第十四話 少女と船
昭和十三年二月。石動肇は、娘の光代と共に青山墓地を訪れた。亡き妻、由美の三回忌の法要だった。あれから二年、光代は次の秋で九歳になる。
二人で墓石を掃除し、花を添え、線香を焚いた。
光代が父の袖を引いて言った。
「お父さん、これからどうするの?」
肇は膝に手をついて腰をかがめ、娘に視線を合わせた。娘と話すときは、なるべくこうすることにしている。
「山本さんのところに行く約束なんだ」
光代はにこやかに言った。
「ツルピカおじさん? わーい、大好き!」
了の歴史では帝国海軍一の名将とうたわれた山本五十六も、光代にとっては「禿げ頭の優しいおじさん」だった。実際は短く刈り込んでいるだけで、剃髪しているわけではないのだが。
その山本も、今はまだ海軍大臣に次ぐ海軍次官であり、軍人というより事務方のまとめ役に近かった。了の予言では来年、連合艦隊司令長官を拝命することになる。
土曜日の昼下がりということもあり、自宅を訪ねると子供好きな山本は歓迎してくれた。
「おお、光代ちゃんよく来たね。お饅頭があるよ」
自ら茶を入れて出してくれた。無邪気に饅頭を頬張る光代を横に、肇は山本に言った。
「山本閣下と出会ったのは、ちょうど三年前でしたね」
肇は地方からの帰りの列車で、偶然を装って山本の相席に座った。もちろん、了の情報による計画である。
「ああ、あれは前年に行われた第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉に、海軍側首席代表として参加した帰りだった。本国にいる連中の理不尽な態度に翻弄され、すっかり嫌気がさしていたものだ」
この時、山本はほとんど海軍を辞めるつもりでいたという。
「君の話に乗せられて、この国もまんざらではないと思ったよ」
肇は数社の技術顧問という肩書で、この時は山本にこの国の先端技術について、軍事秘密すれすれのところまで熱く語った。山本は次第に引き込まれていったようだ。
その後、何度か会っては戦術や技術の話に花を咲かせた。由美が他界してからは光代を連れて出歩くことが増え、光代は山本になついた。
特に、山本の航空主兵論にかんしては激論となった。
「大艦巨砲はもう古い。碌に当たりもしない砲弾を打ち合うより、航空機で肉薄して落とせばいいだけのこと」
「前段は完全に同意ですが、後段は疑問です」
肇は反論した。
「航空機は数の争いとなります。こちらが百機で攻めても、相手が二百機を出して来たらひとたまりもありません」
山本も引き下がらない。
「なら、こちらは三百機を用意すればいい」
「相手の国によりけりです。アメリカが相手なら、彼我の工業生産力と人口の差は決定的です。何よりも、貴重な搭乗員を大量に消耗する戦術は、国を危うくします」
「では、どうすれば」
「より遠方から攻撃できる、長魚雷などの武器を開発すれば」
「そもそも帝国海軍の今日あるは、肉迫必中の伝統的精神にある!」
バン、と卓を叩くと、光代が耳を塞いで縮こまった。途端に、怒りには水が差される。
天真爛漫に育っているようで、やはり母親の死は影響を及ぼしているのだろう。肇との約束は素直に守る。この時も話の間はおとなしくしていた。そうした健気さを前にすると、大人として感情のままに振舞うのは居心地が悪くなる。
「ずるいな、石動君は」
照れ隠しに笑うしかない山本だった。
そんな昔の議論を思い出しながらしばし語り合った後、肇は切り出した。
「実はこの後、お見せしたいものがあるのですが。ご都合はいかがですか?」
山本が興味を示さないはずがなかった。
肇は山本から電話を借りた。やがて迎えの車が山本邸の前に止まり、光代も含め三人が乗り込んだ。行く先は三菱重工の横浜船渠だった。
「ほう。船渠の大規模改修と聞いていたが」
山本の言葉に肇は答えた。
「船渠だけでなく、吃水の深い船も作れるよう、沖合まで浚渫して水深を増したり、色々やってました」
「色々」のところを強調する。
「あ、平賀のお爺ちゃん」
光代が駆け寄る。平賀譲、三菱重工造船部の技術顧問だ。仕事においては「平賀不譲」と呼ばれるほどの頑固者だが、子供には弱い。光代は気難しい大人同士の潤滑剤となってくれている。
「光代ちゃん、よく来たね。おや」
平賀は眼鏡を直して肇の傍らの人物を見やった。
「山本海軍次官殿。今夜の進水式へご出席ですか」
「進水式?」
山本は肇を見た。
「百聞は一見に如かず、です」と肇。
平賀の案内で、造船所の中を奥へと進む。第一船渠は工事中ということで、全体に帆布製の天幕が被せられていた。四人は階段を下りて、その下へと入っていく。
「これは……」
山本は息を呑んだ。
「おっきいクジラさん!」
光代は叫んだ。
天幕の下、船渠の底に鎮座していたのは、巨大な流線型の物体だった。巨鯨、という呼び名は嵌りすぎかも知れない。こちらに艦首を向け、上面を黒く腹側は赤く塗られたその船体は、優に百メートルはある。
船渠のやや上方、船体を見下ろす高さに、京都の清水の舞台のような段が設けられ、そこからさらに階段が船渠の底まで続いていた。それを下りつつ真正面から見ると、断面は円筒形ではなく横幅の広い扁平な形状で、こちらも差し渡し二十メートルはあった。
「海底軍艦、と私たちは呼んでいます。水中排水量二万トン。一昔前の弩級戦艦並みですから、それだけの風格はありますでしょう」
平賀は山本に向かって語った。山本は頭上にのしかかるような艦首をただ見上げるだけだった。
「こんなものを……一体どうやって」
肇は答えた。
「予算でしたら、高橋蔵相の置き土産です」
二年前のまさに今日、凶弾に倒れた故人の名を告げた。肇が直談判し、大恐慌脱出の財政出動の一環として確保した予算が、原資となったのだった。
その年の春が、この艦の起工式となった。
山本は滑らかな曲線を描く艦首を見て言った。
「この形、まさか」
水中での速度だけを求めた形状。笑顔を浮かべ、肇は告げた。
「そうです。この艦は一旦出港したら、帰港するまで浮上しません。ずっと水面下を航行します」
山本は振り向いた。
「動力は?」
「原子力です。理論上は、潜航したまま補給なしで世界を何周でも回れます」
つい先日、独逸の科学者が核分裂反応発見の発表をしたばかりだった。
二人の会話に、平賀が割り込んだ。
「お話し中済みませんが、お時間ですので上の舞台までお戻りください」
舞台の上には艦首に向かってパイプ椅子が並べられ、その前にちょっとした演壇が設けられていた。椅子には何人かの初老の男性が座り、肇たちを待っていた。光代もその一つに座らせられた。
やがて、肇が演壇に立ち、簡単な挨拶のあと、壇上に光代を呼び寄せた。
「僭越ながら、娘の光代に命名の務めをさせたいと思います」
異議は無かった。集まったのはこの艦の建造に関わった企業の重役で、全員、光代に「籠絡」されていた。
肇に渡された紙を広げ、光代はマイクに向かって読み上げた。
「めいめいする。かいていぐんかん、いちばんかん」
肇の手が、光代の肩に置かれた。
「わだつみ!」
十数名のささやかな拍手。こうして、極秘のうちに「わだつみ」は進水した。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
山本五十六
【実在】海軍次官。
本編でも後に連合艦隊司令長官として活躍する。
平賀譲
【実在】工学者。艦船設計。
史実では戦艦大和の設計主任となる。
本編では海底軍艦「わだつみ」の開発を担当する。
次回 第十五話 「船と人」




