第一話 二つのゼロ
一九四一年十一月二十八日。
真珠湾では緊張が高まっていた。日本との開戦が迫っているという情報は既に広まっており、アメリカ海軍ではその準備に明け暮れていた。折りしも、若い水兵たちが弾薬を輸送車から降ろしながら噂話をしていた。
「日本と戦争か」
「俺はやってやる。うちらの司令官はあの『ブル』だぜ」
ウィリアム・ハルゼー・ジュニア。通称「ブル・ハルゼー」の異名を持つ第二空母戦隊司令官だ。勇猛果敢なだけでなく、常に末端の兵士とも親しく言葉を交わすため、部下からも信頼が厚かった。
「あのじじいのためなら、いつでも死ねる」
そう大見栄を切った水兵の後ろから、声がかかった。
「おい若いの。俺はそんなに年寄じゃねえぜ」
ハルゼー中将本人であった。齢六十を超えたとはいえ、アメフトで鍛えた体は衰えを見せない。
慌てて敬礼する水兵たちに豪快な笑いで応えてから、ハルゼーは座乗艦である空母エンタープライズに向かった。
途中、親友のレイモンド・スプルーアンス少将を見かけ、声をかける。ハルゼーの部下でもあり、空母を護る巡洋艦戦隊司令を務めている。
「よう相棒。いよいよだな」
スプルーアンスは答えた。
「やっぱり、始まるんですかねぇ」
「浮かない顔だな。どうした」
ハルゼーの問いかけに、ため息をつく。
「日本は侮れません。あのアドミラル・トーゴーの国ですよ」
若いころ二人は、アメリカ海軍力誇示のための世界一周航海、グレート・ホワイト・フリートに参加した。その寄港地の日本で、日露戦争の英雄、東郷平八郎に会った時のことを思い返す。
「うむ。トーゴーはまさにサムライだったな」
ハルゼー自身、日本が開いた園遊会で、東郷の胴上げに参加したほどだった。日露戦争での日本の勝利を「卑怯なだまし討ち」などと酷評していた彼だが、東郷本人への感想は違ったようだ。
「その彼の後継者が日本には沢山います」
悲観的な友の背中を、ハルゼーは叩いた。
「おいおい、俺たちもあの頃の若造じゃねぇぞ。敵が強ければ戦い甲斐があるってもんだ」
二人はエンタープライズの停泊する埠頭に着いた。が、ハルゼーの眼はその隣の軽巡に釘付けとなった。
「すげえなこりゃ。じじいというならこの艦だろう」
シーウルフ艦隊の旗艦、セーラムであった。艦齢三十年を超える旧式艦だ。その向こうには、同じくらい古い駆逐艦が数隻。
そのセーラム舷側のタラップから、一人の東洋人が降りてきた。大柄な白人を従えている。二人とも軍服は着ていない。
「おい相棒。なんでここにジャップがいるんだ? スパイか?」
聞こえよがしにハルゼーが言う。
「スパイならむしろ人目につかないようにするでしょう」
スプルーアンスがたしなめる。
その東洋人の男はハルゼーに厳しい眼を向けると、足早にこちらに歩み寄ってきた。その背後から白人が呼びかける。
「ボス、よしましょうよ。相手はブル・ハルゼーですよ」
意に介さず、男はハルゼーの眼を見て名乗った。
「私の名はミハイル・ゴロエノビッチ・セリザワ。ジャップではない。ロシアからの移民だ」
芹沢の冷徹な視線に、さすがのハルゼーも鼻白んだ。
「ほう。じゃあ、JM社の社長さんじゃねぇか」
海軍に多数の武器を収めているジョン&ミハイル社のことは、ハルゼーも知っていた。
「そのセリザー社長が、わが軍の骨董品を集めて何を?」
「新兵器のテストだ」
芹沢は自分の艦隊を親指で指した。
「外側は古くても装備は最新だ。あんたのデカブツよりもな」
二人の会話に、スプルーアンスは心配になってきた。この非常時に、暴力沙汰は困る。ふと、芹沢が連れている白人男性と目が合う。お互い、同じ立場であることがわかり、同時に苦笑いした。
「言ってくれるな。まぁ、こんどの戦争が終わった時に、あんたの艦がまだ浮いていたら、一杯奢るぜ」
不敵に笑うハルゼーに、芹沢は口の端をわずかに歪めて答える。
「良いだろう。こちらも、あんたの船が無事に戻ったら奢ることにしよう」
振り返り、後ろの白人男性に声をかける。
「ジョージ、行くぞ」
その二人の後姿を見送りながら、スプルーアンスは呟いた。
「戦いの前に、妙な賭けなんてするもんじゃありませんよ」
ハルゼーの座乗する空母エンタープライズは、ハワイの西二千海里にあるウェーク島へ航空機を運ぶために真珠湾を出港した。スプルーアンスの乗る重巡ノーザンプトンもこれに従った。開戦前であり、日本を刺激しないための極秘裏での出発である。
「もし日本を刺激したら、どこまでやったらいい?」
出港前にハルゼーは、友人でもあり上司でもある太平洋艦隊司令長官のキンメル少将に問うた。キンメルの返事はこうだった。
「俺が責任を取るから、常識で判断しろ」
ハルゼーは文字通り小躍りした。
「今まで部下として受けた命令のうち、最高の命令だ」
ところが、航空機を降ろして帰投する途中、思いがけない電文を受ける。暗号ではなく、平文で。
「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」
ハルゼーは壁に拳を打ち付け、叫んだ。
「やりやがったな、ジャップめ!」
その時、見張り員の声が響いた。
「十時の方向、敵機です!」
見たこともない新型機だった。翼にはミートボール、赤い丸が描かれている。
「迎撃! スクランブルだ!」
ハルゼーの命令で、直ちに数機のグラマンF4Fワイルドキャットが飛び立つ。しかし、敵機はひらりと旋回すると、驚くほどの高速で飛び去った。見る見るうちに引き離されていく。
通信士が、これもまた平文の通信を傍受する。
「ワレニ オイツク グラマン ナシ」
この開戦に間に合わせるべく開発された、零式艦上策敵機、彩雲であった。
「馬鹿にしやがって、ジャップめ」
歯ぎしりしつつ、ハルゼーは僚艦ノーザンプトンに発光信号を送るように命じた。
「作戦を協議する。スプルーアンス司令は旗艦へ来られたし」
ところが、返事は意外だった。
「司令は体調不良にて動けず」
「何やってんだ、全く。いい、俺が行く」
連絡艇を用意させて、ハルゼー自らノーザンプトンへ向かった。甲板で出迎えたスプルーアンスは蒼い顔だった。
「寝てなくて大丈夫か?」
さすがのハルゼーも心配になった。
「いえ、横になると吐きそうで」
生真面目な性格が胃に来たようだ。それでも親友でもある上司を艦内にいざなおうとしたその時。
ズン、と腹に響く衝撃があった。スプルーアンスの眼が見開かれる。ハルゼーは振り返った。
「なん……だ」
あまりのことに、ハルゼーも言葉が出ない。
背後の海面に巨大な水柱が立ち上がり、エンタープライズの巨艦が跳ね上げられていた。甲板上の艦載機が弾き飛ばされている。次に艦は海面に叩きつけられ、中央部から折れて瞬く間に沈んでいった。
「ジャップめ!」
そう叫ぶとハルゼーは舷側に駆け寄ろうとし、スプルーアンスに引き止められる。
「危険です!」
直後、今度は二人のすぐ眼の前の海面に巨大な水柱が上り、弾かれるようにノーザンプトンは反対側に大きく傾く。
二人は甲板を転がり、海面に落下した。
海中で意識を失う寸前、スプルーアンスは思った。
やはり、妙な賭けなんぞするもんじゃない、と。
海底軍艦「くしなだ」の発令所に、聴音手の声が響く。
「空母エンタープライズ、轟沈。もう一発は重巡ノーザンプトンの手前で爆発したようです」
この報告に御厨正人艦長は頷くと、傍らの石動肇に語り掛ける。
「沈む空母に、近接信管が反応したようですな」
肇も頷く。と、聴音手が再び報告した。
「別な圧潰音。どうやら重巡の方は転覆して沈没したようです」
肇は艦長に言った。
「おまけ付きでしたね」
艦長は答えた。
「放った酸素魚雷は二本。沈めたのも二隻。空母と重巡が重なっていたため、時間差をつけて発射したのが功を奏したようです」
「彩雲のおかげです」
肇の言葉に、艦長は頷いて同意した。
海で最強を誇る海底軍艦にも泣き所はある。索敵だ。
音だけが頼りの潜水艦では、遠方にいる敵を発見することは困難だ。水中で音は大気中より速く、より遠くまで伝わる。実際、方位だけならかなりの遠方の艦艇を感知できる。しかし、距離は難しかった。
そこで、味方空母から索敵機を多数発進させ、その情報に基づいて攻撃する、空海協調戦法が編み出された。そのための彩雲である。
既に帝国海軍の潜水艦は、同じ目的で水上偵察機を搭載していた。しかし、フロートを履いた水上機は空母艦載機よりも速度で劣るため、撃墜されることが多いと予想される。彩雲が航続距離のみならず速度を重視した開発となったのはこのためだった。
今回の作戦では、各空母の搭載機の一割を彩雲が占め、作戦発動に先立って、敵空母の位置を探っていた。
石動了の歴史では、真珠湾奇襲で米空母を討ち漏らしたことが、後の敗因の一つとなっていた。ここでまずは一隻。
「さて、では次の獲物を狙いに行きますか」
そう言うと、艦長は命じた。
「両舷全速。方位、フタナナマル」
ぐん、と加速感があり、「くしなだ」は次の敵艦隊を目指した。
零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦は、この日、大空の覇者となった。
夜明けとともにハワイの北から侵入した第一次攻撃隊は、地形に沿って飛びながら電探と対空の陣地を次々に潰していく。海上で二手に分かれた部隊は、海岸を通過する際にさらに分れ、四つの編隊が四方から真珠湾に突入した。
通信機からモールス符号の「ト」が続けて響く。ト連送、「全軍突撃」の合図だ。
「さあ、行くぞ」
若き飛行士は操縦桿を握り直し、対空砲火の中に飛び込んでいった。
第一の目標は敵の戦闘機だ。奇襲の甲斐あって、ほとんどがまだ地上に駐機中だった。急降下し、機銃掃射。爆発炎上する敵機をしり目に、次の目標を探す。隣の滑走路から、今まさに飛び立とうとする機体があった。
機体を翻し、上昇しようとする敵機の背後に着く。
「もらった!」
照準器の中に舞い込んだ敵機に、機銃をお見舞いする。たちまち炎に包まれ、爆散する。
「次だ!」
さながら飢えた猛禽類のように、次々と屠っていく。
一方、地上攻撃の主人公は九九式艦上爆撃機だった。着陸脚がむき出しの無骨さも、急降下爆撃ではむしろ速度を押さえるのに役立つ。上空から逆落としで敵陣に突入し、二百五十キロ爆弾を投げ込む。対空砲火、電波探知塔、弾薬庫、戦闘車両。軍事目標だけを狙っていく。事前に与えられた真珠湾基地の地図は、極めて精緻だった。I機関の工作員が現地の日系人を装って調査した結果である。
そして、停泊中の敵戦艦。この日のために開発された徹甲爆弾が投擲され、その装甲をぶち破り、爆発する。
止めとなるのが九七式艦上攻撃機だった。超低空で湾内に侵入し、腹に抱えた愛甲魚雷を敵艦に向けて放つ。従来は水深六十メートルが必要とされた航空雷撃だが、水深十メートルの真珠湾向けに開発されたこの魚雷は、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させつつ海面に突入し、次々と戦艦の横腹に命中していく。
零式艦上戦闘機、ゼロ戦。
零式艦上索敵機、彩雲。
二つのゼロに加え、先輩格の機体の活躍によって、真珠湾基地と米太平洋艦隊は瓦解した。
「トラトラトラ、入電」
我、奇襲に成功せり。
通信手の報告に、山本五十六は将棋の手を休めて呟いた。
「よし。では行くか、うちらも」
連合艦隊旗艦長門に率いられた地上攻略部隊が、ハワイへと突入を開始した。既に反撃力と指令系統を失っていた真珠湾の米軍には、なすすべがなかった。
これこそが、了の知る歴史からの最初の分岐点であった。
ハワイ陥落の知らせを、芹沢は海上で聞くこととなった。シーゴーストを狩るべく出港して一週間、なんの成果もなかったうえでの出来事だ。
「ボス、大変ですよ、あそこには奥方が」
ジョージは心配そうだが、芹沢は平然としていた。
「日本の軍人は節度があるそうだ。手荒なことはしないだろう」
そこへレーダー手の報告。
「二時の方向に大型水上艦」
艦長が航海士に問う。
「この位置の味方艦はあるか?」
海図と資料を調べ、航海士が答えた。
「空母レキシントンが該当します。ミッドウェーに航空機を運搬する途中かと」
真珠湾奇襲の報を受け、引き返してきたところだ。
「敵機来襲!」
レーダー手が叫ぶ。だが、画面に浮かぶ光点は一つだけだった。
「索敵機か」
そう呟いた後で、芹沢は顔をしかめた。
「ハワイを占領しても索敵ということは、何を探している?」
芹沢の呟きに、艦長が答えた。
「反撃可能なこちら側の戦力ですな」
パチン、と指を鳴らして芹沢は言った。
「間違いない。やつらの狙いはレキシントンだ」
と、今度はソナー手から報告があった。
「九時の方向、微弱ながら感あり。……シーゴーストです!」
予想が当たった。芹沢は命じた。
「間に入れ! 戦闘準備!」
これを受けて、艦長が次々と指示を出していく。
やがて右舷にレキシントンの巨体が迫ってきた。芹沢のシーウルフ艦隊は、一列の単縦陣で空母の盾となる形だ。
再びソナー手。
「魚雷走行音! 九時の方向!」
芹沢が言った。
「ヘッジホッグ・バリアだ」
艦長の号令が飛ぶ。
「全艦、左舷ヘッジホッグ・バリア、発射!」
JM社が開発した対潜水艦兵器ヘッジホッグは、多連装の爆雷投射迫撃砲だった。しかし、全艦が打ち出した爆雷は海面に突入しても沈んでいかず、深度十メートル程度に留まっていた。
そこへ、「くしなだ」から発射された酸素魚雷が突入。磁気近接信管で、周囲の爆雷が一斉に爆発する。
「魚雷撃破!」
巨大な水柱が上がる。左右から押し寄せた衝撃波で、魚雷は爆砕された。
聴音手の報告に、肇は愕然とした。「くしなだ」の発令所を沈黙が占めた。
隣を見ると、艦長も目を見開いたまま首を振った。
「何があったんですかね」
艦長の質問に、肇は答えるすべがなかった。
「いずれにせよ、この音響データを解析してみるしかないですね」
聴音手の次なる報告。
「敵空母と軽巡の艦隊、遠ざかります」
肇と艦長は、深追いをすべきではないという意見で合意した。
日本の、海底艦隊の戦いは、まだ始まったばかりである。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
ウィリアム・ハルゼー・ジュニア
【実在】第二空母戦隊司令官。階級は中将。
あだ名は「ブル・ハルゼー」。
レイモンド・スプルーアンス
【実在】巡洋艦戦隊司令官。階級は少将。
次回 第二話 「一人の武将」




