第二十八話 激流と厳粛
昭和十六年九月六日。
御前会議も二度目となると、多少は精神的負担も軽くなる。あくまでも多少は、だが。
石動肇は鏡の前に立って襟を直した。第二種礼装を着るのは二度目だが、軍人ではない肇にとって、馬子にも衣裳以外の何物でもない。
(なかなか似合うじゃないか)
脳内で了が言った。
「全く、接続してくるんなら、最初の時にしてくださいよ。大変だったんですからね」
(なかなか良い経験だったろう)
「嫌な汗を沢山かきました。あの後、洗濯に出したらえらいことになりましたよ」
下着などは絞れるくらいだった。
その時、扉が開いて案内係が声をかけた。
「閣下、お時間です」
肇は答えた。
「すぐ行きます」
廊下を歩きながら愚痴る。
「なんで今回はいるんです?」
(今日、会議で詠まれる陛下のあの和歌は、直に聞きたい)
「それだけですか」
肇は呆れつつも、御前会議の間に入る。
四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ
会議の中、厳かに陛下が詠まれた歌は、明治天皇の御歌であった。
既に米蘭両国は日本へのすべての輸出を停め、国内経済は厳しさを増してきた。特に、鉄と石油の不足は重い足かせとなっている。このため、十月下旬を目途に陸海軍は戦争準備を整えつつ、日米交渉を十月で打ち切り、進展がなければ開戦というのが政府の上奏であった。
陛下は開戦に反対する意思を籠めて、この歌を詠まれた。
肇は複雑な思いだった。I計画の最終目的は核兵器の芽を摘むことであり、そのためには日米開戦は避けられない。しかし、陛下の望みは、あくまでも平和的解決であった。
続いて陛下は言われた。
「朕は常にこの御製を拝誦して、平和愛好の精神を紹述することに努めている。戦争は極力避けなければならない。しかるに、今わが国が戦争か平和かの岐路に立っている時、統帥部は責任ある答えをしていない」
会議の間に緊張が走った。御前会議で陛下が発言することは異例だからである。しかもこれは、軍部に対する厳しい叱責であった。
さらに陛下は言葉を続けられた。
「海底艦隊総司令、石動肇」
「……はい」
名指しで呼ばれて、肇は起立した。冷汗が背中を流れる。
「そちの艦隊はどのように戦いを終わらせる?」
ありのままに答えるしかない。
「端的に申しませば、我らにできることは敵艦を沈めることだけです。しかし、相手が負けを認めなければ、どれだけ沈めても戦は終わりません」
「では、いかにして?」
陛下の問いかけに、肇は答えに詰まった。
(肇、これを読め)
了の声に従い目を閉じると、了の見る画面が脳裏に映った。
国のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき 事な忘れそ
これもまた、明治天皇の御歌の一首であった。
瞑目したまま、肇は言葉をつづけた。
「相手の国民が、真の敵に気づくように導くことです。国同士を戦わせることで、利益と権力を貪る輩に」
真の敵。それは芹沢が傾倒した共産主義であり、五年前に上海で対峙したサッスーン財閥のような国際金融資本に間違いない。了は、この両者は実際には繋がっていると言う。
目を開けると、肇は続けた。
「開戦を避けるならば、交渉の中で真の敵を暴くしかありません。また、もし開戦となるならば、その証拠を掴む機会とせねばならないと愚考いたします」
陛下は頷かれた。
控えの間に戻ると、肇はぐったりと椅子に倒れ込んだ。了が話しかける。
(上手く行ったじゃないか)
「寿命が縮みますよ」
卓上の水差しを取って、コップに注いで一気にあおる。
「何より、居並ぶ中で一人だけカンニングなんて、気が引けます」
(そのくらいしなければ、歴史は変えられない)
肇は襟元を緩めた。胸元は汗でびっしょりだった。
「しかし、まだ二回もあるんですか、これ」
(大丈夫だ。次回は再来月だが、今回の再確認でしかない。内閣が変わるからな)
「内閣が? この前、改造したばかりでしょう」
暴走しまくった挙句に辞任を渋る松岡洋右外相を更迭するため、七月半ばに近衛第二次内閣はいったん総辞職し、再び組閣したのだった。
(陛下の真意は平和的解決だ。それが上手く行かないとわかると、来月、近衛は政権を投げ出す)
「で、誰が次を?」
(東条英機だ)
「あの人ですか……」
生真面目が軍服を着たような軍人だ。
「無責任なだけの近衛文麿よりましでしょうが、首相の器ですかねぇ」
そう言いつつも、自分も器でないと思わざるを得ない肇だった。
二週間後の夜、肇は横浜船渠にいた。海底軍艦弐番艦「くしなだ」が完成し、試験航海に出るためだ。
「おや、今日は軍服ではないんですか」
早速、「わだつみ」艦長の草薙にからかわれた。
「よしてくださいよ。もう、二度の御前会議で十分トラウマです」
肇は身震いした。
「おお、石動君」
背後から野太い声がした。平野平弥太郎機関長だ。
「ん? 軍服を着ないんですか。もったいない」
さっさと出港しないものか。肇は必死で願うのだった。
その願いは、しばし後回しになる。「わだつみ」から、御厨正人副長と平野平機関長をはじめとした乗組員の半数が、「くしなだ」に転任するためだ。それぞれの艦の残りの半数の乗員は、「すのまた」での訓練を終えた新人となる。
そこで、ささやかだが、出航の前に彼らの壮行会兼歓迎会が行われた。
「なんだぁ、酒は出ないのか」
軽口を叩くのは機関員の一人、滝沢だ。彼も移転組だった。
「出るわけないだろうが」
ばし、と平野平に背中を叩かれる。
「『くしなだ』に移っても、ビシビシ鍛えるから、そう思え」
「ひぇ~」
軽食が振舞われ、酒はないがひとしきり飲み食いした後、全員が「くしなだ」に乗艦した。すっかり夜は更けている。
「さすがに、人が多いですね」
草薙が発令所を見回す。「くしなだ」艦内には、本来の乗員であるベテラン組・新人組以外に、今回「わだつみ」に配属される新人組も乗艦していた。通常の一・五倍の人口だ。
発令所の通話機から、司令塔の操船指揮所にいる艦長御厨の声が響いた。
「こちらは艦長。総員、出航準備にかかれ」
発令所の操作員が一斉に動き出す。
「なかなか決まっているな」
指揮所へ続く連絡筒のハッチを見上げ、草薙は言った。
「どうも、まだ御厨さんを副長と呼んでしまいそうです。艦長なのに」
石動の言葉に草薙は笑った。
「いや、うちの新任の副長もなかなか優秀ですよ」
「わだつみ」の新しい副長は海野辰巳という。目が細く坊主頭なので、早速、あだ名は「海野地蔵」になった。新任とは言え、潜水艦乗りとしてはベテランだった。
「そういえば、今、『わだつみ』の指揮を執ってるんでしたね、海野さん」
「ええ、海底谷で待機してますよ」
出航は順調に進み、「くしなだ」は潜航開始した。やがて天井のハッチから御厨が降りて来る。
「東京湾海底谷へ向かう」
御厨艦長の指揮で、「くしなだ」は東京湾を出る。
やがて聴音手が報告した。
「前方に感あり。『わだつみ』です」
艦長の指示が出る。
「深度ヒトマルマル、両舷微速前進。超音波探針儀、起動」
「くしなだ」の艦首底部から超音波が発せられ、「わだつみ」の位置を補足する。側面推進器を小刻みに使い、「くしなだ」は「わだつみ」の斜め上後方にぴたりと付けた。
「魚雷挿入管、昇降連絡筒、起こせ」
「くしなだ」の艦首、左右の魚雷発射管の下の部分にある、細長い扉が開いた。そこから魚雷発射管に似た筒が下がり、斜め下前方を向いて突き出す形で静止した。同時に、艦底部に二列に並ぶ細長い四つの瘤が、それぞれ前後に三つに割れた。後の部分が艦尾へとずれると、真ん中の円筒部分が後端を中心に下向きに回転し、さながら四本足のように艦底から突き出した。
「『わだつみ』に接合する」
「接合、ようそろー」
発令所の前方にある二つのテレビジョン受像管が点った。それぞれには、強力なライトで照らされた『わだつみ』の甲板が移されている。甲板に描かれたマークと、受像管に描かれたマークが重なるよう、微調整を繰り返しながら、徐々に間合いを詰めていく。
やがて、軽い衝撃と共に、受像管の横のランプが点った。
「接合、完了」
報告の後、間髪入れずに艦長の指示。
「連絡筒、魚雷挿入管、排水」
ポンプの音と共に排水音がし、やがて止んだ。
「排水完了」
報告と共に、御厨艦長は草薙に向かって敬礼し、告げた。
「草薙艦長、行ってらっしゃいませ」
答礼すると、草薙も言った。
「行ってまいります、御厨艦長」
退出する草薙について行きながら、肇も言った。
「ちょっと見てきますね」
発令所を出ると、魚雷発射室では魚雷の運搬が活発に行われていた。普段は閉じられている中央部の溝が開かれ、次々と魚雷が吊り下げられていく。
「なかなか壮観ですね」
肇が言うと、草薙が答えた。
「まさしく。魚雷こそ、補給が必須な物資ですからね」
弐番艦の名前が「くしなだ」、櫛名田比売(姫)に決まったのは理由があった。「くしなだ」の主任務が、他の海底軍艦への補給を行う母艦であるためだ。艦底部の四つの連絡筒で乗員や物資をやり取りし、艦首部の魚雷挿入管で魚雷も補給できる。無限の航続力を持つ海底軍艦の長所を最大限に活かすには、他の消耗品の補充や、疲弊した乗員の交替が必要だ。「くしなだ」は、それらを海面下で行う運用を可能にする。
御前会議で、肇は「海底艦隊にできることは、敵艦を沈めることのみ」と発言した。その「できること」を最大限に発揮する仕組みがこれだ。敵が出現するポイントを常に周遊し、その場で補給を行う。その結果は、敵艦の完全なる駆逐だ。
魚雷発射室の梯子を下って第三甲板に降りる。その床に開いた口が、「わだつみ」につながっている連絡筒だった。そこから降りると、「わだつみ」の体育室に降り立つことになる。
「お帰りなさいませ、総司令閣下、艦長」
新任の副長、海野が満面の笑みで迎えてくれた。閣下は願い下げだが、なるほど、これはまさしくお地蔵さまだ。拝みたくなる。肇は思わず、心の中で手を合わせてしまった。
昭和十六年十二月八日。
「くしなだ」の発令所に漂う空気は、機器の発する油の臭いの他に、そこに詰めている男たちの緊張で満たされていた。彼らの視線は無線機に向けられている。湾曲した船殻に沿った操作卓、そこに設置された金属の箱。
と、かすかな電動機の音と共に、無線機の細い口から紙帯が吐き出された。長短の線が印字されている。モールス符号だ。通信士が読み上げる。
「敵艦隊、発見。東ヒトナナフタ度サンゴ分、南フタヒト度フタ分」
「遠いな……」
海図を見ながら、発令所でただ一人、私服を着た石動肇が呟いた。四度の御前会議で、既に軍服拒絶症は不治の病となった感がある。
「大丈夫です、閣下。すぐに捕まえます」
隣に立つ艦長の御厨が自信ありげに言い放った。
「……だから閣下はご勘弁をと」
肇のそんな呟きは聞き流し、御厨艦長は低いがよく響く声で支持を出した。
「通信ブイ回収、両舷半速。うっかりして敵を追い越すなよ」
各所からの復唱が、余裕の笑みとともに返ってくる。わずかに響いていた機関音が高まり、ぐっと体が艦尾方向に押される。
肇は心の中で呟く。
あれから十五年か。
まさしく、めくるめくような年月だった。
しばらく前に受信した電文には、「トラ・トラ・トラ」の文言が記されていた。その意味は。
「ワレ キシュウニ セイコウセリ」
今日、日本は真珠湾を奇襲攻撃した。
一方、姉妹艦の「わだつみ」は、ベテラン草薙艦長の下、南シナ海へと進出している。英国の戦艦、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを討つためである。
これこそが歴史の転換点、日米開戦の当日であった。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
海野辰巳
海底軍艦「わだつみ」弐代目副長。
弐番艦「くしなだ」の艦長として転任した御厨の後任。
目が細く坊主頭で、あだ名は「海野地蔵」。
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