第二十六話 幻想と高揚
学校が夏休みに入ると、肇は村雨家を誘って軽井沢へ一週間の旅行に出た。来年末に予想される日米開戦を控え、最後の休日という考えだった。両家の子供たちから慕われている河合千代子も同行し、光代は大喜びだ。
列車の中で、肇は村雨夫妻と相席になり、しばし会話した。軽井沢に着いたら、仕事の話は厳禁という約束があったのだ。とはいえ、他の乗客もいる手前、ある程度はぼかすことになる。
「例の言語の語彙は揃ってきましたか?」
肇が問いかけると、恭二合わせて答えた。
「家内の協力もあり、かなりの量を聞き取ることが出来ました。すでに単語の対照表も揃いつつあります」
ナバホ語の聞き取りは、恭二よりも彼の妻エニの方が得意だった。傍受できた米軍の暗号無線は全て磁性帯に録音され、二人の聞き取りで英文に直されている。その英文の単語はさらに別の英単語に置き換えなければ意味をなさないが、その置き換えの対照表は砥論電算機の力で作られつつあった。
「対照表もほとんどそらんじてますから、そのうち通訳ができますよ」
日本のコードトーカー第一号が誕生することになる。これ以外にも夫妻はナバホ語の講習も行っている。こちらはコードトーカーだけではなく、日米戦争が終結したのちの、インディアン部族の自立支援を考えての事だった。I機関では、このほかにも黒人差別撤廃のための工作も行っている。八紘一宇を単なる戦争のお題目にしないための活動だ。
これとは別に、日系移民を対象にした支援策もI機関の任務に含まれる。了の予告によると、九月には日系人への圧力が高まるという。I機関への協力者も、工作員と一緒に開戦前には脱出させないと危険だった。
車両の反対側の席では、子供たちと千代子がトランプに興じていた。山本五十六からもらった米国土産だという。ゲームは、幼いアキやミドリにもわかるババ抜きらしい。
「やった、一番!」
修が最後のカードを台の上に投げ出し、バンザイをした。
「お兄ちゃんずるーい」
アキに指さされて、修は笑った。
光代がアキをたしなめた。
「ほらほらアキちゃんの番よ、ミドリちゃんから一枚とって」
微笑ましいものだ、と肇は思う。修は学校で粗暴にふるまうことがあったというが、こうしてみると普通の男の子だ。あの後、光代が良く遊びに誘うようになったのが良かったのか、今ではすっかり落ち着いている。最近では肇の古武術に興味を示し、朝稽古に出るようになっている。
そうした子供たちの笑顔に、肇は穏やかな気持ちになった。
真珠湾の海軍司令部で本国からの電文を手にした芹沢良一は、穏やかとは言い難かった。
「ボス、何が書かれてるんです?」
軍にあてがわれたオフィスに戻ると、秘書のジョージが聞いてきた。
「曳航ソナーが不採用となった」
答えると、芹沢は電文をくしゃくしゃに丸めて屑籠に叩き込んだ。
水上艦の機関音は大きく、ソナーの性能悪化の原因となっていた。そこで、ソナーをケーブルで曳航し、艦から離して音を拾う曳航ソナーが有利となる。しかし、当然ながら進行方向には大きな音源があるため、真正面は探知できない死角となる。また、魚雷回避などで急激な進路変更を行うとケーブルが切れる可能性があるうえ、混戦となればケーブルが絡まる恐れもある。そうした使いにくさが嫌われたようだ。
しかし、芹沢の艦隊はそうした想定での訓練を積んでおり、先日はシーゴーストの補足にも成功した。
「成果を上げているのにですか?」
ジョージの言葉に芹沢は歯噛みした。
「シーゴーストの追跡も禁止された。そんなものは存在しないからだとさ」
音紋データも、前回の戦闘記録も、すべて握りつぶされた。ジャップにそんな革新的潜水艦が作れるはずがない、というのが海軍上層部の結論だった。
「でも、新型レーダーとか通信機とか、採用されたものも多数ありますよ」
「足りんな。微々たるものだ」
日本のシーゴーストは、必ずやアメリカの仇敵となるだろう。大いに暴れてもらいたい。しかし、その上でアメリカには日本を叩き潰してもらわなければならない。両方が潰しあわなければ、共産主義が世界を統一できない。
このままでは、日本がアメリカを倒すだけで終わってしまう。それでは意味がないのだ。
「日本は必ず水面下から襲ってくる。レーダーでは役に立たん」
デスクの引き出しから、ブライアのパイプを取り出し、タバコの葉を詰めはじめる。それを見てジョージは部屋の窓を開け放った。心地よい風が入って来る。
火をつけて何度か吹かす。最近始めたのだが、考え事が捗る気がする。
「こうなったら、うちの艦隊を徹底的に活用するしかない」
兵器のテスト艦隊で終わらせるわけには行かなくなった。正規の艦隊との協力も必要だ。そうなると名前が要る。
シーゴーストを追いかけ、狩りだす艦隊。
「シーウルフ」
芹沢は煙と共に呟いた。ジョージが聞く。
「何ですか、それは」
芹沢はもう一口パイプをふかすと言った。
「艦隊の名前だ」
結局、まずはこの手で追い詰めるしかないようだ。
木漏れ日の中を、光代は自転車を走らせていた。
「シュウちゃん、遅いわよ!」
「待ってよ、光代」
修は日本に来るまで自転車を見たことすらなかった。また日本の一般家庭にも、子供用の自転車などほとんどなかった。ところが、去年の光代の誕生日……村雨家が日本に来た日、光代が山本五十六からもらった贈り物が、子供用自転車だった。山本の長男のお下がりだという。
早速、光代は自転車の練習をはじめ、じきに乗れるようになった。そして、この春から修も練習に誘われ、ようやく乗れるようになったところだ。
今年、軽井沢には貸自転車屋が店を開き、そこには子供用のものがあった。それを借りて、二人で遠乗りに来たのだ。
森を抜け、草地を走り、小川の上を渡る。眺めの良い丘の上で、光代は自転車を停めた。やがて修も追いつき、隣に停める。
「ここがいいわ。お弁当にしましょ」
草の上に布を広げて座り、自転車の籠から降ろした弁当箱と水筒を並べる。
「ほら、シュウちゃんも座って座って」
「うん」
隣に座り、おにぎりを受け取る。修はそっと光代の横顔を見た。眩しい。
「麦茶もあるわよ」
カップになる水筒の蓋に麦茶がつがれ、手渡された。
「ありがとう」
日本に着いたあの日、父から光代に名乗るように言われた。家族の内でしか使わない、真の名を。学校でもその名で呼ばれるが、誰も自分がナバホ族だとは知らない。ただ一人、光代を除いては。
だから、光代は特別だった。友達の中でも。
学校ではなぜか、自分のことを蒙古人と呼んでからかう者がいた。学校の先生は五族協和と教えているのに。日本、支那、満州、朝鮮、蒙古。この五つの民族は仲間だと。
自分は蒙古から来たということになっている。それは別に構わない。支那でも満州でも朝鮮でもいい。でも、それを理由に意地悪をするのなら、白人たちとどう違うのか。それが許せなくて、何度も喧嘩をした。喧嘩に勝てば相手は黙る。
しかし、そのたびに光代は泣きそうになった。特別な友達が。
「麦茶、あまり沢山ないから、大事に飲んでね」
光代に言われ、修は頷いた。
「うん、大事にするよ」
眩しいと、泣きそうになるのは、なぜなんだろう。
九月、日独伊三国同盟が締結された。これに応じて、米国は国内の日本資産を凍結し、日米間の貿易に重い規制をかけてきた。対米輸出で経済を支えていた日本は、それによって一気に景気が悪化し、ますます反米の度合いを強めた。
「なんというか、坂を転げ落ちるようですね」
定時連絡で、肇は言った。
(近衛内閣の最大の成果だな)
了の評価は手厳しい。
(何にせよ、こちらの準備が間に合ってよかった)
「特に、あれですね。外交暗号」
頭の固い外務省は、今年になるまで機械式の暗号機B型を使い続けていた。了の歴史では、米国がこれを解読するのは日米開戦の直前だというが、コードトーカーの解析の過程で、既に去年の段階で解読されている兆候が見られた。使用開始から一年足らずである。
(芹沢の持ち出したI資料の成果だろう。米国側にも何らかの電算機が開発されたと見るべきだ)
了の分析に肇も同意した。このため、陸海軍では試験運用だった砥論暗号への正式な切り替えが一気に進んだ。
そして、今年初めの米内内閣で、ようやく外務省の外交暗号も砥論暗号に置き換えることに成功した。軽砥論を各国の大使館や総領事館に配備しなければならなかったため、実際の運用は今月になってしまったが。
それでも、資産凍結などの警告を砥論暗号で送ることができたため、損害をかなり抑えることができた。
とは言え、従来の暗号も欺瞞のために使用している。米国に偽の情報を掴ませるのが目的だ。本来、暗号にする必要のない雑多な情報などは、こちらで流すようにしている。
「敵さん、上手く引っかかってくれますかねぇ」
肇の問いに、了は答えた。
(騙されるものは騙され、気づくものは気づくだろう)
後者が誰かは、聞かなくても肇には分かった。
芹沢の艦隊は、「シーウルフ艦隊」という名称で真珠湾に常駐することとなった。扱いは新兵器のテスト艦隊のままだが、補給などは軍属として行われる。今まではJM社の持ち出しだったので、大きな違いだ。
「ピンクですか?」
秘書のジョージは怪訝な顔をした。
「そりゃまた、けったいな名前ですな」
本社からの報告書に目を通しながら、芹沢が答えた。
「一昨年あたりから流れ出している、日本の暗号だ。従来のパープル暗号なども依然流れているので、おそらく重要機密だけに使われているのだろう」
米軍は、これまで日本の暗号を虹の色の名前で表していた。ところが、ここに来て新しい暗号が出てきたため、色の数が足りなくなってしまった。そんな時に、解読済みのパープル暗号でこんな文章が見つかった。
以降の連絡はトロを使うこと。
「トロ?」
ジョージが聞き返す。
「暗号の名称だろう、日本側での」
本来は砥論だが、日本では省略された方がすっかり定着していた。
芹沢はパイプをくわえた。ジョージは慌てて窓を開ける。
「本社の暗号部門から、トロとは何か、と問い合わせが去年あった。私が日系人だから何か分ると思ったのだろう」
芹沢はウラジオストック生まれの日系ロシア人というふれこみだが、度々忘れ去られる人物設定だった。
「だから、トロと言ったらスシのネタだと言ってやった。なんという魚かと聞いてきたが、どうも魚には詳しくないらしく、埒が明かない。そこで、相手がサーモンかと言い出したから、似たようなもんだと答えた」
芹沢に向かって直接そこまで問い合わせるとは、なかなか度胸のある担当者だ。
「あの……それじゃまさか、サーモンだからサーモン・ピンク?」
芹沢は真顔で答えた。
「それ以外に何がある?」
名前など、どうでもよかった。このピンク暗号は、パープル暗号を解読した時の手法がまるで役立たないのだ。軍部では、暗号なのかどうかすら疑わしいという主張まで出始めた。欺瞞のためのランダムな信号に過ぎないと。
しかし芹沢は、JM社が開発した暗号解析装置のことが頭にあった。自分が持ち出せたI資料だけで、これだけのものが作れたのだ。それらに加えて、石動が発揮する謎の才能があれば、どれだけのものが生れることか。
「ボス、どうしました?」
芹沢は別な一通の電文を見て、苦い顔をしていた。
「大したことではない。家内がこっちへ来るというだけのことだ」
定時連絡の最後に、肇は了に告げた。
「ところで、今日はもう一つ、大きな進展がありましたよ」
(何かな)
寝床の上で腕枕をして、肇はにやりと笑った。
「仁科博士から、新しい耐熱合金を使ったトリウム熔融塩炉が完成したとの報告がありました」
(それは素晴らしい)
了の声には驚きと喜びが満ちていた。
「これで、炉心温度を今までの八百度から千度に上げることが可能になるそうです」
しばらく考えて、了は言った。
(と言う事は、同じ出力なら小型化ができるな)
肇も言った。
「同じ大きさでも出力が上がりますね」
考えた挙句、了は言った。
(三番艦以降の海底軍艦の設計を見直す必要が出そうだな)
さらに考え、了は続けた。
(弐番艦の設計も修正する)
「え、今からですか?」
既に弐番艦は建造が進んでいる。
肇の脳裏に、設計図が浮かんだ。あちら側で了が画面に映しているのだ。
(弐番艦の変更点はわずかだが、全体的な戦略は大きく変わる)
了は設計図に手を加えはじめた。
定時連絡が終っても、肇は興奮が冷めやらなかった。眠るどころではなかった。
設計変更された弐番艦は、組み上げた船殻に穴を開けるという大工事が必要で、年をまたいだ日程変更となった。
次回 第二十七話 「高揚と激流」




