第二十話 不安と緊張
昭和十四年四月。石動肇は茨城県那珂郡にある石神村を訪れた。元々は四千人ほどの小さな村だったが、三年前に日立の工場が建てられてから、人口は増え始めている。北側にある助川町は、この秋には日立町と合併し日立市となることが決まっていて、村境の久慈川の河口近くに橋が新設されてからは交通の便も良かった。
ちなみに石神村も、了の世界では戦後、隣の村松村と合併して、名前は東海村と変わる事になる。人口増に伴い、こちらでは既にその動きが始まっていた。
肇は日立町まで列車で来て、そちらの日立工場から車で送ってもらった。海岸の防風林に近い工場の敷地に降り立つと、草薙哲也と数名が作業服を着て迎えに出た。
「ようこそいらっしゃいました、石動常務」
何かと持ち上げたがる性格らしい。
「草薙さんのここでの肩書は?」
こっそりと聞くと草薙は答えた。
「一応、工場長と言う事になってます」
他の数名は一般の社員だった。形式的な紹介が済むと彼らは引き上げ、肇は草薙の案内で敷地の奥の建屋に入った。
「ああ、ここにあったんですね」
細長い建屋一杯に、巨大な円筒形の構築物が二列に並んで置かれていた。その周りには様々な機器が取り巻いており、工場の生産設備だと言われれば疑問に思うこともないだろう。
肇の呟きに、草薙が答えた。
「そうです。『すのまた』と呼んでます。秀吉の一夜城、墨俣城にちなんで」
海底軍艦乗組員の訓練施設である。さすがに一晩とはいかないが、数か月という短期間で建造されたという。
この施設は、原子炉をはじめ艦内設備がすべてそろっている巨大な模型だった。本物と違うのは、外殻が無くて内殻がむき出しな点と、耐圧殻ではなく普通の鉄板で作られている点だ。天井や間仕切りなど強度がいらない部分にはベニヤも使われている。図面だけではわかりにくい構造の検討のために建造された、いわば立体の設計図であるが、実物の建造が始まってからは訓練に用いられている。
実際、「わだつみ」の乗組員は、草薙艦長以下全員、この施設で訓練を受けていた。
「現在は、弐番艦の乗組員が訓練中です」
「完成は一年以上先ですが」
草薙は笑って答えた。
「大丈夫、『わだつみ』の乗員と半数ずつ入れ替えて、訓練航海に出ます。暇を持て余すことはありませんよ」
陸に上がっても訓練とは。尤も、彼らには帰る家がない。訓練中の事故死とされているからだ。
「で、『わだつみ』は?」
二週間の処女航海からの帰港先は、原子炉零号機が作られた日立町の工場の港だった。その一角を囲って天幕を張り、仮説船渠とした。常設の基地建設が遅れたためである。肇はそこで下船したので、基地は今回が初めてだった。
「こちらです」
草薙は肇を隣の建屋に連れて行った。外見は港に隣接する倉庫にしか見えなかったが、こちらは警備が厳重で、何度かチェックを受けなければならなかった。それでも、扉を抜けるとすぐにそこは船渠で、「わだつみ」が係留されていた。
「なんか、秘密基地というと、絶海の孤島とか地下深くとかを連想しますけど」
肇の言葉に草薙は微笑んだ。
「ああ、空想科学小説とかの定番ですよね。子供の頃によく読みました。でもまぁ、資材の手配とか建設費用とか考えると、こんなものです」
船渠とは言ってもそのまま外洋に出れるわけではなく、出入口は海中にあるという。一度、潜航しないと出入りはできないわけだ。一応、整備と補給、簡単な修理ぐらいなら行える施設があるが、本格的な修理や新規の建造になると、三菱の横浜船渠を使うしかないという。
「実際には、ここの工場で海底軍艦の機関部を作ってます。向こうの建屋の方で」
「随分、大っぴらですね」
「表向きは発電所の設備を製造しているという事になってます。工員もそう信じ込んでますよ」
草薙の説明に肇は頷く。そこへ、見知った顔が現れた。
「おお、石動君、久しぶり」
平野平機関長だった。
「太平洋横断以来ですね」
肇も挨拶する。
「ああ、そうでしたね。まぁ、今回の世界一周の方は参加しなくて正解でしたよ。もう暇で暇で」
機関員たちが十分習熟したのと、特にトラブルも無かったため、二ヶ月の航海の間は何もすることがなかったという。
「来る日も来る日も茶をすすってるばかりで、耄碌するかと思いましたわ。ここに入港してから、ようやく仕事が出来ました」
「今はどんな作業を?」
肇の質問に、平野平は「わだつみ」の艦尾の方に手を振って答えた。
「機関部の総点検です。特に、原子炉は燃料を抜いて念入りに。熔融塩の沈殿物とかも分析が必要ですからな」
核反応の結果、壊れた原子の欠片は様々な物質に変化するが、その中には熔融塩に溶けにくいものもある。これらは放置すると配管を詰まらせる可能性があるので、回収して調べることになっているという。
一礼すると、平野平は艦尾の方へ去った。
「世界一周の試験航海、無事に済んだようですね」
肇の言葉に、草薙は苦笑いした。
「機関部員は良いでしょうけどね。航法の方は大変でしたよ」
「やはり、ベーリング海峡ですか」
「ええ、それとチュクチ海も。深度のある水路を探すのが難しくて」
冬場だったため、分厚い海氷が海面を覆い、その分、潜水して通れる高さが目減りしていたのだ。
「あとは、アメリカ海軍の艦艇をこっそり追尾するとかですかね、興味深かったのは」
「こちらは気づかれませんでしたか?」
「そのような気配はなかったですね」
草薙が言った通り、気づいたものはいなかった。
芹沢を除いては。
チェサビーク湾にあるアメリカ海軍研究所の施設は、今やほとんどJM社の独占状態であった。芹沢は事実上の研究所所長と言ってもよく、ニューヨークからこの地へ住所を移し、海軍の全ての兵器開発を取り仕切っていた。
中でも力を入れていたソナーでは、海中に響き渡るさまざまな音の膨大なライブラリが揃ってきていた。今日も、山のような報告書の中に、新たに捉えた音のリストがあった。
「これは……」
解析結果不明の音響データの欄に、手書きで「シーゴースト」と書き込まれていた。海の幽霊という非科学的な表現が気になり、芹沢は受話器を取ると告げた。
「音響解析部へつないでくれ。今日上がってきたレポートだが、作成者は?」
しばらくして、中年で赤ら顔の研究所員が芹沢の部屋にやってきた。
「解析結果が出ないのは仕方ないとして、このシーゴーストとは何かね?」
芹沢の質問に、叱責ではないと理解した所員は緊張を解いた。
「ああ、似たような音が何度か捉えられてまして。聞こえた方向に船を向けても何もなく、こんどは全然別な方向から聞こえるんです。そのうち、誰ともなくシーゴーストと呼び初めまして」
「その、何度か捉えたというのは?」
所員は過去半年余りのレポートから数件を抜出し、その音響テープをライブラリから取り寄せた。
シーゴーストの音がスピーカーから流れる。ノイズに紛れてしまいそうな、低くかすかな音だ。しかし、明らかに規則性がある。レポートを丹念に調べていくと、日時と共に大西洋を北から南へ移動していることが分かった。今日のレポートにある一か月前の事例を最後に消えている。
「潜水艦だ」
芹沢の言葉に所員は目を丸くした。
「まさか。何日にもわたって聞こえてるのに、シュノーケルなんて目撃されてません。この例なんて真下から聞こえてますよ」
「シュノーケルなしで何日も潜航できる潜水艦だ」
所員の赤ら顔が深みを増した。大声で笑うのはさすがに憚られるので、表情がひきつる。
「でも、この記録だと水中速力がとんでもないことに」
「二十ノット以上で何日も潜航できる潜水艦だ」
やれやれと首を振り、所員は「部署に戻ります」と告げて去った。
芹沢はしばらく考えたのち、電話を取った。
「海軍長官につないでくれ」
クロード・スワンソン海軍長官が出ると、芹沢は切り出した。
「私に艦隊を一つ与えてほしい」
海軍長官は絶句したが、芹沢は構わず話し続けた。
「開発中の兵器をテスト運用するための艦隊です。艦は旧式でも構いません。それから」
芹沢は続けた。
「運用は太平洋側で行います」
間違いなく、石動が噛んでいる。ならば日本であり、主な舞台は太平洋だ。
八月、昨年の打診のとおり、山本五十六は連合艦隊司令長官に就任した。これに合わせて、山本は一人の男を肇と引き合わせた。自ら連合艦隊首席参謀に抜擢した、黒島亀人である。
蝉の鳴く昼下がり、山本家の縁側に肇は黒島と並んで腰を下ろしていた。黒島が煙草を吸いたがったので、茶の間から出てきたのだ。あまり吸わない肇だったが、せっかくなので一本貰う。因みに、山本は空母「赤城」の艦長時代以来、禁煙している。ガソリンを満載した空母は火気厳禁だったからだ。
その山本は、先ほど二人で腹を割って話せと言い残して、自室に引き下がった。
「しかし、そんな船が作れるんですかなぁ」
禿げ上がった頭をつるりと撫で、黒島は呟いた。
「にわかに信じられないのは当然です。近いうちに乗せて差し上げましょう」
紫煙を吐きながら肇が答えると、黒島は首を振った。
「何と言っても、この前の水と油事件がありますからな」
先月のことだ。水から石油が作れると主張する自称科学者が山本に接触してきた。副官らが反対したにもかかわらず、山本は公開実験をさせたのだが、結局、それは詐欺だったと判明した。
「ああ、あれは私の影響だと言われれば、否定できませんね」
肇は素直に認めた。
「『わだつみ』の改修計画で東京を離れていなければ、忠告できたんですが」
例の「秘密基地」への出入りをする際に、低速時の操艦の難しさが目立つようになり、ついには艦尾の昇降舵を破損する事故が起こった。そのため改修の話が持ち上がり、数日、肇は向こうに缶詰となっていた。
「しかし、その技術の一部は既にご覧になっているはずです」
自動追尾式の酸素魚雷。砥論電算機。これらは既に軍に採用されている。これは否定のしようがない。
「しかし、そうなると戦略そのものが変わってしまいますなぁ」
禿げ頭をぺしぺしと叩き、黒島はつぶやいた。すでに彼の中では、いくつもの作戦の案が渦巻いているのだろう。
了が告げた日米開戦まで、あと二年と少し。しかし、すでに戦いは文字通り水面下で始まっていた。




