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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第一部
19/76

第十九話 希望と不安

 機関長、平野平弥太郎は多忙だった。「わだつみ」が準急航行に入ったからだ。

 通話機から艦長の指示が流れる。

「両舷停止」

「両舷停止、ようそろー」

 復唱と同時に艦尾の巨大なスクリューを回す電動機を停止させ、それに合わせて、部下たちに細かい指示を出す。

「燃料循環ポンプ、回転数八割まで上げ。流速計と温度計、十秒ごとに報告」

 燃料の循環速度が上昇し、同時に温度が下がっていく。六百度になったところで回転数をやや下げ、核反応を安定させる。

 艦の速度は十ノットを切った。そのまま十分、再び指示が流れる。

「両舷全速」

「両舷全速、ようそろー」

 復唱と同時に、再び指示を出す。

「燃料循環ポンプ、回転数一割まで下げろ。流速計と温度計、十秒ごとに報告」

 燃料の循環速度が落ち、温度が上昇し始める。同時にスクリューを回す電動機に通電。八百度になったところでポンプの回転数をやや上げ、再び核反応を安定させる。ここ、原子炉制御室にいても、グンと艦が加速されるのが感じられる。

 おそらく、一時間後におなじ指示が来るはずだった。一時間の全速航行と十分の低速航行の繰り返し。列車の準急にちなんで準急航行と名がついた。

 そもそも、潜水艦は音が頼りだ。海水の透明度が高い南洋ですら、見通せるのは数十メートルが精々となる。深度二百メートルにもなれば、光も届かない暗黒の世界。

 その中を全速力の三十ノット以上で疾走すると、艦と海水の摩擦音で、何も聞こえなくなってしまう。つまり、目と耳を塞いで全力疾走するに等しい。大海原がいかに広いとはいえ、障害物が絶対にないとは言い切れない。鯨に衝突しただけで大ダメージとなる。

 そこで、準急航行となる。一時間ごとに低速航行を挟むことで、その間に耳を澄まして障害物を確認するわけだ。

 「わだつみ」の試験航海では、この航法での長時間航行が試されていた。もう六日目となる。右舷組と左舷組での十二時間交代ではあるが、本来なら定年の六十歳を越えた身としては少々厳しい。

「おやっさん、お疲れさま」

 部下で最年少の滝沢が魔法瓶からお茶を注いでくれた。子供や孫ほども年下の皆が「オヤジさん」と呼ぶうちに、縮まって「おやっさん」で定着してしまった。

「おう、ありがとうな」

 椅子に腰かけ、湯呑から一口すする。戦闘艦だから魔法瓶も湯呑も金属製だが、胃袋が温まると落ち着く感じがした。

 何隻もの戦艦の機関長を歴任した後、このトリウム熔融塩炉の初号機から面倒を見ている自分にとって、部下たちはまさしく子や孫に等しい。

「そろそろっスかね」

 滝沢の言葉に、平野平は頷いた。

「多分、今回か次ぐらいだろう」

 本艦は準急航行でアメリカの西海岸を目指していた。潜航したままでの太平洋横断は、成功すれば史上初の快挙だ。そして、すでに目的地は目の前のはずだった。

 滝沢の輝く瞳を見ていると、去年の訓練施設でしごいていたころが思い出されてくる。そう、あの日もこの滝沢だった。


「平野平機関長殿、どうも自分は納得できんのです」

 訓練の合間に、滝沢訓練生が質問してきた。

「原子燃料の循環を速くすると、なんで出力が落ちるんスか? 上がるような気がするんスけど」

 原子炉工学の初歩なのだが、実技優先で座学の方はまだまだ不十分だった。平野平は、皺の寄った手で訓練に使っている原子炉の実物大模型を指さした。

「おまえさん、あの炉心の中がどうなっているのか見たか?」

 模型を見上げて、滝沢は答えた。

「はい、見ました。練炭みたいですよね」

 炉心の容器内は黒鉛でできた六角柱のブロックを組み合わせて作られている。それぞれのブロックには穴が開いているので、確かに練炭にしか見えない。

「原子燃料は常に放射線を出している。この放射線のうち、中性子というのが燃料の原子核に当たると、原子が壊れて放射線と熱が出る。ここまでは良いな?」

「はい」

「ところが、この中性子の速度が速すぎると、原子の中を擦り抜けてしまって、原子核に当たらない。そこで中性子の速度を落とす必要がある。黒鉛はその働きが大きいので、減速材と呼ばれる」

「はい、だから炉心の中だけで反応が起こるわけっスね」

「わかっとるな。では、循環ポンプの回転数を上げるとどうなる?」

「えーと、燃料の流れが速くなります」

「核反応はどうだ?」

「あ、炉心に留まる時間が減るから、少ししか反応しないです」

 滝沢の答えに頷き、平野平は反対側の背の高い装置を指さし言った。

「で、少ししか温度が上がらないまま、こっちの熱交換器で冷やされるわけだな」

「そうか! じゃあポンプの回転数を下げると、たくさん反応して温度が上がるんっスね!」

 平野平は満足げに頷いた。

「他にも出力を調整する手段はある。例えば」

 炉心の上から突き出している円柱を指さす。

「あの制御棒の留金を外して炉心に落とし込めば、内部の炭化ホウ素が中性子を吸収し、反応が停止する。もう一つは」

 炉心から熱交換器への配管の途中にある箱を指さす。

「あの燃料投入口から原子燃料を注ぎ足すことだ。まぁ、これらは基地に帰った時などにやるだけだな」

 一言、忠告した。

「燃料投入は、実際には機械の腕での遠隔操作になるが、変なものを入れるなよ。配管が詰まって循環が止まったら厄介だからな」

 滝沢が納得して立ち去ると、平野平は視線を感じた。訓練室の隅から、別な部下の一人がこちらを見ていた。説明を聞いていたのだろう、一礼すると、ノートに何やらメモしている。勉強熱心なのは何よりだ。

 名前が出てこないのを見ると、あいつは今、左舷組だったか……


「両舷停止」

 再び指示が来た。おっと、もうそんな時間か。

「両舷停止、ようそろー」

 早速、平野平の指示が原子炉制御室に流れる。無事、原子炉の出力調整が終わった時だった。

「おや」

 時計を見ると、まだ一時間たってない。

「おやっさん、これって」

 茶を入れてくれた滝沢が聞いてきた。

「うむ。そうかもな」

 自然と皆、壁の拡声器を見上げてしまう。そこへ、艦長の声が静かに流れた。

「現在、本艦はアメリカのサンフランシスコ沿岸に到着。所要時間は六日とニ十三時間二十四分」

「いやったぁ……んぐぐ」

 滝沢が思わず叫ぼうとしたが、周りの皆に口をふさがれた。ここは仮想敵国の領海内だ。

 苦笑しつつも、平野平は部下たちに告げた。

「さあ、今度は帰りだぞ。締まって行こう。家に着くまでが遠足だ」


 山本邸では、子供部屋から笑いさざめく声が響いてきていた。一番声が大きいのは、間違いなく光代だろう。

「しかし……本当に二週間でしたな」

 茶の間で肇と差し向えで座り、山本は言った。手元には一枚の写真。潜望鏡から撮った金門橋の夜景だった

「実際の原子炉でこれだけ出力を変化させ続けたことは無かったので、最初は冷や冷やしましたよ」

 肇の言葉に、山本は笑いをこらえつつも言った。

「まぁ、それだけ過酷な運用をしても問題らしきものが起きなかったということは、I資料で強化された日本の技術力の勝利と言っていいだろう」

 山本の評価に、肇は言った。

「既に弐番艦の建造が始まってますから、問題が出てもらっても困りますが」

 横浜船渠の天幕は取り払われ、一年間は一般の船の修理などに使われる。その間、弐番艦の各部分は日本全国のI計画参加企業で建造され、一年後、再びあの場で組み立てられることになる。ブロック工法と呼ばれる建造法だ。

「では、『わだつみ』は今どこに?」

「場所は言えませんが、とある場所に補給と整備専用の母港を作ってあります」

 人や物の移動が目立ってもいけないので、あまりひと気がなさ過ぎても困る。場所の選定も大変だった。

「なるほど。ところで、また試験航海があると言っていたが」

 山本の問いに肇は答えた。

「ええ、今度は地球一周です」

 日本から太平洋を北上し、ベーリング海峡を抜けてチュクチ海・北極海を通り大西洋へ。そこから南米と南極大陸の間のドレーク海峡を抜け、太平洋へ。二万海里を超える大航海だ。

「それこそ、ジュール・ベルヌだな」

 山本はため息をついた。「海底二万里」と「六十日間世界一周」そのものだった。

「二ヶ月の長旅なので私は参加できませんが、色々困難が予想されます」

 まずはベーリング海峡だ。ここは水深がかなり浅い。了の情報では三十メートル以下という可能性もあった。その先のチュクチ海も数十メートル。浅海では、もし発見された場合、逃げ場がない。

 北極海から先は水深が増すが、海氷の下を潜るという未知の世界が待ち受ける。そして、大西洋なら米英の海軍との遭遇もあり得る。

「もちろん、そうした艦艇の音紋を収集するのも任務なんですが」

 このあたり、計らずも芹沢と同じ行動をとる形となっている。実際、「わだつみ」に搭載されている電子機器には、JM社のトランジスタも使われていた。これはJM社も同じで、お互い相手の得意な分野は利用しあっている。民生の技術とはそういうものだ。

 肇は話題を変えた。

「ところで、欧州情勢なのですが」

「うむ。非常によろしくない」

 この三月、独逸はオーストリアを併合した。現在はその先のチェコスロバキアに手を伸ばそうとしている。英国のチェンバレン首相に「領土拡張はこれが最後」などとヒトラーは約束したようだが、了の情報では来年手のひらを反すとしている。

「我が国はそのヒトラーと手を組もうとしているのだから、これはもう英米に宣戦布告をしているに等しい」

 政府も軍部も、三国同盟を推進ないし容認する方に傾いていた。すべては、二・ニ六事件を未然に防げなかったことによる。だからこそ、了の予言が有効になるのだが。これはどうしようもないジレンマだった。

 いずれにせよ、そうした流れに批判的な山本としては、次第に身動きが取りにくい状況になってきた。

「実は米内から内密に、来年、連合艦隊司令長官にならんかと言われている」

 米内光政海軍大臣は山本の盟友であり、海軍省軍務局長の井上成美を加えて海軍条約派(反三国同盟派)三羽烏と呼ばれていた。

「おめでとうございます。ご栄転ですね」

 肇の祝辞に、山本は顔をしかめた。

「よしてくれ。海軍が腐っていくのを何とかしたいのに、実務部隊ではなおさら動けん」

 だからこその異動なのだろう。了によれば、来年になると山本暗殺の動きも出てくるという。そうなると、今回のように光代を預かってもらうことも難しくなる。

「お父様」

 障子の向こうから可愛らしい声がした。

「澄子か。お入り」

 山本の長女だった。障子が開き、正座から立ち上がって部屋に入り、座って障子を閉じると、肇に向かって丁寧にお辞儀をした。肇も返礼する。さすがは軍人の家庭だ。うちも見習わなければ。

「どうしたね?」

 父の問いに、少女は答えた。

「光代ちゃんが、うちに帰りたくないと泣いております」

 肇はこめかみに手を当てた。

「迎えに行ってきます」

「それが良いだろう」

 山本に辞して、澄子に連れられて子供部屋へ向かう。部屋の真ん中に突っ立って、光代は大口を開けて泣いていた。

「みつ……」

 名前を呼びきらないうちに、飛びついて来た。

「さみしかったんだからぁ!」

 なんという天邪鬼な。

 泣き疲れて寝てしまった光代のために、山本はタクシーを呼んでくれた上に、代金まで手渡してくれた。

 夕闇迫る中、光代の寝顔を見ながら、例の世界一周の試験航海に参加しなくて良かったと思う肇だった。

挿絵(By みてみん)


登場人物紹介


実在する人物には【実在】としています。


平野平弥太郎ひらのだいら やたろう

海底軍艦「わだつみ」機関長。

長年、幾多の艦船の機関長を務めたベテラン。海底軍艦の原子炉は初号機から扱っている。


滝沢仁たきざわ ひとし

海底軍艦「わだつみ」機関部員。

最年少で、少々お調子者のムードメイカー。


山本澄子やまもと すみこ

【実在】山本五十六の長女。


次回 第二十話 「不安と緊張」


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