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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第一部
13/76

第十三話 慟哭の雪

 光代は満六歳になり、来春には尋常小学校に入学となる。ランドセルも買い、初登校を楽しみにしていた。昭和十一年の二月は、石動家にとってそんな平和な時だった。

 I計画の方も順調で、先日は砥論の最新版を見せてもらった。和文タイプライターと組み合わせることで、漢字も打てるようになっていた。ただ印字速度が遅く、まだまだ改良の余地があるとのこと。

「でも、漢字はどうやって入力するんですか?」

 肇の質問に、研究者の青年は答えた。

「漢字の読みを仮名で打って、砥論に変換させます。暗号理論の簡単な応用です。使うにはちょっと慣れが必要ですけどね」

 軍部では内密に、砥論を扱える操作員を養成しているという。軍の最高機密であるにも関わらず、砥論人口はかなりの数になっている。暗号文も、全て砥論に統一された。さらに、近年中に軍の専用回線で日本中の砥論が結び合わされ、通信網が構築されるとのことだ。こうなると、本部で命令書を作成した時点でそれらが各部隊まで行き渡るし、各部隊の報告がすぐに本部で集計される。

「そうなると、砥論も何種類か必要になってきます」

 研究者が言うには、用途と性能に応じて次のように分かれるという。

 軽砥論 トランクに収まる可搬型。漢字は使えないが、暗号文の作成と復号に特化。

 中砥論 拠点用。キャビネットサイズの据え置き型。漢字が使用可能。計算処理など多用途。

 重砥論 本部用。キャビネット複数台分。大容量。

「さらに、機器制御に特化した微砥論も考えています」

「機器制御ですか」

「はい、色々な機器に組み込んで使います」

 これもまた重要機密になるが、海軍の酸素魚雷に使われるのだという。距離や深度、信管の感度などのほかに、敵艦を追尾することも考えているらしい。

「独逸も似たようなことをやってますが、こちらの方が頭のいい魚雷になるでしょうね」

 ただ、気になる点があるという。

「みんな、砥論を略して、トロって呼ぶんですよ。中トロなんて、寿司ネタじゃないんだから」


 そんな状況を一変させたのは、月末が近づいた二十五日の夜だった。定期連絡で了が告げたのだ。

(明日の未明、陸軍若手将校が蜂起する)

「また……五・一五事件のような?」

(それ以上だ。今回は単なる要人暗殺ではない。本格的に、国家転覆を狙っている)

 緊張の余り、布団の上に起き上がった肇の背中に、手が置かれた。由美だ。

「今度は、誰が犠牲に?」

 了はしばし沈黙したのち、答えた。

(岡田総理は難を逃れる。反乱軍も二十九日には鎮圧される。その間、家族の安全を最優先して……)

「誰が殺されるんです?」

 肇は繰り返した。了は沈黙した。

「教えてください、誰が殺されるんですか?」

(反乱軍の目的は、君側の奸臣を討つことだ。そうして陛下の名の下に理想の国家運営をしようと)

「だから、誰が、殺されるんですか?」

 しばしの沈黙の後、了は答えた。

(鈴木貫太郎侍従長、斎藤寛内大臣、渡辺錠太郎教育総監、そして……)

「高橋是清蔵相、ですね」

 肇が確認すると、了が頷くのが感じられた。やはり。

「予算が原因でしょうか」

 恐慌から脱した日本は、好景気が行き過ぎ、今や物価が上がりすぎてきたところだった。このインフレを抑えるため、高橋蔵相は大胆な予算削減を断行した。その中には当然、軍事費も含まれる。

(そう、伝えられている)

 やはりか。

「……その……凶行は何時ごろですか」

(聞いてどうする?)

「知っていたいんです」

 沈黙は、ためらいだろうか。

(朝の五時過ぎだったと言われている)

「そうですか」

 肇は柱腕時計を見上げた。十一時。あと六時間。

(肇)

「わかってます。家族を守る。それが最優先です」

 しばらくして、接続は切れた。

「肇さん……今のは」

 肇は由美を抱き寄せた。

「高橋先生が、明日の早朝、殺される」

 由美は息を呑んだ。肇は言葉を続けた。

「ほかにも何人も」

「どうにもならないんですか」

 肇は頷いた。

「さあ、今日はもう寝よう」

「眠れません」

「……俺もだ」

 そう言いつつ、肇は明りを消した。

 横になっても、眠れないのは分っていた。


 枕もとの腕時計を手に取る。文字盤の夜光塗料で見ると、午前三時。傍らの由美は眠っているようだった。静かに起き出し、着替える。身を切るような寒さだった。

 やはり、分っていて見殺しにすることなどできない。高橋是清には恩義もあるし、何より、これからの日本に絶対に必要な政治家だ。

 外に出ると、ものすごい雪だった。電車も地下鉄も始発前で停まっている。玄関に施錠すると、コートの襟を立てて肇は雪をかき分け急いだ。


 由美は玄関のしまる音で目覚めた。

「肇さん?」

 隣を見ると、寝床は空だった。

 寝室を飛び出し、玄関に向かう。壁にかけてあった肇のコートと、靴がなかった。鍵を開けて外へ出ると一面の雪。

「肇さん!」

 思わず外に飛び出すと、突然まばゆい光に包まれた。あっと振り向くと大型の軍用トラックが目前に迫っていた。


(肇!)

「うるさい、黙れ!」

(肇! 戻るんだ!)

「高橋先生を見殺しにするのは、I計画の予算も削られるからじゃないのか?」

 雪のせいでなかなか進めない。両耳をふさいだまま急ぐ。だが、了の声が響くのは脳裏だった。

(肇! 今日死ぬのは、高橋是清だけではない)

「それは聞いた! ほかにも政治家や……」

(肇。お前の一番大切な人は、誰だ)

 脚が止まった。

「何を……いったい」

(肇。戻るんだ)

 踵を返して、雪の中を走り出す。何度も滑って転んだ。それでも、走る。走る。

 走り続けて家の前にまで戻る。薄暗い街灯の下、由美は倒れていた。朱に染まった雪がくすんで見えるのは、その上にさらに降り積もったからか。

「由美……」

 その場に跪き、抱き起す。由美はうっすらと目を開けた。

「……肇さん」

「由美、今、医者を呼ぶから」

「待って」

 か細い声だった。

「今、了先生、いらっしゃる?」

「ああ……いるよ」

「代わってもらえる? 大事なことなの」

「でも」

「お願いします」

 肇は目を閉じ、再び開いた。

「由美さん」

 由美はかすかにほほ笑んだ。

「了先生……私、先生の奥さんには成れなかったけど、幸せでした」

「由美さん……」

「でも私、成れたんですよね。先生の……」

 了は頷いた。

「やっぱり」

 由美は再び微笑んだ。

「良かった。私、肇さんと先生を、つなぐことができた……」

 がふっとむせると、鮮血が飛び散った。

「由美さん」

「肇さんと……代わってください」

 頷くと了は目を閉じた。目を開くと、肇は叫んだ。

「由美!」

「肇さん、大好き」

 血の気が失せた細い腕が上がり、肇の頬を撫でた。

「光代を……お願いします」

 由美の目が閉じ、がくりと身体から力が抜けた。

「由美! 由美!」

(肇)

「うるさい!」

(済まないが、私にはやるべきことがある)

 強制的に体を奪われ、肇は意識を失った。


 身体を返され意識が戻ると、自宅の寝室だった。目の前には、由美の亡骸がきちんと横たえられていた。その体にすがるように光代が寝ており、上から布団が掛けられていた。

 外はうっすらと明るい。高橋是清は殺害された後だろう。結局自分は、恩人も、家族も、守れなかった。

(肇)

 脳内の呼びかけにも答える気にならなかった。

(隣家に事情を話して、由美さんのことをお願いした。後で礼を……)

「うるさい」

(肇)

「いつから知っていた? 今日、由美が死ぬことを」

 沈黙。しばらくして了は言った。

(君たちが結婚すると聞いて、もう一度、祖母の日記を調べていた時だ)

 そうだった。了は肇の子孫であるはずなのだ。

「じゃあ、結婚を急がせたのも」

(私の祖母……光代の誕生日に合わせるためだ)

「全部知ってたのか」

 再び沈黙。

(肇。君は悲惨な未来を知ったら、変えようと努力するか?)

「当たり前だ」

(なら、光代を守ってくれ)

「……当たり前だ」

(今だけでない。十年後もだ)

「何を……」

(祖母の日記の最後の方は、ボケ防止と言って幼いころからの記憶がつづられていた)

 了は言いよどんだ。

(しかし、戦争末期から戦後にかけての二年間だけ、記述がなかった)

「え……?」

(戦争末期、お前にも召集令状が来た。そこで途切れ、記述が再開したとき、お前の名前は靖国にあった)

 俺は戦死するのか。

(祖母は、光代は、すでに私の父を産んでいた。祖父にあたる男の名前はどこにもない)

 母親の亡骸にすがって眠る光代。戦争が終わるという昭和二十年には、数えで十七歳のはずだ。敗戦国で親をなくした十代の少女がどうなるか。考えるまでもない。

(光代を守ってくれ。陰惨な未来から)

「わかった」

 そんな未来、変えずにいられるか。

 そこで、肇は気づいた。

「了。あんたはさっき言ったな、やるべきことがあると」

(ああ。陛下に会ってきた)

 最初の年以来のことだ。

(この二・二六事件は、私が知る物よりも少しだけ早く収まるはずだ)

「そのあとは?」

(そのあとは、計画を全力で進める。手札は全てそろった)

「そうか」

 光代の泣きはらした寝顔を見ながら、肇は誓った。

 この子のためなら、どんなことでもする。


次回 第十四話 「少女と船」

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