第二十五話 祖国と幻想
昭和十五年一月一六日。了が予告した通り、阿部内閣は総辞職した。昨年、日本は米国から一方的に日米通商航海条約の破棄を通告された。これを回避する外交交渉が、ここに来て破綻したことを受けての事だった。これによって同二六日、この条約は失効した。
世の中で大勢を占めつつある日独伊三国同盟推進派を憂慮する陛下は、海軍良識派の首班である海軍大将の米内光政に組閣の大命を下された。
「しかし、半年しか持たないんですよね」
肇がぼやくと、了は言った。
(日米間に何の条約もなくなったのは明治維新以来だ。経済面でも不安が広がっている。三国同盟推進派が勢い付くわけだ)
米内内閣は、最悪の時期に発足したと言える。これまでI計画が陰ながら日本経済を支えられたのも、日米の交易があってのことである。これが止まれば景気の悪化が一気に進むと、了は予告していた。
(この半年間で、こちらの準備を進めなければいけない)
了が予測する日米開戦まで、二年を切った。準備の一つは、海底軍艦弐番艦の建造である。既に、横浜船渠には再び天蓋が張られ、搬入されてきた船殻ブロックの溶接が開始されている。
もう一つは、中島飛行機による艦上偵察機、彩雲の開発だ。幸いこちらも順調なようで、夏には初飛行ができる見込みとなっており、年内にある程度の機数もそろえられるという。
三つめはI機関の運用だ。了の世界の陸軍中野学校に倣って設立した工作機関で、これまでは主に支那や米国内での諜報活動を進めてきていた。米国での任務は、日系人や黒人、北米原住民への差別政策の実態を探ることであった。五年前に上海で肇の手助けをし、先日村雨一家を脱出させた冴木もその一人である。しかし、日系人への風当たりが強くなる今後は、現地での工作活動が困難となることが考えられた。
「撤退させるべきでしょうか」
(いずれはそうなる。『わだつみ』による脱出支援がもう一度必要になるかもしれん)
「今度も上手くいくといいんですが」
肇の脳裏には、ハワイ沖で「わだつみ」が敵艦に捕捉された件が去来していた。
(泡沫遮音膜が有効なうちに行うのが望ましい。ただ、時期が見えないのが難点だ)
了は四つめの準備を指摘した。
(海軍軍令部と連合艦隊参謀部を、そろそろ取り込まないとな)
海底艦隊だけでは戦争は遂行できない。「わだつみ」も彩雲も暗号も、帝国海軍と連携できなければ圧倒的な米軍の力をはねのけることはできない。それには、山本五十六や黒島亀人のような個人だけではなく、海軍の首脳陣に周知させる必要があった。
「うはぁ、これこそ幽霊だな」
草薙は「わだつみ」の発令所で潜望鏡を覗き込み、思わずそんな言葉を発した。
「日露戦争での殊勲艦なのに、酷いですよ」
御厨副長が諭す。
潜望鏡が捉えた艦影は、三本の直線的な煙突が特徴的な旧式の装甲巡洋艦、出雲だった。戦艦六隻、装甲巡洋艦六隻を配備する六六艦隊計画で建造された一隻で、日露戦争の日本海海戦では第二艦隊の旗艦を務めた船だ。艦首の吃水下には、古式ゆかしくも衝角が備えられているという。
その艦も今は無人で、初夏の日差しにきらめく波の間にたゆたうのみだが、先ほどまで自力でこの陸から離れた海域まで航行してきたのだ。今もまだ火は落とされず、煙突からは黒煙が立ち上っている。
「帝国海軍も、例の艦隊に劣らず、物持ちが良いですねぇ」
副長が言う艦隊とは、ハワイで遭遇した芹沢の艦隊の事だ。あの艦隊も、艦齢的にはこの艦と大差ない。
「お客さんたちは?」
「所定の位置についています」
副長の指さす先の電波探信儀の受像管には、海軍の要人を乗せた駆逐艦がくっきりとした光点として映っていた。目標の出雲もだ。
「よし。深度ヒトマルマルまで潜航、標的の移動を待って演習開始」
電探と潜望鏡が収納されるとベント弁が開かれ、「わだつみ」はゆっくりと深度を増していった。
駆逐艦不知火は、昨年末に就役したばかりの最新鋭艦である。その甲板には天幕が張られ、山本五十六をはじめとした海軍の要人が勢ぞろいしていた。もしも今この艦が撃沈されれば、帝国海軍は瓦解することになる。
そんな雑念を頭から追い払うと、肇は説明を続けた。
「今、あちらの標的艦、出雲は、完全に無人となっています。操艦は、こちらの遠隔操縦装置で行います」
手で示した先には、舵輪とレバーが付いた箱があった。舵輪を握るのは年若い士官である。
「では、演習を開始しましょう。舵そのまま、全速前進」
「舵、中央、全速前進ようそろー」
士官は復唱すると、レバーをいっぱいに手前に引いた。
「おお」
天幕の下ではどよめきが起こった。無人のはずの出雲が動き出したのだ。旧式艦とはいえ、二十ノットはかなりの速度だった。
「対魚雷回避行動、開始」
肇の指示のまま、士官は復唱する。
「対魚雷、ようそろー」
舵輪を左右に回すと、その通りに出雲が回頭した。無線による遠隔操作は正常に作動していた。出雲は一定の海域の中を不規則に、右に左に進路を変えてめぐっていく。
数分後、天幕の下にブザーの音が響いた。
「今、魚雷が放たれました。その威力をご覧ください」
しばらく、出雲は気ままに海上を走り回るだけだった。が、突然中央部に水柱が上がり、その部分だけが山形に持ち上がった。続いて、ズン、という衝撃と共に中央部が沈み込み、出雲はあっという間に真っ二つにへし折れて波間に消えてしまった。轟沈、と言うより他にない雷撃だった。
しばしの間、天幕の下には沈黙があった。やがて山本が拍手をはじめ、それは天幕の下の全員に広がって行った。
「魚雷、命中確認」
聴音手の報告に、艦長の号令が飛ぶ。
「よし、不知火の右舷に回り込むぞ」
位置的には、不知火と沈めた標的艦、出雲の中間の地点だ。
副長が言った。
「本当にやるんですか?」
艦長はにべもなかった。
「やらいでどうする!」
報告が上がった。
「不知火、前方五百メートル」
艦長は叫んだ。
「よし、行けぇ!」
「これが自動追尾式酸素魚雷の威力です。ひとたび敵艦を補足すれば、どれだけ回避行動をしても追いすがります。艦を二つにへし折ったのは、泡沫衝撃という効果です。艦底の下での爆発で巨大な泡が生じ、これが艦を押し上げた後、泡がはじけて一気に支えが無くなり、艦の中央部が落ち込むという力によるものです。これにより、一発の雷撃で巨艦も屠ることが出来ます」
不知火の艦上では、石動の説明が続いていた。
「では、この雷撃を行った艦をご紹介しましょう。海底軍艦、」
その瞬間、肇の背後の海面が突如持ち上がった。沸き立つ海水を突き破って表れたのは、流線型の艦首。天高くそびえたつ、赤と黒に塗られた船体は、一瞬停止したのち、こちらに向けて倒れ込んできた。
肇は背後からの水しぶきに突き飛ばされ、思わず一歩よろめいた。
最前列に座る山本と目が合う。ずぶ濡れの顔だが、眼は一杯に見開かれ、肇の背後を見つめていた。
起き上がって見渡すと、一同、同じ表情だった。
肇はマイクを手に、右手を背後に伸ばしながら言った。
「……『わだつみ』です」
遥か頭上にそそり立つ司令塔からは小さなマストが伸び、そこに旭日旗と日章旗がはためいた。
「やってくれましたねぇ」
浦賀港の旅館で、浴衣に着替えた肇はぼやいた。目の前では草薙艦長がくすくすと笑っている。
あの後、「わだつみ」は不知火に横付けし、草薙艦長がこちらに乗り移ってきたのだ。そして、不知火は浦賀港に寄港し、海軍の偉いさんたちも今頃は着替えて一息ついているはずだ。
「印象的でしたでしょう」
「程度というものがありますよ」
盃の熱燗をぐい、とあおる。めったに飲まない肇だが、初夏とはいえ海の水はまだ冷たかった。
空いた盃に、草薙が徳利から酒を注ぐ。
「しかし、私の言う事にも一理あるとは思いませんか? あの後、帰りの艦上でのお偉いさんたちの質問は『わだつみ』の事ばかりでしたよ」
草薙の言葉に、渋々、肇は頷いた。
「でも、標的艦を操った遠隔操艦装置にも、もう少し注目してほしかったがなぁ」
こちらは、今回の演習のために肇と秋津政義技術士官で開発したものだった。
「必ず何か、上手い使い道があるはずだと思うんだけど」
ばたっ、とそのまま畳の上に大の字になる。
「もう寝ますか、石動閣下」
草薙は押し入れから上掛けをだす。
「面倒見が良すぎますよ、艦長」
草薙は笑顔で言った。
「全ての艦長は、その前は副長だったんですよ」
ああ、なるほどな。
女房役という言葉がぴったりな「わだつみ」の御厨副長を思い出しながら、そのまま肇は寝てしまった。
明らかに夢だと分る夢は、明晰夢と呼ばれる。
肇は最初から、今見ているのは夢だと分っていた。摩天楼がいくつも立ち並び、空を四角く切り取っている。驚いたことに、それらの建物の中には、壁面が丸ごとテレビジョンの受像管になっているものもあった。地上には無数の車が走り、どれも滑らかな外観で無骨なところがまるでない。行きかう人々は皆、軽やかな洋装だが、ほとんどは日本人にしか見えなかった。
場面が変わり、肇は果てしなく続く広い廊下に立っていた。左手には巨大な装置が立ち並び、奥の方は遠すぎて見えない。そこを歩いていると、装置の陰から見知った顔の男が出てきた。特徴的な髭面。
「やあ、大野。いよいよ天覧実験だな、リニアコライダーの」
自分の口が語り掛ける。そうか、これは了の夢か記憶に違いない。天覧実験と言う事は、陛下が来られるのか。
「ああ、それなんだが、ちょっと面白い余興が」
大野が話している途中で、けたたましい警報音が鳴り響いた。
再び場面が切り替わり、壁面にかけられた巨大な板状の受像管……受像盤? を見つめる。女性のアナウンサーが大都市の遠景の前に立ち、緊張の面持ちで「ネットワークの暴走」とか「核ミサイル」と話している。と、その大都市の上空に閃光が走り、次の瞬間、画面が真っ白になった。
「来るぞ、ここにも」
自分の、いや了の呟き。次の瞬間、了の体は激しい衝撃に突き飛ばされた。
全身汗まみれで、肇は目覚めた。直前の脳裏に広がったのは、焼け崩れた摩天楼と燃え盛る車の列、立ち上る巨大で奇怪なきのこ型の雲。そして黒こげになった死体の山だった。そこには、明らかに幼子と分かる姿もあった。
(肇、目が覚めたか)
口の中が砂漠の砂のようだった。目を開けても真っ暗で、さっきの光景が焼き付いて離れない。
もがくように起き上がると、浴衣が肌にべったりと張り付いて気持ち悪い。
「今の……見えた光景は」
(私の記憶、夢だ。君が目覚めるのを待っていたら、私までうたた寝してしまったらしい)
目が慣れてくると、廊下から漏れる明りで卓上の水の入ったコップが見えてきた。一気に飲み干す。
「あれが、百年後の未来に訪れる破滅ですか」
(ああ……その一部だ。東京だけでなく、世界中の主だった都市はすべてやられた。ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワ、上海)
世界大戦どころではない。
「でも、それから十年以上もたったのなら、今は」
(肇)
了が遮った。
(上手く説明できていなかったようだ。君にとってこの計画の開始は十三年前でも、私にとっては三か月前のことだ)
了は説明した。
I計画初期の科学技術情報を伝えていた時期を除くと、それ以降の日に一度の定時連絡は長くても十五分、短い時は五分程度だった。これは未来の了の方では連続して行っており、接続先の時間軸をずらしてやっていたという。つまり、今日の定時連絡が終ると、了の方はすぐに翌日の肇に話しかけて来ていたわけだ。そのため、肇の方では十三年が経っていても、了の方では休息時間を含めて三か月しか経っていない。
「じゃあ、由美のことも」
肇は四年前に妻を亡くした。それは了から見たら、ほんの三週間前のことなのだ。
(光代が見るたびに大きくなるのは嬉しい限りだ)
了は話題を変えた。
(私から見れば、君の時代はフィルムの早回しのようだ。海底軍艦の建造も)
部分ごとに各地の工場で作られ、船渠での組上げは約一年。了からは十日間で完成したことになる。弐番艦の進水は来年の今頃、艤装が終って就役となるのは秋ごろだろう。その時、「わだつみ」の乗員と「すのまた」での訓練を終えた訓練生の半数ずつが両艦に振り分けられる。二隻の海底軍艦を擁することで、初めて名実ともに海底艦隊が発足する。
(弐番艦が就役すれば、I計画は最終段階を迎える。歴史は音を立てて変貌するだろう)
海底艦隊が活躍すれば、戦局は了の知る歴史から大きく変化する。そうなれば、了の予言は力を失う。誰一人、先を読めない世界が広がることになる。
(そうなったら、肇、君が頼りだ)
「え、俺がですか?」
将棋は好きだが、先読みはからきしダメなのに。
(そちらの時代に身を置いている君こそが、正しい判断を下せるはずだ)
肇はくしゃみをした。汗が冷えてきた。
「風呂、もう一度入ってきます」
鼻をすすりながら思う。変に持ち上げるのは、草薙艦長だけにしてほしいものだ。
六月、了の予告通り仏蘭西がナチス独逸に降伏した。これにより日本は親独派が一気に趨勢を占め、新体制運動という名で支持を伸ばしていた。それによって、ヒトラーが国民的な英雄として宣伝された。
肇は、光代が学校からもらってきたパンフレットを見て渋い顔になった。そこには様々な髪の色の子供たちが日独伊の国旗を掲げて踊る絵が描かれていた。その上に書かれた題名は「仲良し三国」とあった。
「お父さん、何かいけないことが書かれているの?」
光代の問いかけに、肇は返答に詰まった。
「そうだな……友達三人が仲良くするのはいいことだけど、そのうち二人が他の子たちと喧嘩ばかりしたら良くないだろ?」
独逸が欧州で戦争を繰り返していることは、光代も聞かされていた。
「そうよね」
考え込む光代。
「何かあったのかい?」
肇が聞くと、光代は迷いながらも答えた。
「シュウちゃんが、喧嘩ばかりするの」
村雨家の長男、修だった。
八紘一宇だ五族協和だとは言いながらも、差別意識がなくなるわけではない。蒙古帰りというふれこみの村雨家の子供たちは、ともすればそうしたイジメにあいがちだった。幼い下の姉妹は融け込むのも早かったが、一番年上の修には難しかったようだ。ナバホ族としての自覚が育ちつつあった上に、父の祖国への期待と幻滅もあったのだろう。
「なら、光代が友達になってはどうかな?」
光代はみるみる赤くなった。
「と、友達だもん! 今でも十分、友達だもん」
ほほぅ、と肇は感心した。ちょっと父親が家を空けるたびに寂しがって泣いていた光代が、いつの間にか年下の子の面倒を見て、異性を意識するほどに成長している。この時代をコマ落としで見つめる了に劣らず、毎日接している肇もまた、わが子の成長には驚かされる。
「今度、うちへ誘っておやり」
父親の言葉に、真っ赤な顔のままで光代は頷いた。
七月、米内内閣は総辞職し、新体制運動を支持する第二次近衛内閣が発足した。奇しくも、中島飛行機では彩雲の初飛行が行われた日であった。
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