を挙げることなく撃退されてしまったのである。
ちなみに、それに続く第二次マレー沖海戦が「わだつみ」の攻撃であるが、こちらは公式には伊号潜水艦の手柄とされている。
「シンガポールを落とすには制空権が必要だが、こいつがマラッカ海峡から艦載機を投入したら厄介だ」
艦長の言うマラッカ海峡は、マレー半島の西側、スマトラ島との間の海峡だ。マレー半島の幅は、一番広いところでも三百キロ程度しかない。十分に艦載機の行動範囲内である。一方、日本の航空戦力は南シナ海を挟んだサイゴンにあり、マラッカ海峡はギリギリ届くかどうかだ。虎の子の空母は全て真珠湾で、こちら側には一隻もいない。
しかも、南シナ海南部からマラッカ海峡までは、潜水艦が苦手とする浅海域である。特にマラッカ海峡への入り口、シンガポール海峡は水深二十メートルしかない。幅も一番狭いところでは十キロを切る。潜航したままの通過は自殺行為だが、浮上航行で「わだつみ」の姿を晒すことなど論外である。
「海底軍艦が空を飛べたらなぁ」
草薙艦長のぼやきに、海野副長は苦笑した。
「さすがにそれじゃ、空想小説ですよ」
気持ちを入れ替え、副長は言葉をつづける。
「日本軍が半島の根元を押さえている以上、シンガポールが落ちるのは時間の問題なんですが」
海野副長の言葉に、草薙が答える。
「そうなれば、英国艦隊は後退するしかないな」
指先がマラッカ海峡を北へと辿る。
「アンダマン海で待ち伏せるか」
海峡の出口であるアンダマン海は比較的水深が深いので、「わだつみ」の行動に制約が少なかった。
「その場合、日本の航空隊の被害には目をつぶることになりますな」
副長の指摘に、艦長は顎鬚をしごいて考えた。
「止むをえまい。我々も万能ではないからな」
そうなると、問題は航路である。マラッカ海峡が通れない以上、迂回するしかない。現在地の南シナ海を東へ戻り、ボルネオ島の東側、マカッサル海峡を南下し、ジャワ海東部のやや深い海域を通って、バリ島の東をかすめ、インド洋に出る。そこからジャワ島南岸、スマトラ島西岸に沿って北西へ進み、アンダマン海に入る。
「ざっと三千海里を超す大長征となります」
航海長の説明を受けて、艦長は副長に言った。
「『わだつみ』の準急航行なら、十日で辿れるだろう」
ところが、そう簡単には行かなかった。ボルネオ島と北のパラワン島の間は予想に反して浅海が続いており、航路を探しても見つからなかった。先日の海戦では浅海域に突入したが、味方索敵機の彩雲に艦影が目撃されてしまっている。この海域も熱心に飛び回っており、浅深度を進むのはためらわれた。
「味方の航空支援が恨めしいとはな」
ぼやく艦長を、副長がお地蔵様の異名の通りにたしなめる。
「じっくり行きましょう。先は長いんですから」
一方、太平洋の「くしなだ」も、思わぬ苦戦を強いられることになっていた。
あの芹沢のシーウルフ艦隊の存在だ。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル
【実在】イギリス首相。
フランクリン・デラノ・ルーズベルト
【実在】アメリカ大統領。
次回 第四話 「一匹の狼」




